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「最初の信仰生活」

1996年6月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章37節~47節

 「邪悪なこの時代から救われなさい。(二・四〇)」そのように、ペトロは集 まっていた多くのユダヤ人たちに勧めました。「邪悪なこの時代」―そうペトロ が呼んだその時代は、多くの人には、他の時代に比べて殊更に邪悪で曲がった時 代には見えなかったかも知れません。しかし、その時代のただ中に十字架が立て られたのです。イエス・キリストが十字架にかけられました。この出来事を通し て、罪深い人間の本質が明らかにされました。それゆえに、その時代が「邪悪な 時代」と呼ばれています。そこで明らかにされたの罪深い本質とはなんでしょう か。それは、あくまでも神の恵みを拒否しようとする人間の傲慢さであり、頑な さであります。自分の生き方、自分の考え、自分の立場、自分の判断、その他も ろもろの「自分」に属するものにしがみつき、神の恵みの支配を受け入れようと しない、人間の頑なさであります。そのように恵みを拒否することによって、自 ら悲惨を招いている人間の悲しい現実が明らかにされた時代でもありました。神 の恵みによって治められることを拒む時、人はもろもろの悪しき力の支配のもと に存在せざるを得ません。人間が神なしで自立していると思っている時、実は大 きな誤解のもとにあるのであって、実はもろもろの罪の力と死の力の支配下にあ ることに気付いていないだけなのです。しかし、遅かれ早かれ気付く時が来るも のです。「邪悪な時代」―それは、光を拒んだとき、必然的にそこは闇になると いうことが明らかになった時代でありました。そうです、人は、あたかも太陽の 光が照り輝いている真昼に、部屋の中にこもって窓を閉め、カーテンを閉ざして 闇の中に生きるようなことをしてきたのです。その闇の深さを、私たちはキリス トの十字架において見るのです。

 「邪悪な時代から救われよ。」そのようにペトロは言います。あの邪悪な時代、 すなわちキリストが十字架にかけられた時代において明らかにされた人間の本質 は、その後幾世紀を経てもなお少しも変わっていません。結局、二千年近く経た 今日もなお、「邪悪な時代」であることには変わりないのでしょう。依然、光を 拒んだ闇の世界であります。私たちはそのような世界に、この時代においても生 きているのです。

 アルゼンチンにカルロス・アナコンディアという伝道者がいます。日本にも何 回か来ました。彼は、ボルトとナットを造る会社の経営者として、三十代前半ま でに大成功を収めた人でした。三四歳までに、望んでいたものはすべて手に入れ たと言っていました。しかし、彼は不安と恐れでいっぱいだったのです。彼には 四人の子供がいました。彼は当時を振り返ってこう言っています。「こんな世の 中に、四人の子供を生み出してしまったことを本当に後悔しました。暴力や不安 や悲しみに満ちているこの世に、四人も子供を生み出してしまったことを、非常 に愚かなことをしてしてしまったと後悔しました。幸せに暮らすために必要だと 思う物をすべて手に入れても幸せにならないことを知り、それなのに四人の子供 をこの世に生んでしまったことで、いつも自分を責めていました。」彼は、人生 について真面目に考えた人だと思います。家族について本当の幸せを願った人だ と思うのです。自分の人生と家族の幸せのことをいい加減にしなかったのです。 そして、真剣に彼と同じように考えていくならば、この邪悪な時代に家族と共に 生きることに不安を覚えざるを得ないであろうし、子供を生み出してしまった自 分を責めざるを得ないでしょう。実際、冷静に考えてみますならば、悪しき力の 満ちているこの世界において、自分の力で自分や家族を守ることができ、幸せに することができるなどと微塵でも思っていたら、それこそ傲慢なことだろうと思 うのです。

 今日の私たちも、ペトロの時代と同じように「邪悪な時代」に生きています。 私たち自身も、私たちの家族もそうなのです。ペトロは、「邪悪な時代から救わ れよ」と勧めました。人は、神の恵みを拒否している時代と共に、その中に生き、 そして朽ちて滅びていくのか、それとも、「邪悪な時代」から救われて、新しい 神の恵みの秩序の中に生き、神の命に生きるのか、二つに一つなのです。ペトロ の具体的な勧めの言葉は、既に読んできました。彼は言います。「悔い改めなさ い。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただき なさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 人は、邪悪な時代のただ中にありながら、神との交わりに、神の恵みの支配の もとに、神の命に満たされて生きることができるのです。そのためには、「悔い 改め」なくてはなりません。これは、今までの諸々の悪い行いを懺悔することで はありません。方向を変えることなのです。人生の方向を変えることなのです。 そして、罪の赦しを受けるのです。洗礼は、恵みのしるしです。方向を変え、罪 の赦しを受けるなら、賜物として聖霊を受けると約束されています。神の霊が来 られて、私たちの内に住み給うのです。罪の赦しと、聖霊の内住により、人は 「邪悪な時代」から救われるのです。それは、人間の行いの報酬ではありません。 賜物だと言われています。神からのプレゼントなのです。

 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加 わりました。彼らは、方向転換をし、神の賜物に与ったのであります。罪の赦し を受けました。聖霊を受けました。神の霊が彼らの内に、彼らと共に生き始めま した。「邪悪な時代」から救われました。

 彼らは、その賜物を無駄にすることはありませんでした。聖霊を受けて、その ままにしておきませんでした。プレゼントを戴いていながら、その中身を自分の ものにしないで棚に上げておくような愚かなことはしなかったのです。彼らは、 「邪悪な時代」から救われるということの実質を自分のものとしていったのです。 どのようにしてでしょうか。具体的な信仰生活によってです。もちろん、信仰生 活が人を救うのではありません。神の恵みが人を救うのです。しかし、救いは具 体的な信仰生活を通して経験されていくものです。プレゼントは自分のものであ りましても、箱を開いて中身を取り出すことなくして、本当の意味で自分のもの とすることはできません。

 彼らは「熱心であった」と書かれています。これは、直訳すると「固着する」 と訳せる言葉です。「固く守る」と訳している人もいました。しかも、継続を現 す表現が用いられています。「固く守り続けた」とでも表現したらよいでしょう か。とにかく、ここで言われているのは、単なる気まぐれな感情的熱心さではあ りません。線香花火のようなものではないのです。信仰生活における意識的な堅 実さを現していると見てよいでしょう。継続です。意識的な継続です。

 その内容はなんでしょうか。彼らはまず、「使徒の教え」を学ぶことを固く守 りました。使徒の教えとは、使徒たちを通して伝えられた主の教えです。彼らは、 使徒たちから福音の真理を継続的に学び続けました。もちろん、ここで注意しな くてはなりませんが、教えそのものが人を救うのではありません。人は学ぶこと によって救われるのではありません。多くの人はここで誤解をしています。人を 救われるのは神です。教えではありません。しかし、神の霊が生きて働き給う時 に、正しく福音を理解していないということは大きな妨げとなります。福音の真 理を正しく捉えずに、経験だけに依り頼んだ信仰生活は必ずどこかで躓きます。 彼らにとって聖霊の降臨は大きな経験だったと思います。しかし、彼らはその経 験のみを土台としようとはしませんでした。彼らは聖霊に満たされ続け、聖霊に 導かれ続けるためにも、使徒たちの教えを継続的に熱心に学んだのであります。

 次に、彼らは相互の交わりを重んじました。彼らは、イエス様が「互いに愛し 合いなさい」と言われたことを理解しました。イエス様は最後の晩餐において弟 子たちに言われたのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いな さい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、 皆が知るようになる。(ヨハネ一三・三四‐三五)」自分の救いを喜んでいるだ けのエゴイストであるならば、それは、決して「邪悪な時代」から救われた人の 本来の姿でないことを、彼らはよく知っていました。救われた人々の本来の姿は、 互いに愛し合っている共同体の姿なのだ、ということを弁えていたのです。です から、彼らは、相互の交わりを大切にしたのです。

 具体的な交わりのあり方がそこに記されています。彼らは、共にパンを裂きま した。これは、今日、私たちが聖餐と呼ぶものに相当します。今日のような形態 ではありませんが、彼らは共にパンを裂くときに、やはりキリストの死を思い、 主の恵みを思ったのでしょう。そして、キリストの死によって一つとされた自分 たちであることを確認していったのだと思います。そして、彼らは熱心に祈りま した。共に神に向かうことによって、彼らは共に生きたのであります。共に祈る ことなくして、真実の交わりはありません。教会に祈りが枯れるなら、交わりの 命も枯れるでしょう。以上の二つのことを考えてみますと、彼らが大切にしたの は、単なるお互いの人間的な親しさではないことが分かります。共に神の恵みを 喜び、共に感謝し、共に願い、共に自分自身を明け渡すところに、救われた者の 交わりがあったのであります。これが彼らの具体的な信仰生活でありました。私 たちは、罪を赦され、聖霊を与えられた者たちが、いかにしてその救いの実質の 中に生きようとしたかをよく見て、自らを省みなくてはなりません。

 さて、そのような具体的な信仰生活を続けていた共同体において、神様の豊か な御業が現されました。聖霊は彼らの中にあって力強く働き給うたのであります。 使徒たちを通して、不思議な業としるしが行われました。神の権威と力が彼らの 間に現されました。それが様々な癒しなどの奇跡として現れたのでしょう。と言 いましても、彼らは、奇跡そのものを、決してもてはやすことはありませんでし た。むしろ、神の権威と力の現れがもたらしたのは、聖なる恐れでありました。 これはもちろん、単に神様を怖がるということではありません。彼らは皆、畏敬 の念に打たれたのです。「すべての人に」と書かれているので、それは教会の中 だけの話しではなかったのでしょう。エルサレムの多くの人々が、生きて働き給 う神の現実に触れ、神を畏れるようになったのです。

 一方、信者たちは、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの 必要に応じて、皆がそれを分け合いました。残念ながら、このような形態は長く は続きませんでした。しかし、ここで中心的なことは、単にそのような共産主義 的共同体が成立したということではないのです。あくまでも制度としては確立さ れなかったのです。そうではなくて、中心は、聖霊が彼らを自由にした、という 単純な事実なのです。聖霊は彼らをエゴイズムから自由にしました。聖霊は、自 分が持っているものはあくまでも自分に属するものであるという固執から、彼ら を自由にしました。確かに「わたしのもの」と言い続けて生きることほど苦しい ことはありません。富にしても、時間にしても、能力にしても、それらは本来 「わたしのもの」ではないからです。それらは、自分を生かし、家族を生かし、 他者を生かすために、神様から託されているものなのです。彼らは聖霊によって 自由にされました。そして、持っているものを、自分や他者を生かすために、御 心に従って用い始めたのであります。私たちも、あえて、ここに書いてあるよう な共産主義的な体制を求める必要はありませんが、彼らの持っていた自由は、や はり求めるべきだろうと思うのです。

 そして、彼らは、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まっ てパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民 衆全体から好意を寄せられた(四六‐四七節)」のでした。神殿に集まって共に 礼拝する時も、家家における小さな集まりで神を賛美する時も、そこに真心と喜 びが満ちあふれている―そんな様子が目に浮かぶようではありませんか。彼らの 信仰生活は、形式的に義務を果たすだけのような、固い・暗い・つまらない、と いう類のものではありませんでした。そこに神の国の麗しさが溢れていたのです。 ですから、多くの人々は好意をもって見ていたのです。多くの人々が彼らの姿を 見て、彼らの持っているものを自分も欲しいと思ったことでしょう。

 それが本来の教会の姿です。信仰者の姿です。そして、そのような彼らのあり 方そのものを通して神様が働かれ、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つに された」のであります。最初の共同体における伝道は、このようになされていっ たのです。伝道計画や伝道的プログラムがまず最初にあったのではありません。 ただ命に満ちあふれた信仰者の群れがあったのです。その人々を通して、主が働 き給うたのであります。

 私たちも、神様が権威と力の現実を経験し、 霊 によって解放され、喜びと 賛美に満ちあふれた教会であり、信仰者でありたいと思います。そのような者と して、神の救いの御業のために用いられる器でありたいと願います。必要なもの はすべて備えられているのです。私たちが、邪悪な時代から救われ、神の恵みの 支配のもとに生きるために必要なものは、キリストの十字架と復活を通してすで に与えられているのです。ならば、大切なことは、悔い改めて恵みを受け取るこ とであります。そして、堅実な信仰生活を通して、その恵みの現実に与り続ける ことなのであります。

 
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