一九九六・九・八 使徒言行録 7章1節~43節 「人生最後の宣教」  本日は、ステファノによってなされた大変に長い説教の前半ををお読みいたし ました。六章後半に、このステファノとはいかなる人物であるかが記されており ます。彼は、教会内に起こった問題を解決するために選ばれた七人のリーダーの 一人でありました。彼らについては「信仰と聖霊に満ちている人(六・五)」と 描写されております。そして、六章八節以下を読みますと、ステファノもまた使 徒たちと同じように、力ある業をなし、キリストを証ししていた人あることが分 かります。特に、彼はギリシャ語を話すユダヤ人、すなわちヘレニストでありま したので、ヘレニストが集まる会堂を中心に活動していたようであります。ここ には、「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身 の人々などのある者たちが立ち上がって、ステファノと議論した、と記されてお ります。彼が、会堂において聖書の解き明かしをしますと、そこに議論が湧き起 こったのでしょう。やがて、ステファノには議論では勝てないことが分かります と、彼らは別の形で、ステファノの口を封じようと企みました。民衆、長老たち、 律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院へと引いて行っ たのです。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせたのでした。「この男 は、この聖なる場所(すなわち神殿)と律法をけなして、一行にやめようとしま せん。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人 イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」 このように、ステファノは、かつて使徒たちがそうされたように、最高法院にお いて裁かれることになったのでした。  さて、ここで私たちは、四章、五章において使徒たちが取り調べを受け、脅迫 を受けた時とは、まったく違う状況にステファノが置かれていることに注意しな くてはなりません。かつて使徒たちが捕らえられた時には、少なくとも民衆は味 方でした。ですから、大祭司と仲間のサドカイ派の連中は手荒なことは出来ませ んでした。ところが、今度は、民衆が扇動されて、敵に回っているのです。丁度、 イエス様が裁かれた時のようにです。また、使徒たちが取り調べを受けた時には、 ファリサイ派の人たちは処罰することにはそれほど積極的ではありませんでした。 ガマリエルが「あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい(五・三五)」と言いま したが、それが大方のファリサイ派の意見を代表していたのでしょう。ところが、 今回は違います。彼らは、巧妙にも、「この男は、神殿と律法をけなしている」 と訴えたのです。神殿をけなすことは、祭司階級でありますサドカイ派の怒りを 煽ります。律法をけなしているという訴えは、ファリサイ派も見過ごしにできま せん。つまり、明らかにステファノを亡き者にすることができる状況がそろって いるのです。しかも、既に使徒たちが繰り返して警告を受けた後です。死罪にす ることは十分可能でありました。  恐らく、ステファノも自分が非常に厳しい状況に置かれていることを知ってい ただろうと思います。もしかしたら、生きて仲間のもとへは帰れないかもしれな いと思っていたかもしれません。そして、事実、七章の最後において、彼は石打 ちの刑の執行によって惨殺されてしまうのです。  ですから、これは彼が生涯において語った最後の説教です。その言葉を彼はい かなる思いをもって語ったのでしょうか。六章の最後にこう書かれています。 「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさなが ら天使の顔のように見えた。」言われのない罪状において訴えられ、今や命を奪 われるかも知れないという時、彼は敵意に対して敵意を示しながら、一生懸命自 分の無実を訴えようとしたのではありません。彼の顔は憎しみに満ちていたので はなくて、まさに「天使のように」としか表現できないほど、神の栄光に輝いて いたのでした。彼は、平安と愛に満たされてキリストの証し人として立つのです。 最後の宣教の言葉を語るのです。その結果として、石打ちにされて殺される時に も、彼は人々のために執り成し祈りながら死んでいくのです。「主よ、この罪を 彼らに負わせないでください(六〇節)」。  もちろん、聖書は、彼の類い希なる人格的な徳を賞賛しているのではありませ ん。彼を「信仰と聖霊に満ちている人」と表現していたことを忘れてはならない のです。つまり、これは信仰によってもたらされた神の霊の御支配によるものだ、 ということであります。神によってもたらされたものであって、人から出たもの ではありません。これが聖書の語る信仰の世界の奥行きなのだと思います。私た ちが人を評して「あの人は信仰熱心だ」とか「あの人は立派な信仰者だ」と言い ます時、往々にして私たちの考えていることは、聖書の語るところと比較すると、 何と低次元なことであることでしょうか。私たちは信仰の世界を皮相的にしか捉 えていないのではないかと改めて思います。聖霊の御業を余りにも小さく考えて いるのではないか。私たちは、人間ではなく神の霊の為し給うことを求めていき たいと思うのです。私たちも、彼のように、いかなるところにおいても、天使の 顔を輝かせてキリストを証しできる者になりたい。人生の最後に至るまでそのよ うな証し人として生きたい。そのことを求めたいと思うのです。 ○  さて、大祭司が「訴えのとおりか」とステファノに尋ねました。ステファノに は、恐らく二度とやってこない福音宣教の機会であると思われたに違いありませ ん。ステファノは議論のための議論をしてきたわけではありません。彼の内には 訴えた人々や大祭司たちへの怒りや憎しみはありませんでした。ただ、自分がキ リストによって与った恵みに、彼らもまた与ってほしいという一念だけがありま した。ただ単に訴えられたことについて弁明する気はありませんでした。訴えが 偽りであるか、事実であるか、それはどうでも良かったのです。真実は神がご存 じだからです。  彼は、「兄弟であり父である皆さん、聞いてください」と切り出します。そし て「わたしたちの父アブラハムが…」と続けるのです。モーセから何百年も前に 遡ったところから始め、まず、八節まではアブラハムについて語るのです。「わ たしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかった とき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』 と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住み ました。(二‐四節)」  ステファノは、「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々 に伝えた慣習を変えるだろう」と言ったということで訴えられたのでした。しか し、神が現れたのは、モーセが最初ではありません。神との交わりは、モーセが 伝えた慣習や律法によって初めて成り立ったのではないのです。律法が与えられ る何百年も前に、神はアブラハムに現れたのです。そこで彼に求められたのは、 神への信頼と従順でありました。神に信頼し、神の約束に信頼して、住み慣れた 土地と親族を離れ、示されるままに旅立つことだったのです。その信頼と従順の 生活において、神との交わりがそこにあったのです。  彼らはモーセの律法が大切である、神殿が大切であると言います。しかし、そ れらは真実なる神との交わりをもたらしませんでした。神はアブラハムに御自身 を現されました。同じ神はイエス・キリストを通して彼らにも現れたのです。イ エス・キリストを通して罪の赦しと神の国の約束が与えられました。神との新し い関係へと招かれたのです。しかし、彼らには安住の地がありました。それは律 法宗教であり、神殿宗教でありました。彼らは、古い生き方にしがみついて、命 への導き手を退けてしまったのです。その古い生き方の中に命がないと分かって いても、そこから出ようとはしなかったのです。この場面においても、彼らの安 住の地を脅かす者として、ステファノに対して憎しみに満ちて向かっているので す。信仰の父アブラハムのあり方といかに違うことでしょう。もちろん、私たち は、このことを他人事のように聞いてはなりません。私たちもまた、キリスト教 的な生活をしているようではありましても、いつの間にか、生ける神への信頼と 従順を失っているということは起こり得ることであります。  さらに、ステファノはヨセフ、そしてモーセについて語ります。ここには、ア ブラハムを信仰へと呼び出された神がいかに真実であられたかが記されています。 しかし、それにもまさって、いかに神の民が神に逆らってきたかが記されている のです。神は真実に行動されました。約束の通り、アブラハムにはイサクが与え られ、イサクにはヤコブが生まれました。ヤコブには一二人の子供が生まれまし た。その末から二番目の子がヨセフでした。ヨセフは神によって特別に選ばれた 人でありました。その計画を彼は夢によって示されるのです。(創世記三七・五 以下)ところが、お兄さんたちは、このヨセフを穴の中に突き落とし、結果的に エジプトに売り飛ばしてしまったのでした。ステファノは、そこに働いたのは 「ねたみ」であった、と語ります。イエス・キリストが訴えられた時も、そこに 働いたのは祭司長たちの「ねたみ」でありました。(マルコ一五・一〇)教会に 対して脅迫と迫害の手が伸びたのも、「ねたみ」が一因でありました。「そこで、 大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒た ちを捕らえて公の牢に入れた(五・一七)」と書かれています。人間のねたみが 神のご計画に対して立ちはだかるのです。  しかし、神は、神に逆らった族長たちの行為にもかかわらず、救いの御業を進 められます。神は真実です。やがてヨセフはエジプトの大臣になりました。その ことが、後の飢饉の時代において、ヤコブと子供たちを救うことになります。彼 らの親族一同はエジプトに移住することになるのです。そこで子孫が増え広がる ことになったのでした。やがて増え広がった民は虐待の対象となりました。彼ら は皆エジプトにおいて奴隷とされたのです。しかし、そのような中で神の御業は 進めておられました。人の目には何も見えないうちから、既に神の御手は動いて いたのです。力ある神は、そのような厳しい現実の中で、解放者となるべきモー セを養い育てておられたのでした。そして、モーセが四〇歳の時、モーセは「兄 弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立」ったのです。しかし、神がモー セを通して為そうとしておられることに逆らったのは、奴隷を追い使うエジプト 人たちではありませんでした。そうではなくて、同じイスラエルの民に属する同 胞がモーセを拒んだのです。「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救お うとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解し てくれませんでした。(二五節)」結局、モーセは四〇年間ミディアンの地に引 き籠もることになるのです。  しかし、神はイスラエルの民を見捨てられませんでした。四〇年後、神がモー セに現れました。そして、モーセが指導者また解放者として立てられるのです。 神はモーセを通して民を救い出されたのでした。しかし、そこで何が起こったの でしょうか。「けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプ トをなつかしく思い、アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてく れる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身 の上に、何が起こったのか分からないからです。』彼らが若い雄牛の像を造った のはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつっ て楽しんでいました。(三九‐四一節)」見えない方に依り頼むよりは、見える ものを造ってそれに依り頼もうとしたのです。「わたしたちの先に立って導いて くれる神々を造ってください。」これは実に愚かな要求であることは考えれば分 かります。しかし、同じようなことを人は繰り返して来たのです。今も繰り返し ていると言えるでしょう。ステファノは話を端折って、後に行われた天体礼拝に も言及します。「そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれま した。」そして、続いてアモス書五章が少し言葉を変えて引用してありますが、 ここに書かれているように、その愚かさが悲惨な結果を招くのです。しかし、神 はなお真実であられ、その神がキリストをこの世界に送られたのでした。  ステファノが聖書を通して語っているのは、神の真実であり人間の頑なさです。 神は人の救いのために行動し続けられます。人はその恵みを拒み続けます。アブ ラハムを信仰へと招かれた神は、最終的に、同じようにキリストを通して信仰へ と招かれます。罪の贖いのために十字架にかけられたキリストを復活させて、な おもこの方を信じる信仰へと招かれるのです。そして、神に逆らう古い生き方の 中から立ち上がって、このお方を信じ従う者に、神は聖霊を豊かに注がれるので す。ステファノはそのことを示すために、頑なであり続けた先祖の歴史を語った のでありました。   ○  さて、この場面において、私たちの前にはステファノと、彼を憎む人々が立っ ています。一方に、神の命に満ちあふれ、天使の顔をもって立ち、人生最後の瞬 間まで愛と真実をもって語る人がいます。もう一方には、この世的な力はあり、 口では正統なこと立派なことは言うのだけれども、その内側には命がない、死ん だような人々がおり、その心は憎しみと妬みで満ちあふれているのです。その二 者の間に、ここに語られているステファノの説教があるのです。今日はその前半 だけををお読みしました。これを私たちは他人事のように聞いてはなりません。 私たちに対してもまた、自分のあり方を問いかけられているのであります。私た ちの救いのために真実に行動し続ける神に対して、私たちはどのように対してい るかが問われているのです。