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「聖霊の満たし」

2006年5月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~13節

 今日はペンテコステの主日です。ペンテコステとは五〇日目を表すギリシャ語 です。ペンテコステは、もともとユダヤの大きな祭りでした。今日の聖書箇所で は五旬祭と訳されています。過越祭の後の最初の日曜日から丁度五〇日目に祝わ れた祭りなのです。それでペンテコステ(五旬祭)と呼ばれたわけです。本日お 読みしました箇所に書かれていたのは、今から約二〇〇〇年前のある五旬祭にお ける出来事です。

 一節から四節までをご覧ください。そこには次のように書かれています。「五 旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて 来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のよ うな舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊 に満たされ、 霊 が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(二・ 一‐四)」

 大変不思議なことが書かれております。イエス様の奇跡物語同様、これがどの ような現象であったのか、具体的にはよく分かりません。これはあくまでも神様 の神秘に属することでありますので、分からなくても仕方ないことだと思います。 いずれにせよ、風や火が神の霊を象徴していることは確かです。そして、そのよ うな不思議な現象そのものよりも、彼ら自身の内に起こった、内的経験の方がよ ほど重要です。それを、聖書は、「一同は聖霊に満たされ」と表現しております。 彼らは神の霊に満たされたのです。神の霊の圧倒的な内的支配を経験したのであ ります。

 この五旬祭に起こった出来事は、キリストの語られた約束が成就した最初の出 来事として大きな意味を持っています。教会の誕生日とも言い得る出来事です。 しかし、聖霊の満たしそのものは繰り返されるべき出来事として語られておりま す。すぐ後の四章において、彼らは再び聖霊に満たされます。(四章三一節)そ して、聖書の中だけでなく、教会の歴史において、人々が聖霊に満たされるとい う経験は繰り返されてきたのです。ある時は、ここに見るように激しく、ある時 は静かに、ある時は会衆一同に、ある時は一人祈る個人において起こってきたこ となのです。それは、この日本においても、この大阪のぞみ教会においても、起 こって然るべきことなのです。何ら特別なことではありません。パウロもエフェ ソの信徒の手紙の中で次のように言っています。「酒に酔いしれてはなりません。 それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい(エフェソ五・一八)」。 要するに、これは私たちの誰もが求め、期待すべきことなのです。

 ですから、今日の箇所を読みます時に、単に「何がそこで起こったのか」と考 えながら読むことは、ある意味でこの箇所の正しい読み方ではありません。むし ろ、「何がそこから始まったのか」と問いながら読むべきであります。では、聖 霊の満たしによって何が始まったのでしょうか。そして、現代の私たちは同じ聖 霊の満たしによって何を期待することができるのでしょうか。

 まず第一に、ここに「一同は聖霊に満たされ、 霊 が語らせるままに、ほか の国々の言葉で話し出した」と書かれていることが私たちの目を引きます。「ほ かの国々の言葉」と言われているこのことは、聖書のほかの箇所では「異言(異 なる言葉)」と訳されています。これは後の教会も一般的に見られた言語現象で す。ある時は、この場合のように、ほかの人が理解できる言葉であり、別の場合 はパウロが「天使たちの異言(1コリント一三・一)」と表現しているように、 誰も理解できない言葉であります。それは、四世紀のアウグスチヌスの時代にも、 一六世紀のフランシスコ・ザビエルの時代にも見られましたし、もちろん現代に おいても見られることでありまして、何ら珍しいことではありません。

 しかし、ここで殊更に「ほかの国々の言葉」が語られたことについて記されて いることは少なからぬ意味を持っていると思われます。それは、旧約聖書に記さ れている有名なバベルの塔の出来事と関係していると思われるからです。  創世記の一一章一節以下に出てくるこの物語は、また「原歴史」と呼ばれる、 人間の罪深い本質を描写した部分のまとめともなっています。そこで、人々は 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と言うのです。そこで神 様は彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまわれた、 という単純な話しであります。そして、その町は「バベル」と呼ばれました。バ ベルという言葉は、混乱(バラル)という言葉から来ていると創世記は説明しま す。

 神様をそっちのけで、「天まで届く塔のある町を建てよう」という人間の姿は、 歴史を通じて少しも変わっていません。そこから互いの言葉が通じなくなり、混 乱が生じているのだという現実もそのまま現代に当てはめることができます。そ れは単に多くの国語があるという事ではありません。同じ国語を語りながらも言 葉が通じないということがあるからです。ある場合には親と子の間で意志が通じ ません。言い換えるなら、言葉が通じないのです。夫婦の間で言葉が通じません。 上司と若い部下の間で言葉が通じません。隣人同志の間で言葉が通じません。あ らゆる所に混乱が生じています。共に生きることができません。バベルです。そ して、それは人間の傲慢さから出た結果に他ならないのです。

 しかし、ここで、あのバベルの塔の出来事とまったく逆のことが起こっていま す。彼らは突然、異なった言葉を話し始めます。そして、神の言葉は、異なった あらゆる世界に入っていきます。異なった人々の中に入っていくのです。しかし、 彼らは一つです。異なる言葉を話しながら、もはやバベルではありません。圧倒 的な神様の御支配が彼らの心に訪れました。聖霊の満たしにおいて様々な違いは 克服され一つとされています。一つとなって共に神様を誉め讃えているのです。 そして、まさに、それこそが最初のペンテコステの出来事から始まったことなの です。

 先週の月曜日に、アメリカのフィラデルフィアに住んでいる人からの電子メー ルが届いていました。そこには、市の中心部にある教会に、何百という異なった 民族や人種の人々が共に集まり神様を賛美していると報告されていました。これ は決して当たり前のことではありません。驚くべきことです。かつて彼が見てい たフィラデルフィアは、彼の言葉によれば、「最も人種的に分断された都市」で ありました。厳しい現実です。彼は、白人の居住している地域に移ってきた黒人 女性が受けたひどい仕打ちを例にとって、説明してくれていました。もちろん、 人種が違っていましても人々は言語的には同じ言葉を話していたのでしょう。し かし、共に生きることができない。受け入れることができない。愛することがで きない。言葉が通じない。そのような世界です。しかし、そこに昨年の一二月か ら聖霊の驚くべき御業が始まりました。そして、それが継続しているというので す。その一端を報告してくれていたメールでありました。神様が聖霊の満たしを 通して、罪によって混乱し引き裂かれた世界に一致を与えようとしていてくださ る。その御業が始まっている。その御業を私たちは今日の箇所の中に見ることが でき、その継続を現代にも見ることができるのです。

 聖霊によって何が始まったのか。さらに二つのことを見ておきたいと思います。

 大勢の人々がこの物音に集まってきました。彼らは皆、五旬祭のためにエルサ レムに集まっていた人々です。その彼らがそれぞれ自分の生まれ故郷の言葉を使 徒たちから聞いたのです。人々はこう言って驚いています。「わたしたちの中に は、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、…クレタ、アラビアから来 た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こ うとは。(九‐一二節)」彼らが聞いたのは、「神の偉大な業を語っている」言 葉でありました。聖霊に満たされた人々から聞いたのは、神の御業を誉め讃える 賛美の言葉だったのです。

 人が神の御業だけに思いを向け、神の偉大な御業だけを誉め讃えるに至るとい うことは、決して自然なことではありません。人間は、どこまでも、神の業より も、自分の業の方に思いが向いているからです。それが通常の姿なのです。神様 が何をしてくださったか、ということよりも、自分が何をしたか、何を成し遂げ たかということの方にいつも関心があるのです。私たちは、しばしば、そのよう に自己を評価しますし、自分の人生を評価いたします。そして、それは教会の外 の話ではありません。それはいわゆる熱心なキリスト者、献身的なキリスト者に おいても同じなのです。いつでも、自分が神のために何をしたか、という自分の 業の方にしか関心がないのです。様々な場面で私たちが聞く「証し」なるものも、 多くの場合、神が何をしてくださったかではなくて、自分が神のために何をした か、という事しか語られていないことが多いのです。

 しかし、そのような自分の業に対する捕らわれから解放されることは、人にとっ てどれほど必要なことでしょうか。人生において大切なことは、私たちが何を成 し遂げたか、ではないからです。私たちにおいて、私たちを通して、神が何をし てくださったか、ということの方がよほど重要なことだからです。教会において 大切なことは、教会が神のために何を成し遂げたかではありません。神が教会に おいて、教会を通して、何を為してくださったか、ということが大事なのです。 そのようにして、私たちを、自己の行いへの固執から解放するのは、聖霊の満た しです。それ以外にありません。

 そして、聖霊に満たされた人々の内に、まことの解放と喜びがありました。あ る人々はそれを見て言いました。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている のだ。」確かに、解放され、喜びに満ちあふれている姿は、酒に酔っているかの ように見えたのでしょう。しかし、酒に酔うことと、聖霊に満たされることは根 本的に異なります。人は酒の力を借りて様々な捕らわれと重荷から一時的に解放 されることもあるでしょう。しかし、それは本質的な人間の解放をもたらさない ことは、多くの人の経験するところです。むしろ、酒に酔うことは、悪魔の力に よる多くの束縛をもたらすのが常なのです。そして、そこにある喜びは、頭痛と 共に消えていくようなものでしかありません。それは決して人生を根底から揺り 動かすような深い内的な喜びの経験とはならないのであります。本当の解放と喜 びの満たしは、聖霊の満たしにおいて初めて現実となるのです。

 さて、あのペンテコステの日に起こった最初の聖霊の満たしにおいて、いった い何が始まったのか、ということを私たちは見てきました。そこに一致がありま した。解放がありました。喜びがありました。まとめて言いますならば、神の国 の現れが、聖霊の満たしによって始まった、と表現することができるでしょう。 キリストにおいて見られた神の国の現れが、教会において、教会を通して、始まっ たのだ、ということであります。ここに見る、神の霊における一致も、解放も、 喜びも、神の国の現れの一部なのです。キリストによって贖われ、神の国を受け 継ぐ者とされるということが、どのようなことであるかを示しているのです。そ のような、いわばデモンストレーションを、教会において、教会を通して、神様 御自身が始められたということなのであります。それをパウロは次のように表現 しています。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたした ちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、 保証としてわたしたちの心に 霊 を与えてくださいました。(2コリント一・ 二一‐二二)」保証というのは手付け金のことです。後に完全に与えられるもの の一部を先に与えられているということです。聖霊に満たされて人は神の国を経 験いたします。神様が人の内に、教会の内に、神の国を現してくださるのです。 それこそが宣教の力です。単に言葉をもって、神の国を宣べ伝え、神の国へと招 くのではありません。聖霊の満たしにおいて、宣教の言葉がこの世における実質 を持つに至るのです。

 それはあの日から始まりました。今も継続しています。私たちが、神御自身を 慕い求め、神の霊に満たされることを切に求めることの重要性は強調しても強調 しすぎることはありません。私たちは、聖霊に満たされることによって、この教 会においても神の国の麗しさが豊かに現されることを期待したいと思います。

 
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