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「天下唯一の救い」

1996年7月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 4章1節~22節

 本日は四章の前半をお読みしました。この箇所は三章に続いています。三章に おいて、一人の人が登場しました。彼は生まれながらに足が不自由でした。毎日 神の神殿の前で物乞いをしていた人でした。神殿の「美しい門」の前にいながら、 自らは神の恵みとは無縁であると思っていた人でした。毎日、施しを得ること以 上の期待もない、永遠の希望もない人でありました。しかし、彼がペトロたちに 出会ったのです。ペトロを通して、イエスの御名によって、彼は癒され、救われ、 神を誉め讃えて生きる者と変えられました。キリストがその人生を決定的に変え られたのです。すると、大勢の人々がその周りに集まってきました。ペトロは集 まってきた人々にイエス・キリストを宣べ伝えます。ペトロは復活して今も生き ておられる救い主を伝え、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改め て立ち返りなさい(一九節)」と勧めたのです。そして、神の僕イエスが遣わさ れたのは、一人一人を悪から離れさせ、かつてアブラハムに約束された祝福―地 上の全ての民族に及ぶ祝福に与らせるためであった、と語ったのでした。今日お 読みしましたのは、その続きであります。

 このように、神の霊に導かれてキリストを宣べ伝えたことは、ペトロとヨハネ の上に思わぬ困難をもたらしました。それが四章に書かれていることであります。 祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人たちが近づいてきて、二人を捕らえ、投 獄してしまいました。罪状の確認がなされたわけではありません。正規の手続き を経ての逮捕でもありまん。明らかな不当拘留であります。そして、次の日に、 彼らはサンヘドリンと呼ばれた最高法院に引き出され尋問されることになりまし た。

 人間的に見るならば望ましくはない状況に彼らは置かれる結果となりました。 これはまた、産声を上げたばかりの初代教会が直面した最初の危機でありました。 ところが、実にその望ましくない場こそ、彼らがキリストを証しする場となった のです。五節に挙げられている、「議員、長老、律法学者たち」が自ら進んでキ リストのことを聞くために使徒たちのもとに来ることは、まずあり得ないことで した。しかし、奇しくも彼らは皆集まり、ペトロたちの言葉を聞くことになり、 また、現実に癒され救われた一人の人を目の前に見ることになったのです。これ は、ペトロが自ら望んで得た機会ではありませんでした。まさに与えられた機会 でありました。そして、このようなことが確かに起こるのです。

 私たちが、聖霊に満たされた信仰生活を求め、神の完全なる支配のもとに導か れ、神の救いの御業のために用いられることを求め始めるならば、神は私たちを 御心に従って導かれます。それは、この使徒たちのように、時として思わぬ困難 や問題の中に導かれることであるかも知れません。また、既に、様々な厳しい状 況におかれている人は、ペトロにおいてそうであったように、そこが証しの場と なり、神の御業が現れる場となり得るのだ、ということを知っておく必要がある のです。

 ペトロとヨハネは権力者たちの敵意の中へと導かれました。使徒たちは真ん中 に立たせられ、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうこと をしたのか」と尋問されました。そこで、ペトロは聖霊に満たされて語ります。 確かに聖霊が彼の内に生きて働いておられるのです。それは初めて訪れた危機で ありますが、神の力と愛と喜びに満ちた使徒たちが証しをし、癒された人もそこ において無言の証しをなしている。なんと神の栄光に満ちた場面でしょうか。も し、私たちが、自分中心の我が儘な信仰生活に留まるならば、困難は少ないかも 知れませんが、神の現実に触れることも、神の力強い救いの御業を見ることも、 神の栄光を拝して真の喜びを与えられることもないでしょう。もし、川の浅いと ころで自分の足で歩き回って遊んでいるだけのような信仰生活であるならば、命 の水の大きな豊かな流れを経験することはできないだろうと思うのです。それが 私たちの求めていることなのでしょうか。もしそうならば、それはとても残念で あり、悲しむべきことです。私たちはいったい何を願い求めるべきなのか、よく 考えたいと思うのです。

 聖霊はまずペトロの内に力強く臨まれました。神が事をなされます。ペトロは その器です。聖霊は彼の内にどのように働かれたのでしょうか。

 第一に、神の霊はペトロに知恵と必要な言葉を与えました。このことは、既に イエス様御自身が語っておられたことです。ルカによる福音書において、イエス 様は後のことを見越して次のように語っておられます。「…人々はあなたがたに 手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ 張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もっ て弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論も できないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。(ルカ 二一・一二‐一五)」その言葉は、ペトロの上に実現しました。

 「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学 な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるという ことも分かった」と書かれています。無学な者というのは、律法の専門教育を受 けてはいないということです。普通の人というのは、無資格者ということです。 人は学問のゆえにキリストの救いを証しすることができるのではありません。資 格によってそのことを為し得るのではありません。神様は、無学な普通の人に聖 霊を満たし、神の知恵を与えて語らせ給うのです。使徒たちに与えられた知恵と 言葉を、私たちはどれほど必要としていることでしょうか。私たちは、自分の知 恵や知識、能力や経験によってキリストを証しできるという考えを徹底的に放棄 しなくてはなりません。同時に、それらの資質が欠けているからといってキリス トを証しすることはできないという考えも放棄しなくてはならないのです。ただ、 聖霊のみが私たちに必要な知恵を与え、言葉を与え給うのです。

 第二に、聖霊はペトロたちに驚くべき大胆さを与えられました。私たちは、使 徒言行録がルカによる福音書の続きであることを知っています。福音書における ペトロと、ここに見るペトロの姿とは、いかに異なっていることでしょう。六節 に「大祭司アンナスとカイアファ」の名前が記されています。彼らの名前は、キ リストが十字架にかけられるその前夜の出来事を思い起こさせます。イエス様が 捕らえられ、大祭司の家に連れて行かれた時、ペトロは後を遠く離れてついて行っ たのでした。中庭に入って行った彼をある女中が目にして「この人も一緒にいま した」と言います。するとペトロはすぐにその言葉を打ち消して言いました。 「わたしはあの人を知らない。」なんと彼は三回も同じことを繰り返してしまう のです。三回目にイエス様との関係を否定した時、鶏が鳴きました。「主は振り 向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度 わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に 出て、激しく泣いた(ルカ二二・六一‐六二)」と記されています。これが生来 のペトロだったのです。しかし、本日の聖書箇所に見る彼は違います。彼は変え られました。ユダヤの権力者たちは、ペトロとヨハネに、今後決してイエスの名 によって話したり教えたりしてはならない、と命令し、脅迫します。するとペト ロは答えるのです。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しい かどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないで はいられないのです。」

 生来気の強い人がいれば、気の弱い人もいます。気が強いことは、ただ無神経 で思いやりに欠けるだけであることもあるので、必ずしもそれがそのまま美徳と なるとは限りません。ここに見るのは、ただペトロの気が強くなったということ ではないのです。そのような性格的な事柄を越えた真の勇気が聖霊によって与え られたということなのです。人の思惑や言葉に左右されない自由を与えられたと 言うこともできるでしょう。ペトロは不甲斐ない自分を反省し、自己変革のため に自分に鞭打ち、頑張ってこのような大胆さを実現したのではありません。これ は明らかに聖霊の賜物でした。神が真の勇気と大胆さと自由を与え給うたのです。 私たちは、確かにペトロが立たされたような命がけの場面を経験することはない かも知れません。しかし、人の思惑や評価や言葉が気になって、キリストを証し することができない人は案外いるものです。ならば、私たちに必要なのも、上か ら与えられる自由であります。神の霊によって与えられる恐れからの自由なので す。

 そして、聖霊の与えた自由と勇気には、限りない愛と赦しが伴っていました。 これが彼らの内に見る、もう一つの聖霊のお働きであります。ペトロたちは不当 な仕打ちを受けました。イエス様に向けられていたユダヤ人指導者たちの憎しみ は、使徒たちに向けられ始めました。彼らは人々の敵意に囲まれて、その真ん中 に立っています。。無学な普通の人である彼らに向けられた横柄な態度と侮蔑の 眼差しのもとに置かれたのでした。しかし、彼らは憎しみに対して憎しみをもっ て臨みません。敵意に対して、敵意をもって対応しませんでした。ペトロとヨハ ネは既に群衆にしてきたように彼らの罪を指摘します。彼らがイエス・キリスト を十字架にかけた事実を突きつけます。しかし、それはあくまでも救いを語るた めでした。救い主を伝えるためなのです。自分を憎む者にも、危害を加えようと している者にも、救い主を伝えるためなのです。

 彼らは言いました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたした ちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。 (一二節)」ペトロは宗教的論争を挑んでいるのではありません。そうではなく て、ただ一つの目的のために来られたただ一人のお方について語っているのです。 人の罪を贖い、神と和解させ、神との交わりを与え、神の国へと導くために来ら れた一人の方、そのために語り、御業をなし、十字架にかかって死なれ、復活し、 天に上り、父より聖霊を受けて注いでくださった一人のお方について語っている のであります。平安が救いなら、他の名によっても与えられるでしょう。病気の 癒しが救いなら、他の名によっても与えられるでしょう。死の恐れを取り除かれ ることが救いなら、それは他の名によっても与えられるでしょう。清い人、良い 人になることが救いなら、それは他の名によっても与えられるでしょう。しかし、 私たちの罪のを贖い、聖霊を与え、父なる神との交わりをもたらすために、この お方は来られたのです。その一人の方の名によって与えられる救いがそこにあり ます。そして、敵意をもって使徒たちを囲んでいる彼らもまた、キリストの愛、 救いの御心の対象なのです。だから、ペトロとヨハネは語っているのです。敵意 から生まれる論争の言葉でも、自分の身を守るための弁明の言葉でもないのです。 愛をもって語っているのです。

  私たちもまた、いつも好意的に迎えてくれる人々にばかり囲まれているわけ ではないでしょう。よき理解者ばかりが周りにいるわけではありません。誤解さ れ、中傷され、敵意を向けられるところに置かれることもあるかも知れません。 もし、その場が、神のよって証しのばとされ得るならば、必要なのは、聖霊によっ て与えられる神の愛であります。棘のある言葉を平安をもって受け止め、神の愛 と救いを語ることのできる者となれるよう、私たちにまず、聖霊によって神の愛 が注がれ、満たされる必要があるのです。

 この場面を見る限り、結局ユダヤの権力者たちの中に変化は見られませんでし た。彼らは使徒たちを更に脅迫した上で追い出しました。サンヘドリンにおける 証しは無駄だったのでしょうか。いや、彼らは聖霊降臨以後初めて直面した困難 の中で、今までになく、彼らの内に、また彼らを通して力強く働かれる神の臨在 を覚えたに違いありません。

 私たちもそのような証し人とならせていただきたいと思います。そのことを共 に祈り求めて、祈り続けていきたいと思います。もちろん、ことさらに困難な状 況を願い求める必要はありません。ただ神の導きに身を委ね、どのような場面に おいても聖霊に満たされ、平和と喜びと聖霊の力をもってキリストを証しするこ とのできる者とならせていただきたいと思うのです。

 
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