「神から与えられた務め」
1996年9月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 6章1節~15節
五章の最後には、ユダヤの権力者たちの脅迫にも負けることなく、迫害の中に おいて力強く福音を宣べ伝えていく教会の姿が描かれていました。しかし、六章 に入りますと、ごく小さな問題を巡って教会の内側に分争が生じたことが記され ております。外側からの圧力に対して、力強く勝利していく教会の姿がありまし た。しかし、ここには、日々の配給の事柄で揺れ動いている共同体の姿があるの です。
恐るべき敵は必ずしも外にのみいるとは限りません。外からの破壊力はある意 味で分かりやすいのです。内側から教会を破壊し、あるいは腐敗堕落させようと する力、信仰者の信仰生活を内側から蝕んでいく力というものは、実は大変に分 かりにくいのです。私たちは、そのような恐るべき力の例を、既に五章の始めに おいて見てきました。アナニヤとサフィラの事件です。その悪しき力は、献金と いう極めて聖なる行為の中に、偽善と律法主義という形で現れました。そして、 この章においては、二つのグループの対立と分争という形で現れているのを私た ちは見るのです。
私たちが、この出来事をただ単に食べ物の問題として読んでしまうなら、それ は事柄を正しく理解したことにはならないでしょう。日々の配給の不平等という のは、問題が表面化した一つのきっかけに過ぎません。この背後には、ユダヤ人 社会に存在していた二者間の緊張関係があるのです。それらは、ここに書かれて いるように、ヘブライ語を話すユダヤ人たちと、ギリシャ語を話すユダヤ人たち の間にある緊張関係です。前者はパレスチナ生まれのユダヤ人でありまして、ヘ ブライ語、もっと厳密にいいますならばアラム語を母国語とする人々です。彼ら は、そのような自分たちをヘブライ人と呼んで、正統的なユダヤ人であり異教的 な何ものも混ざっていないというプライドがあるわけです。また、パレスチナ外 のヘレニズム世界に生まれましても、あえてヘレニズム思想の影響を拒み、イス ラエル古来の厳格な伝統と言葉を保持する人々も、自らをヘブライ人と呼びまし た。そのような人の代表は後に出てきますパウロです。(フィリピ三・五)一方、 後者は、離散の地で生まれ育ったユダヤ人でありまして、ギリシャ語を母国語と する人たちです。一般的にヘレニストと呼ばれます彼らは、当然の事ながら、ヘ ブライ人たちとまったく考え方も習慣も違います。ヘブライ人から見ればヘブラ イ語を話さずにギリシャ語を話していること自体、もはや正統ではないわけです。
人間の生まれながらの性質としては異なる者を受け入れることができなかった り、見下したりいたします。また、自分を基準にすれば他者を裁いて切り捨てざ るを得なくなります。一方、裁かれ、低く見られる者は相手に対して反発したり、 憎しみを向けたりするようになります。結果的に、ユダヤ人と異邦人の間ほどで はないにしても、やはりそれなりの緊張関係が生じることになるのです。当時の 教会の中には、そのようなヘブライ人もいればヘレニストもいたのでした。どち らもイエス・キリストを主として受け入れ、イエス・キリストの十字架による贖 いによって罪を赦され、神の教会へと加えられたのです。神の家族とされたので す。しかし、両者には教会に加えられる前から引きずっているものがありました。 それが問題の根であったのです。
使徒たちを含め、教会の中心的な働きをしていた人々は皆、ヘブライ人たちで した。そのような体制に対し、ヘレニストたちの中には不満を持つ者たちもいた のでしょう。実際、日々の配給において、ヘレニストのやもめが軽んじられてい たというのがどの程度であるか分かりません。もしかしたら、ヘブライ人のプラ イドがそのような結果を産んだのかも知れません。しかし、聖霊の働きによって 自発的な捧げ物によって始まった配給制度なのですから、いくら指導者たちがヘ ブライ人だからといって、意図的にヘレニストのやもめたちを無視したり、ヘブ ライ人だけを特別に極端に優遇したりすることはないでしょう。
多分、問題そのものは、そう大したことではなかっただろうと思うのです。し かし、もともと蟠りや偏見のあるところには、小さな違いが大きく見えるもので す。いずれにせよ、このようにキリスト者となる前から持っている古い性質や考 え方、解放されていない様々な捕らわれ、自分を正しい者とする自我の性質から、 様々な不平や不満が生じ、分争が生じるということはいくらでもあり得ることで あります。表に見えるところは、具体的な何がしかの原因によって生じたトラブ ルのように見えるのです。しかし、問題の根は往々にしてもっと深いところにあ ります。聖霊によって変えていただかなくてはならない、私たちの罪人としての 本質に関わるところにあるのです。
ですから、十二使徒たちは、このトラブルを単に配給の制度を改革することに よって解決しようとはしませんでした。使徒たちは弟子をすべて呼び集めて次の ような提案をしました。ここに当時の教会の姿勢がよく現れています。「わたし たちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。そ れで、兄弟たち、あなたがたの中から、 霊 と知恵に満ちた評判の良い人を七 人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕 に専念することにします。(二‐四節)」すると弟子たちの群れはどうしたでしょ うか。「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほ かにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身 の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼ら の上に手を置いた。(五‐六節)」
ここに私たちは大切な二つの事実を見ることができます。まず第一に、使徒た ちは、また弟子たちの群れ一同は、ここに生じている日々の配給の問題を、信仰 の問題として受けとめたということであります。信仰によって、聖霊によって解 決を見るべき問題として受けとめたのです。 「あなたがたの中から七人を選びなさい。」なぜ七人であるのか。これは恐ら くユダヤ教社会の伝統から来た数字なのだと思われます。しかし、配給問題の解 決を求めているならば、これは常識的には賢い提案には思われません。なぜなら、 七人を選べば必ずヘブライ人かヘレニストかどちらかが多くなるからです。通常、 二者の調整をするのならば、各グループから同数の代表者が出てきて制度を見直 すということになるでしょう。
要するに、使徒たちは、同数の代表による話し合いを持つなどという考えは、 初めから持っていなかったのです。そして、結局、どのような人々が選ばれたで しょうか。五節に上げられている名前は大きな特徴を示しています。それは皆、 ギリシャ名を持っているということです。そこで、学者は異口同音に、ここで選 ばれたの恐らく全員ヘレニストの群れに属する人々であろう、と言うのです。こ れは、常識的には、まったくおかしなことと言わざるを得ません。しかし、それ が教会の判断でありました。これはただ配給制度の改革を話し合いによって行え ばよいということではなかったのです。だから、ペトロは、「 霊 と知恵に満 ちた評判の良い人」を選びなさい、と言ったのです。どちらのグループに属する 人々にも得にも損にもならないように調整するだけならば、 霊 に満ちた人で ある必要はないでしょう。しかし、彼らは、この問題を教会として、信仰の問題 として取り組むべき本質的なこととして受けとめたのであります。ですから、人々 は、「信仰と聖霊に満ちている人」を選び、信仰と聖霊による解決を求めたので した。
考えて見て下さい。教会が迫害の中にある時、その迫害の中でどのように教会 を守っていくか、伝道を進めていくかということは、明らかに信仰の事柄として 理解しやすいだろうと思います。既に見てきたように、祭司長たちから脅迫され た時、彼らが声を一つにして祈ったということは大変私たちにも分かりやすいの です。私たちの場合でも、大きな試練の中で、人生の土台そのものが揺さぶられ る時、あるいは信仰生活そのものが困難や危機に直面する時には、それを信仰の 問題として考えることはできるだろうと思うのです。しかし、教会に起こる小さ な一つ一つの具体的なトラブル、あるいは信仰者が毎日遭遇する小さな問題を、 私たちは信仰によって聖霊に寄り頼んで解決すべき事柄として捉えているでしょ うか。このような日常の小さなことに現れる不平や不満という感情の動きまで、 信仰が問われる課題として受けとめているでしょうか。そこに信仰による解決を 求めているでしょうか。「信仰と聖霊に満ちている人」でなければ為し得ないよ うな解決を求めているでしょうか。あるいは、信仰とは無関係なこととして、こ の世的な考えによって解決を求めているのでしょうか。この箇所を通して私たち は自らを省みたいと思うのです。
次に、彼らの姿の中に見ることができるのは、彼ら一同があくまでも神の言葉 を重んじたという事実です。
十二人の使徒たちは言いました。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにし て、食事の世話をするのは好ましくない。…わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕 に専念することにします。」それまではどうなっていたかと言いますと、教会内 の具体的な生活面の事柄に至るまで使徒たちが関わっていたようなのです。それ は四章三四節以下に「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち 寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配された からである」と書かれていることからも伺い知れます。もちろん、具体的な分配 に関する実務は他の者が受け持っていたのでしょうが、まだ誕生して間もない教 会でありましたので、使徒たちが関わらざるを得ないことも多かったのだろうと 思われます。
しかし、ここで具体的に配給の問題が起こるに当たって、使徒たちは「祈りと 御言葉の奉仕に専念することにする」という方針を打ち出したのです。それはも ちろん、現実の目の前の問題をないがしろにするということではないのですが、 とにかく教会が為すべきこととして教会内外に神の言葉を宣教するという使命は ゆるがせにしてはならない、ということを明確にしたのであります。
一同はこの提案に賛成しました。これは何を意味するのでしょう。これはすな わち、教会全体が神の言葉を重んじるという姿勢を明らかにしたということであ ります。不満が表面化して教会全体がガタガタしているその時に、使徒たちはま ず祈り、御言葉を語るべきだ、ということに同意したのです。また、当然の事な がら、この決定は、問題のただ中においても弟子たちの群れは御言葉を聞くとい うことを重んじる、という意志の現れでもあり、いついかなる状態にあっても世 に対して福音を語り続けていくのだ、という意識を持っていたということでもあ ります。
教会に問題が起こらないに越したことはありませんが、たとえ少々揺れるよう なことがありましても、御言葉と祈りが重んじられている限り、教会は倒れませ ん。大丈夫です。様々なトラブルの中にありましても、信仰者が神の言葉を聞く ことを重んじている限り、その信仰者は揺らいで倒れるようなことはありません。 逆に、どれほど活発に生き生きしているように見える教会でありましても、御言 葉が語られ、御言葉が聞かれることが重んじられないならば、それはいつ倒れて もおかしくないような脆さをもった教会であると言わざるを得ません。どんなに 熱心な信仰者でありましても、御言葉を軽んじているならば、その信仰生活はい つかつまずくことになるでしょう。私たちはそうであってはなりません。
さて、このように、教会内のトラブルの話で始まりました六章でありますが、 七節まで来ますと次のように書かれています。「こうして、神の言葉はますます 広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入っ た。」結局、神の御業は進んでいくのです。教会内の問題にもかかわらず、教会 を用いて神様は御業をなされるのです。考えてみますならば、ここで七人のヘレ ニストたちが按手を受けて特別な任を託されたということは不思議なことであり ます。この後、福音はユダヤ人世界を越えて異邦人社会へと伝えられていくので すが、そこにおいて非常に重要な働きをするのは、ギリシャ語を話すヘレニスト たちなのです。ですから、ここでギリシャ語を話す指導者たちが立てられ、務め が与えられたというのは、後の歴史にとって大きな意味を持つこととなりました。 まさに天の配剤と言わざるを得ません。
このように、神様は様々な困難やトラブルの中でも人を立てられ、務めを与え られ、未来における神様のご計画と結びつけられます。神様は私たちの現実を御 手の中に置かれ、導かれます。神様は実に私たちの目の前の問題よりも大きな方 です。私たちは、そのような方にもっと信頼すべきです。大切なことは初代教会 の中に既に見てきました。私たちは事柄の目に見えるところだけに振り回されて 安易な表面的な解決を求めてはなりません。小さな事ごとも信仰の課題として聖 霊に依り頼んで受けとめていくべきです。また、どのような問題の中でも神の言 葉が語られ、聞かれることを重んじていくことであります。後は神様に委ねるべ きでしょう。神様は、最善の結果を生み出すために、最悪の事態をさえ用いるこ とのできるお方なのです。