「キリストの証人」
1996年5月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒一・一‐一一
本日の礼拝から使徒言行録を読み始めます。始めに一節と二節をご覧ください。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」既に書かれている第一巻とはルカによる福音書のことです。ルカによる福音書には、「イエスが行い、また教え始めてから、…天に上げられた日までのすべてのこと」について書かれていたと言うのです。もちろん、イエス様が行い、教え始められたことは、イエス様が天に上げられて終わりました、ということを言っているのではありません。その後に、この第二巻では、「イエス様が天に上げられた後、聖霊を通して、弟子たちの中において、行い、教え続けられたことを著します」ということを、ルカは言いたいのだと思います。
本日は、その冒頭の一一節までをお読みしました。そこにはキリストの復活から昇天までが記されています。これはルカによる福音書に書かれている範囲のことです。まだ、使徒言行録の主たる内容に入っていません。しかし、復活から昇天までの間にキリストがされたことは、その後の使徒たちの働き、教会の姿を理解する上で非常に重要な意味を持っております。そして、それは、現代のこの世界におかれている私たちの教会が何であるか、キリスト者とは何であるかを正しく理解することにもなるのです。復活のキリストは昇天までに何をされたのでしょうか。今日は二つのことだけに注目したいと思います。
始めに三節をご覧ください。「キリストは御自分が生きていることを数々の証拠をもって人たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」第一に、キリストが「神の国について話された」という興味深い記述に注目したいと思います。これは、教会がどこを見ていなくてはならないか、その働きを考える時にどこに焦点が絞られていなくてはならないか、ということを明確に示しています。それは「神の国」なのです。教会はいつも「神の国」を思っていなくてはなりません。第一巻であるルカによる福音書を読みますとその理由がよく分かります。キリストの宣教の中心主題は「神の国」でした。イエス様が 「行い、また教え始めて」いたことは、すべて「神の国」を指し示していたのです。イエス様は言葉と行いによって「神の国」を語っていたのです。そして、それがまた教会を通してキリストの継続しておられることなのです。
「神の国」それは、直接的には「神の支配」を意味します。それはまず第一には私たちが待ち望むべき、来るべき世への希望です。神の国の希望、天国の希望とは、神様のみが完全に支配しておられる世界への希望です。神様だけが支配するところですから、そこには罪がありません。そこには死がありません。病気がありません。悲しみがありません。嘆きがありません。悪の力は滅ぼされて、そこにはありません。神の国は、神様だけが御支配くださるから素晴らしいのです。この世は罪と死の力が支配する世界です。この世には嘆きがあり、不条理があり、悪が支配し、悲しみが満ちています。ですから、基本的には、神の国の希望はこの世ではなく、来るべき世への希望であります。
しかし、キリストは単に遠い希望として神の国を語られたのではありません。キリストは言われました。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(ルカ一一・二〇)」さらに、 「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ一七・二一)」と言われました。キリストがなされた癒しの業、様々なしるしと奇跡は、神の国の到来を示すものでした。キリストはその行為と言葉によって神の国が既に来ていることを示されたのです。それはすなわち、人は神の国を希望として待ち望むだけではなくて、既にこの世にありながら神の国に生きることができるということなのです。神の恵みの支配のもとに生きることができるのです。神との交わりに生きることができるのです。
そのように、キリストは神の国の希望を語り、神の国の到来を示されました。そして、キリストの救い主としてのお働きは、人を神の国へと入れることに他ならなかったのです。そして、そのために、苦難のメシアとして歩むことは、神の定め給うた必然でありました。なぜなら、人は、そのままでは決して神の国に入ることは出来ないからです。神の国が、神様だけが支配するところでありますならば、罪人はそこに入ることはできません。なぜなら、神のもとに罪人が行くということは、すなわち裁きを意味するからです。人が神のもとに立ち帰り、神の国に生きるためには、キリストが罪の贖いとならなくてはなりませんでした。罪を赦されることなくして、誰も神の国に入ることはできないからです。それゆえに、ルカによる福音書の最後の部分にはこう書かれているのです。ルカ二四・四五節以下をご覧ください。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ二四・四五‐四九)」さて、この部分が、本日お読みしました使徒言行録の冒頭に対応していることはすぐに分かります。このように、復活のキリストは 使徒たちに神の国を語られ、そこに人が入れられるために、メシアが苦難を受け、復活したこと、そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、その受難のメシアの名によって宣べ伝えられるべきことを語られたのであります。
教会は、その「神の国」から目を離してはならないのです。教会が関わっているのは、ただ単に人々の精神的な必要、肉体的な必要を満たすことではありません。神の国のことに関わっているのです。神と人との関係に関わっているのです。人間の永遠の救いに関わっているのです。繰り返しますが、キリストの奇跡、例えば癒しの業は、その神の国の到来を指し示す「しるし」なのです。これから読んでいきます使徒言行録にも、沢山の癒しの奇跡が出て参ります。そして、それは決して二〇〇〇年前の特殊な出来事ではありません。歴史上の教会にも多くの奇跡の記録が残っています。現代においても、世界的に見るならば、癒しやその他の奇跡はキリスト教会において決して珍しい事ではありません。この一月に私が訪れましたイギリス国教会に属するブロンプトン聖三一教会(Holy Trinity Brompton)においては、そのような癒しの奇跡は毎週のように起こっていました。恐らく日本においても、そのようなことが決して珍しくなくなる時がやがて来るでしょう。しかし、それらは「神の国のしるし」なのだ、ということを決して忘れてはならないのです。癒しを売り物にする新興宗教のように癒しそのものを救いであると言ってはなりません。たとえ不治の病が癒されても、その人が神の国に入れられるのでなければ、神との関係、神との交わりを失っているのであるならば、その人に真の救いはないのです。依然として失われた者であり、真の命を持たない滅びゆく者だからです。教会の目はいつも、そのキリストの語られた神の国に向かっていなくてはなりません。そして、その宣教の中心は、罪の赦しを得させる悔い改めがキリストの名によって宣べ伝えられるところにあるのです。「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われている通りです。
次にキリストは、弟子たちが聖霊を待ち望むべきことを命じられました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」その後、キリストはさらに次のように言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(八節)」彼らはエルサレムに留まりなさい、と言われました。彼らは待たなくてはなりませんでした。なぜでしょうか。キリストは数多くの証拠をもって、御自分が生きていることを使徒たちに示しました。彼らは復活のキリストに出会ったのです。それは、非常に深い宗教的な経験であると言えるでしょう。であるならば、なぜそれだけではキリストの証人となることはできないのでしょうか。彼らは、復活のキリストから直々に神の国について教えられました。聖書を悟るように心の目を開かれ、聖書がキリストについてどのように語っているか、なぜキリストが苦難を受けなくてはならないかを教えられたはずです。それだけで、どうしてキリストの証人となることができないのでしょうか。なぜ、彼らはすぐに出て行って宣教の働きを為し得ないのでしょうか。
しかし、キリストは言われるのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、…わたしの証人となる。」キリストの証人となるには、力が必要なのです。どれほど特殊な宗教的な経験も深い神学的な洞察も、それらが人をキリストの証人にするのではないのです。力が必要なのです。そして、その力は、神から来る力であり、聖霊によって臨む力です。聖霊とは神の霊であり、キリストの霊です。つまり、神様御自身が私たちの内に来られて生きて働き給うところに、私たちをキリストの証人とする力があるのです。それゆえ、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」という、大変短い文に、教会の本質が鮮やかに現されているのです。教会は、ただ単に神様からなにがしかの務めを託されて、それを遂行するという存在ではありません。教会の本質は、その内に、神の霊が主体となって働き給うところにあるのです。キリストがその内に生きて働き給うところにあるのです。キリスト者はただ単に務めを託されて「がんばってそれを遂行しなさい」と言われているのではないのです。キリスト者は、神の霊に満たされることによって、その人生を通して、キリストが生きて働き給うことを期待すべきです。証人となる力を与えるのは聖霊であり、生きて働き給う復活のキリストなのですから、その人に能力があるかないかは問題ではありません。若いか年寄りか、元気か寝たきりであるかということは問題ではありません。使徒たちは「無学な普通の人(使徒四・一三)」と呼ばれました。しかし、聖霊の力は彼らをキリストの証人となしたのです。そこに、私たちもまた、ただひたすら聖霊に満たされることを求め、祈り、期待し、待ち望むべき理由があるのです。
聖霊に満たされ、証人となる力を与えられるために、使徒たちはエルサレムに留まらなくてはなりませんでした。キリストがエルサレムに留まれと言われたのです。そこは、彼らの挫折の場所であります。「イエス様のためには命さえも捨てます」という思い入れが挫折した場所であります。裏切った場所であります。そして、強大なユダヤ当局の宗教的権力が支配しているところです。彼らがどんなに頑張ったところで、何も為し得ないゴミのような存在であることを、認めざるを得ない場所であります。彼らが徹底して謙らされる場所であり、もはや神に期待し、待ち望み、祈ることしか為し得ない場所なのです。そこに留まるようにと主は命じられたのでした。
同様に、確かにキリスト者は、どこかで自分の無力さと正直に向かい合わなくてはならないのだと思います。私たちが徹底的に謙らされる場所に留まることは時として必要なことなのです。生まれながらの肉の頑張りや努力がキリストを証しし、人を神の国へと導くのではないからです。神に祈り求め、委ね、自らを明け渡そうとしない人間の高ぶりこそが真の宣教を妨げるのです。そのことに気付かないために、キリストの証人として存在しているはずなのに、いつまで経っても相変わらず周りの人々はキリストに出会うことがなく、神の国からも遠いところにいるということがなんと多いことでしょう。使徒たちは都に留まって祈り待ち望みました。私たちはその意味をよく考えなくてはなりません。
さて、キリストはすべて語り終えますと、使徒たちの見ている前で、天に上げられていきました。これは神様の神秘に属する出来事ですので、現象としましては、どのようなものであったのかよく分かりません。しかし、確かに「昇天」と呼ぶべき出来事があったことは確かでしょう。なぜなら、それ以後、キリストは目に見える復活の主としては現れなくなったのですが、使徒たちは全く心配したり不安になったりすることはなかったからです。見えざるお方となったキリストは、彼らにとっては、さらに近い、さらに親しい、さらに確かなお方となったのでした。そして、また、キリストの昇天は、キリストがいと高き方となったことをも表しています。使徒信条にありますように「神の右に座し給えり」ということを意味しているのです。キリストが「天と地の一切の権能を(父なる神より)授かっている(マタイ二八・一八)」と言われたことを、昇天をもって現されたのです。事実、共に祈り、聖霊に満たされた彼らの内に、キリストがその権威と力をもって生きて働き給うて、初代の教会は形成されていったのであります。私たちは、追々、それがどのようなことであるかをこの書の中に見ることになるでしょう。私たちは、ここに見ます教会と同一線上に私たちの教会、私たちの信仰生活もあるということをいつも覚えながら、共にこの書を読み進んでいきたいと思います。