一九九六・八・一一 使徒言行録 4章32節~5章11節 「神の現臨」  本日の聖書箇所には、初代の教会において起こった恐るべき出来事が記されて います。五章の冒頭部分をもう一度ご覧ください。  「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も 承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置い た。すると、ペトロは言った。『アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、 聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのもの だったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。 どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、 神を欺いたのだ。』この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのこと を耳にした人人は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び 出して葬った。(五・一‐六)」  さて、ここを読みますときに、分からないことが沢山あると思います。このよ うなことが本当に起こり得るのだろうか。もし、起こり得るとしても、ここに書 かれているのが、本当に死ななくてはならないほどの罪なのだろうか。ペトロは、 もう少し別の仕方で対処すべきだったのではなかろうか、などなど。そこで、や はり分からないことは分からない、と言うしかないのだろうと思います。しかし、 少なくとも、この箇所を読むに当たって注意しなくてはならないことが二つほど あるように思えます。  一つは、この箇所における「神の裁き」という点があまりにも強調され過ぎて、 全ての出来事に当てはめてしまうようなことがあってはならない、ということで す。例えば、このような箇所を読んだからと言って、私たちの周りに悲惨な死に 方をした人を、簡単に「神に裁かれて死んだのだ」などと言ってはならないので す。これは笑い事ではありません。実際、多くの宗教的な世界において聞く言葉 です。キリスト教会においても聞かれる時があります。神の裁きは人間が安易に 触れてはならない聖域です。軽々しく「神の裁きだ」などと言ってはなりません。  しかし、もう一方で、この物語に書かれている神様の厳しさという一面を軽視 することも誤りであると言えるでしょう。聖書はいたるところで、神様を侮って はならないと警告します。パウロがガラテヤ書において次のように言っています。 「思い違いをしてはなりません。神は、人から侮られることはありません。人は 自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉 から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。(ガラテ ヤ五・七‐八)」また、ローマの信徒への手紙においても次のように言っていま す。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。(ローマ一一・二二)」私た ちは、神の愛と赦しの恵みを喜び、慈愛に満ちた神との交わりを楽しむべきです。 しかし、私たちは決して神に狎れるようなことがあってはなりません。罪を軽く 考え、罪をもてあそび、神を侮るようなことがあってはならないのであります。  私たちは以上の二つのことを念頭に置いた上で、この箇所を読んでいきたいと 思います。そして、分からないことは分からないこととして無理に解釈しようと せずに神に委ね、なおこの箇所を通して確かに神様が私たちに語りかけていてく ださるメッセージを聞き取っていきたいと思うのです。 ○  さて、アナニアとサフィラのどこに問題があったのでしょうか。  ここで話題になっているのは、私たちが言うところの「献金」であります。もっ と広く見るならば、いわゆる善い行い、敬虔な行為というものが話題になってい るということでしょう。彼らは土地を売りました。そして、その一部を献げたの です。ただ、ここで「代金をごまかし」と書いてありますので、恐らく献げる時 に、「わたしは持てる土地を全て捧げました。これがその代金です」と言ったの でしょう。  彼らがこのようなことをしました背景となる当時の教会の状況が四章の終わり に記されていました。三二節以下には次のように書かれています。「信じた人々 の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、 すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証し し、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人が いなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使 徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからであ る。(四・三二‐三五)」このような姿は、既に二章四四節以下に出てきていま した。ペンテコステにおいて弟子たちが聖霊に満たされて教会が誕生した直後に、 やはり「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を 売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」と記されていたのです。 ここでも、やはり同じような姿が描かれているわけです。  そして、四章では特にバルナバという人の例が上げられていたのでした。「た とえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味―― と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金 を持って来て使徒たちの足もとに置いた。(四・三六‐三七)」そして、五章に 入って、もう一つの実例として、アナニアとサフィラの例が上げられ、対比され ているのです。  この五章と四章の対比は重要です。四章において、教会の人々は持ち物を共有 し、ある者は土地を捧げています。しかし、これは決して何らの強制的な力によ るものではありませんでした。ペトロもアナニアにこう言っています。「売らな いでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いど おりになったのではないか。」そうです。人々は土地を売ることも売らないこと も自由だったのです。また、売ったあとの代金をどうするか、全額を捧げるか、 一部を捧げるか、ということも自由だったのです。キリスト者になるための義務 ではなかったのです。  では、四章に見る「持ち物の共有」という行為の本質は何であったのか。既に お気づきの方もおられるかも知れませんが、この持ち物を共有したという出来事 は、彼らが聖霊に満たされたという出来事に続いて書かれているのです。二章に おいて描写されていたときも、それはペンテコステの出来事に続けて書かれてい ました。この箇所でも、四章三一節の「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉 を語りだした」という言葉に続いているのです。  つまり、大切なことは、彼らの具体的な信仰生活のあり方は、すべて聖霊の満 たしから生まれてきたものなのだ、ということなのです。以前、二章の講解をし た時にも申し上げたことですが、ここで大切なのは、キリスト教的な共産体制が 生まれたということではないのです。この体制は長続きはしなかったのです。変 わっていくのです。制度としてはついに確立されることはなかったのです。中心 は新体制の成立にあったのではなくて、聖霊によって彼らが自由にされたという ところにありました。彼らは聖霊に満たされ、神の思いに満たされ、神の愛に満 たされ、エゴイズムから自由にされたのです。自分の持っているものはあくまで も自分に属するのだ、という固執から自由にされたのです。「私のものは私のも の」と言い続けて生きる苦しい生き方から解放されたのです。すると、周りの人々 が見えてくる。そこで、神様から託されているものを神の御心に従い、自分や他 者を生かすために用いることができたということであります。  そのような四章の教会の姿に対比されて、アナニアとサフィラの出来事が描か れているのです。これは明らかに一例として描かれています。いつの時代にも、 どこにおいても起こり得ることとして私たちに警告が発せられているのです。そ こで、五章において、私たちは非常に興味深い言葉に出会います。ペトロはアナ ニアに言いました。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺 いて、土地の代金をごまかしたのか。(三節)」日本語では分からないのですが、 三節は直訳すると、本来、次のような言葉なのです。「アナニア、なぜ、サタン があなたの心を満たしたのか。」そして、興味深いことに、ここで使われている 「満たす」という言葉は、三一節の「聖霊に満たされて」というところで使われ ている言葉と同じなのです。  表面的には同じ行為なのです。土地を売った。代金を捧げた。しかし、一方は 聖霊に満たされて為され、一方は悪魔に心を満たされて為されている。そのよう な恐るべき出来事がここに記されているのです。表面的にはまったく同じように 見える善い行い、敬虔な行為が、聖霊に満たされて為されることもあれば、サタ ンに満たされて為されることもあるということであります。  その違いはどこにあるのか。外側ではなくて内側にあるのです。表に出ている ところにではなくて隠されたところにあるのです。大義名分ではなくて、本音の ところにあるのです。最終的な結果にではなくて動機にあるのです。なぜ、アナ ニアとサフィラが代金をごまかしたのか。どうして、「実は、全部を捧げること はできないのです」と言えなかったのか。人々の賞賛を得たかったからでしょう か。尊敬されたかったのでしょうか。人々の信頼を得て、指導的な立場に立ちた かったのでしょうか。人々に認められることによって自分の存在意義を確認した かったのでしょうか。私たちには推測することしかできません。人の心の動きは 単純ではないでしょう。しかし、少なくとも、これが聖霊によって生み出された 思いでなかったことは確かです。いや、むしろ、心の内で聖霊が誤りを指摘し、 警告するその声を押しつぶしてまで事を為してしまう何かが、彼らの内側にあっ たのです。そして、それは決して他人事ではありません。  ここで私たちはイエス様が悔い砕かれた罪人たちに実に憐れみ深く関わられた 一方で、繰り返しファリサイ派や律法学者たちに対して厳しく臨まれたことを思 い起こします。イエス様は言われました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、 あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見え るが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、 外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(マタイ 二三・二七)」もちろん、これはただ単にファリサイ派の問題だけではなく、当 時のイエス様を取り巻く宗教的な世界共通の問題だったのだと思います。そして、 もっと言うならば、外側だけを判断し評価する人間社会の普遍的な問題であると 言えるでしょう。  そうです、真に恐るべきものは内側にあるのです。そして、イエス様はその恐 るべき罪から人を贖うために十字架にかかられたのでした。それは人がファリサ イ派や律法学者たちのようにではなく、聖霊によって生き、神の命によって生き る、神との新しい関係に入れられるためでありました。そのために、復活された キリストは神の右に上げられ、約束された聖霊を父なる神から受けて注いでくだ さったのです。(使徒二・三三)この聖霊によって生まれたのが教会であり、こ の聖霊によって生まれたのが彼らの信仰生活だったのです。それが四章に描かれ ていたのです。しかし、こうして生まれた教会には、いつでもあの律法主義と偽 善の暗闇へと舞い戻らせようとするサタンの誘惑があったのです。  この誘惑に陥ったところにアナニアとサフィラの問題はありました。神を離れ、 神の生きた臨在を求めず、聖霊の満たしを求めず、「サタンに心が満たされた」 アナニアとサフィラの表面的には敬虔な行為。これはほんの一例に過ぎません。 それは代々の教会の抱えている問題として、時として教会を大きく間違った方向 へと導くように働き、あるいは教会を破壊する力として働いてきたのであります。 私たちは、ここに見る姿を私たち自身への警告として聞かなくてはなりません。  そして、同時に私たちはこれを、聖霊の満たしと神の現臨を求めることへの積 極的な勧めとして受けとめたいと思います。「動機まで問われたら何もできない ではないか。」「すべてが偽善ということになってしまうではないか。」「なら ば何もしないほうがよいではないか。」当然のことながら、そのような結論に至 らせることが神の意図ではありません。私たちは前向きに、ますます切に、聖霊 に満たされた信仰生活を求めるべきであります。   ○  夏期修養会が近づいて参りました。この時期、私たちは自らの生活を省みるよ うにと促されております。その時、私たちの観点は、過ぐる一年間にどれだけの 働きを為し得たかというところにあるのではありません。信仰者の第一の課題は 聖霊に満たされることであります。私たちの教会の週報には「修道のプログラム」 なるものが記されています。一、毎日、聖書を読み、祈る時間を持つ。二、毎週、 聖日礼拝に出席し、神の言葉に耳を傾ける。三、毎月、修道会に出席し、聖書を 学び、自己を反省する。四、毎年、夏期修養会に出席し、神との深き交わりを持 つ。五、教会の発行する文書を読む。以上ですが、考えて見れば、当たり前のこ としか言われていません。特別な働きや奉仕については何一つ語られていないの です。なぜかというと、信仰者の第一の課題は聖霊に満たされて生きることにあ るからです。これらは聖霊に満たされて生きるための手引きです。  神に喜ばれる生活は聖霊の満たしから生まれます。真の命を失った信仰生活、 サタンに心を満たされた敬虔な生活は惨めです。実際に、アナニアやサフィラの ように撃たれて死ぬようなことはないとしても、死んだような生活は実に惨めで す。私たちはもう一度信仰生活を点検し、聖霊に満たされた信仰生活を心新たに 求め始めたいと思うのであります。