「二度目の誕生」
2010年1月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙一 1章3節~12節
信仰による誕生
今日はペトロの手紙をお読みしました。その中に「新たに生まれる」という表 現が出て来ます。3節です。明らかにペトロ自身、新たに生まれた人として、二 度生まれた人として、これを書いています。いや、ペトロだけでなく、「わたし たち」と言うのですから、これを受け取る人々もまた二度生まれた人たちである ことを前提にこれを書いているのです。
聖書によるならば、人は二度生まれることができます。一度目の誕生は、通常 の意味における誕生です。毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生の ことです。私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。誰かを親とする家族の 中に生まれてきます。もちろん、実際にはその親が親としての役目を果たさず、 家族が家族としての機能を果たさず、親も家族をも知らないで育つということは あり得ます。しかし、いずれにせよどのような形であれ、私たちは必ず誰かの子 として生まれてくるのであるし、家族の中に生まれてくるのです。そのようにし て私たちはこの人生をスタートする。これが一度目の誕生です。もちろん、その 誕生は私たちすべてが経験しています。だから私たちは今、この世に存在してい るのです。
この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、 聖書によるならば、人はもう一度誕生することもできるのです。二度目の誕生。 それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートします。一 度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕生に おいては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、 この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中 にいるわたし」が生まれます。神の子供として、私たちはイエス様が教えてくだ さったように、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。神の家族 として、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。そのようにして、 私たちは二度目の誕生によって始まるもう一つの人生を生きていくのです。それ が「信仰生活」です。この二度目の誕生、そしてそこから始まる信仰生活につい て、今日はペトロが書き送っている手紙から、特に三つのことを心に留めたいと 思います。
神の憐れみによる誕生
第一に、それは「神の憐れみによる誕生である」ということです。3節に、 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」と書かれていると おりです。
先ほど、「二度目の誕生においては、『神の子供としてのわたし』が生まれま す」と簡単に申し上げましたが、実はそれほど単純ではありません。ペトロはこ の直前であえて「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と言っている のです。イエス様が「父よ」と呼んでおられた神です。その神様を、イエス様と 同じように「父よ」と呼べることは、決して自明のことでも当然のことでもあり ません。私たちは第一の誕生において始まった人生において、神に背きながら生 きてきたのです。神の目に悪とされることを行って生きてきたのです。第一の誕 生において始まった人生が死という終わりに至るまで、私たちは罪と過ちを繰り 返し、悔い改めを繰り返しながら生きていくであろうことをも知っているのです。 どう考えても「神の子供」としては相応しくない。それが私たちです。
そのような私たちが神の子供にしていただけるとするならば、それは一重に神 の憐れみによるのです。私たちの罪を赦してくださる神の豊かな憐れみによるの です。そして、神の憐れみは具体的な形を取って現された。神は独り子を世に遣 わされた。罪なき御子を私たちの罪を贖う犠牲とされたのです。イエス様は、 「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと言ってくださった。それは神の憐れ みを知っている方の言葉です。神の憐れみの現れとしてこの世に来られた方の言 葉なのです。神の憐れみの現れとして、十字架にかかるためにこの世に来られた 方の言葉なのです。
二度目の誕生。それは神の憐れみによる誕生です。ですから二度目に誕生する ためには、神の憐れみを信じるということがどうしても必要なのです。キリスト を信じ、キリストの十字架において現された神の憐れみを信じることがどうして も必要なのです。そこからこそ、「神の子供としてのわたし」「神の家族の中の わたし」としてのもう一つの人生は始まるのです。
生き生きとした希望への誕生
そして第二に、それは「生き生きとした希望への誕生である」ということです。 3節に出て来ます「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という 言葉です。味わい深い表現です。わざわざ「生きている希望」と書かれているこ とは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということ です。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命が あり、もう一方には命がありません。希望にも命のある希望と命のない希望があ るようです。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そ のような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。
枯れない希望。命ある希望。生きている希望。それは神から来るのです。人間 が絶望することはあっても、神が絶望することはないからです。人間から見て終 わりであっても、神にとっては終わりではないからです。人間にとってピリオド であっても、神にとっては一つのカンマに過ぎないからです。神はその事実をはっ きりと現してくださいました。ペトロはその証人です。ペトロはキリストが十字 架で死んで終わりではなかったことを知っているのです。キリストは復活した。 ペトロは復活の証人です。人間にとっては決定的な「終わり」である死であって も、神にとって「終わり」ではないのです。その先へと続くのです。いや、むし ろそこから始まるのです。神様は終わりを始まりにすることのできる御方です。
そのような御方を「父」と呼んで生き始める。しかも罪を赦された者として、 憐れみを知る者として、神を「父」と呼んで生き始める。そのような父に信頼し て、どこまでも信頼して生き始める。それが二度目の誕生です。一度目の誕生し か知らなければ、人は死に向かって生きるしかありません。先細りになっていく 人生を見つめながら、あるいはそこから目を逸らしながら生きるしかありません。 一方、二度目に誕生した人は死に向かって生きるのではありません。死は終わり ではないことを知っているのですから。その先に向かって生きるのです。神から 来る希望、命ある希望、生きている希望、生き生きとした希望に生きる。それが 二度目の誕生から始まるもう一つの人生です。
試練の中で真価を発揮する誕生
そして第三に心に留めるべきことは、二度目の誕生から始まるもう一つの人生 が、試練の中でこそ真価を発揮するということです。それはある意味では当然の ことでしょう。試練の中においてこそ、特に人生最後の試練においてこそ、その 人の内に本当の希望があるのかないのか、その違いがどうしても現れてくるので すから。
実際、ペトロの手紙を受け取った人たちは試練の中にあったのです。迫害とい う試練を経験していたのです。それは時として命を脅かされるという試練だった のです。ペトロはその現実を知っているのです。「今しばらくの間、いろいろな 試練に悩まねばならないかもしれませんが」(6節)と書いているとおりです。
しかし、ペトロは知っているのです。そこにおいて、本物が本物として輝き始 めることを。あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明されるのだ、と 彼は言うのです。言い換えるならば、二度目の誕生によって始まったもう一つの 人生の真価が、試練において明らかにされるのだということです。それが「火で 精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊い」ことが明らかにされるの です。暗ければ暗いほど、灯の光は輝く。光は闇よりも強いことが明らかになる のです。
しかし、もう一方において、現実に教会と共に生きている一人の牧師として、 わたしはこんなことを想像いたします。試練が続くなかで望みを失いかけている 人たち、苦しみが続く中にあって信仰を揺さぶられる人たちもきっといたに違い ない。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」とペトロは書いて いるけれど、現実の教会には、試練に揺さぶられて、喜びが吹き飛ばされてしまっ ている人もいたのではないだろうか。「私には本当は信仰なんてないんじゃない か」と、そう思ってしまう人たちもいたのではないだろうか。
そのようなことを考えますときに、私はペトロがここであえて「試練の中で偽 物が偽物として証明されるのだ」という言い方をしていないことに心を惹かれま す。「クリスチャンと言いながら実は信仰なんてない偽物は試練において明らか にされるであろう」というようなこと、ペトロは言ってませんでしょう。
大事なことは、「わたしは偽物なんじゃないか」などと言って悩みにさらに新 たに悩みを加えることではないのです。そうではなく、二度目に生まれてもう一 つの人生を生きているのだという事実に目を向けることなのです。ですから、ペ トロはまず神様を誉めたたえながら、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを 新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生き とした希望を与え」というように神がしてくださったことを語り、そこに目を向 けさせようとしているのです。そうです、本当に目を向けなくてはならないのは、 そこなのです。具体的には洗礼を受けて、信仰生活をスタートさせたという事実 にこそ目を向けなくてはならないのです。二度目に生まれて、神を父として、神 の家族の中に生き始めたのだという事実にこそ目を向けなくてはならないのです。
既に生き生きとした希望は与えられているのです。試練の中において輝き出す もの、力を発揮するものを既に与えられているのです。朽ちる金よりはるかに尊 いものを既にいただいているのです。だから本当は試練などに負けないのです。 苦しみなどに負けないのです。死にも負けないのです。そのようなもう一つの人 生を与えられているのです。ならば神の憐れみによって二度目に生まれたことを 大切にして、とことんそのもう一つの人生を生きたらよいのです。せっかく神の 子供とされていながら、父を呼ぶことを止めてしまっていたならば、もう一度父 を呼んで生き始めたら良いのです。神の家族の交わり、その食卓における聖餐か ら遠ざかっていたならば、もう一度その中に身を置いて生き始めたらよいのです。 神の言葉に耳を傾けることを疎かにしてきたのなら、もう一度父の御心を尋ね求 めて生き始めたらよいのです。私たちには、一度目の誕生だけでなく、二度目の 誕生が与えられているのですから。