一九九六・九・二二 使徒言行録 8章1節~25節 「聖霊の力」  「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、 ユダヤとサマリアの地方に散って行った。(一節)」  ステファノの殉教を期に大迫害が起こりました。ステファノの勇気ある行動は、 人の目から見るならば、最悪の結果を生み出したのでした。特に、ステファノと 同じようにギリシャ語を話すユダヤ人たちが迫害の目標となったようです。使徒 たちなど、ヘブル語を話すユダヤ人たちはエルサレムに残ることができました。 しかし、他の人々は皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行ったのです。これは、 誕生したばかりの教会にとっては大きな打撃でありました。  しかし、ここで散っていった人々については何と書いてあるでしょうか。四節 を御覧ください。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩 いた。」これは大変、興味深い表現です。「散って行った」と訳されていますが、 厳密に言いますと、これは「散らされた」という言葉です。受動態なのです。つ まり、そこには不可抗力がありました。彼らには選択の余地はなかったのです。 しかし、その後には「巡り歩いた」書かれています。これは受動ではありません。 彼らが自らなしたことであります。彼らは仕方なく散らされたのです。しかし、 そのままではありませんでした。今度は、彼らが「福音を告げ知らせながら巡り 歩いた」のです。  ここに、彼らの姿勢を見ることができます。彼らは迫害によって散らされると いう厳しい出来事の上に、キリストの御支配があることを見ていたのです。彼ら は、この出来事も、決して神の御手の外にあるのではない、ということを確信し ていたのだと思います。ですから、ただ事態を嘆いて時を過ごしませんでした。 現状を前向きに受け止めました。この大迫害によるエルサレム教会の離散を、す べての結論としては見ていませんでした。一つのプロセスとしか見ていなかった のであります。これは大切なことです。神が支配のもとにある一過程であるなら ば、そこには必ず神の御計画があるはずだからです。ですから、彼らは為すべき ことをその現状の中で為していきました。それは福音を告げ知らせて巡り歩くこ とでありました。  私たちは、使徒言行録を読んでいきます時に、彼らがユダヤとサマリアの地方 へと散らされていった出来事の中に、確かに神様の御手が働いていたことを見る ことができます。「ユダヤとサマリア」という言葉で、何かを思い出さないでしょ うか。そうです、イエス様の最後の言葉です。使徒言行録一章八節を御覧くださ い。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エル サレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、 わたしの証人となる。」ですから、神様の御計画の中には、既に初めからユダヤ とサマリアへの宣教が入っていたのです。しかし、そのようにイエス様から言わ れましても、彼らの意識の中にサマリアは入っていなかっただろうと思われます。 というのも、詳しい事情は割愛ますが、ユダヤ人とサマリア人の間には大きな壁 があったからです。教会がそのままであるならば、決してサマリア伝道などは始 まらなかっただろうと思われるのです。  しかし、神様は彼らを押し出されました。それは迫害を通してでした。神様は 壁の中に留まろうとする人を外に押し出されます。今でも主は、私たちにしばし ば同じことをなさいます。一見、理不尽とも思える出来事を通して、私たちは外 に目を向けさせられるのです。自分自身のことしか考えていなかった人が家族と 向かい合わされ、家族のことしか考えていなかった人が広く人々と向かい合わさ れる。そのようなことが起こります。あるいは共に生きることの難しい人々とあ えて向かい合わせられます。そのようにして、今まで意識の壁の外にあった人々 について、その救いを願うものとされるのです。  私たちが経験する困難な出来事はいつでも一つのプロセスに過ぎません。結論 ではありません。ですから、常に、神様の目的がどこにあり、どこに向かわせよ うとしているのかを問わなくてはならないのです。そこで事態を前向きに受け止 めていく人々を神様は用いられるのです。ただ現状を嘆いているのではなくて、 そこに遣わされているとの自覚をもって今度は自ら「巡り歩く」ようになる人を、 神様は用いられるのであります。 ○  そのように散らされていった人々の一人にフィリポという人がおりました。彼 はステファノと同じように、初代教会において問題解決のために選ばれた奉仕者 の一人でした。(六・五)彼のサマリアでの働きについては次のように書かれて います。「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群 衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入っ た。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びな がら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々 は大変喜んだ。(五‐七節)」かつて、エルサレムにおいて、神様が使徒たちを 通してなさったように、今、サマリアにおいても神様はフィリポを通して力強く 働かれました。多くの人々がいやされ、解放され、福音に耳を傾けたのでありま す。神様は、その点において、サマリア人とユダヤ人を区別されませんでした。 フィリポにもそのことはよく分かったと思います。  とは言いましても、人間的に見るならば、この町は決して宣教に適していると 言えるような町ではありませんでした。既に言いましたように、サマリア人とユ ダヤ人の間には壁がありました。サマリア人はユダヤ人であるフィリポに対して、 当然ある種の偏見を持っているわけです。それだけではありません。その町は以 前からシモンという男の影響下にあったと言うのです。  九節以下を御覧ください。「ところで、この町に以前からシモンという人がい て、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、 小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力 だ』と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪 われていたからである。」霊能力者が人々の心を奪い、支配するということは、 現代においても見られる現象であります。ですから、ユダヤ教からの迫害は及ば なかったとしましても、福音を受け入れる素地が本来的にそこにあったというわ けではないのです。  ところが、そのような町において、人々はただフィリポの話を聞くようになっ ただけではありませんでした。彼らは、やがて福音を受け入れ、キリストを信じ るに至ったのです。「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を 告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」と書かれています。いや それだけではありません。「シモン自身も信じて洗礼を受け」たと言うのです。 それは後に見ますように多分に問題を孕んだ入信ではありましたが、ともかく、 町に多大な影響を与えていた霊能者が福音を受け入れ、キリストを信じたのであ ります。  日本は伝道が難しいと言われます。確かに、そう思います。地方に行ったらな おさらでしょう。私たちの周りの人に福音を伝えようとしますときに、決してそ れが容易なことではないことを思います。否定的要因を挙げていったらきりがあ りません。しかし、そこで考えたいと思うのです。あのサマリアは今の日本より も良い条件のもとにあったのでしょうか。民族的な壁があり、オカルト的な魔術 が横行し、悪霊の働きも著しいその場所で、良いと思われる条件は何一つそろっ てはいなかったのです。条件がそろえば伝道の業が進むのではありません。素直 な素朴な人々が大勢いるところでは福音が伝えられ易いということでもないので す。私たちが八章において見るのは人の業ではありません。明らかに神の御業な のです。フィリポの人間的な能力とは何の関係もありません。サマリアの町に遣 わされたのが神様であるならば、そこにおいていやしと解放の業をなし、信仰を 与えて救いに導かれたのも神の御霊の働きに他ならないのです。フィリポがした ことと言えば、神の国とイエス・キリストを語ったこと、そして祈ることだけで ありました。  ですから、私たちは諦めてはならないのです。この日本は変わらないと思って はならないのです。私たちの身近なところについても「こんな人は変わらないだ ろう」「こんな家は変わらないだろう」「こんな職場は変わらないだろう」など と思ってはならないのです。いくらキリストを伝えても、誰も信じようとはしな いだろう、などと思ってはならないのです。神の霊が働く時に救いの御業が起こ るのです。何も変わりやしない…いや、そうではありません。あのサマリアの町 は神によって変えられたのです。それは聖霊に満たされたたった一人の人を通し て起こりました。同じ神の霊が私たちを通して為そうとしておられるのは、必ず しもフィリポのように奇跡を行うことではないかも知れません。しかし、それが どのような形であれ、聖霊が私たちを通して救いの御業を為そうとしておられる のです。かつて主がサマリアにおいて為してくださった御業を、今もこの国にお いて為してくださるようにと、諦めることなく祈り求めていかなくてはなりませ ん。 ○  さて、エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れた と聞きまして、ペトロとヨハネをそこへ行かせました。(一四節)「二人はサマ リアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イ エスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていな かったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受け た。(一五‐一七節)」  彼らはフィリポを通して働く力によってイエスをキリストと信じるに至りまし た。もともとサマリア人もメシア待望の思想を持っていましたので、このイエス というお方こそ待ち望んでいたメシアであり救い主であると信じて、主イエスの 名によって洗礼を受けたのでしょう。誰も聖霊によらなければイエスを主と告白 することはできないのですから(1コリント一二・三)、彼らの信仰告白は確か に聖霊のお働きによるものであったはずです。しかし、信じる者の内に、また信 じる者を通して聖霊が働き給うことを、彼らはまだ知りませんでした。つまり、 フィリポというキリストの証し人を通して洗礼へと導かれたのですけれども、自 分自身が聖霊に満たされてキリストの証人になるべきことを彼らはまだ悟ってい なかったのです。  使徒たちはサマリアに下ってきて、使徒言行録二章に書いてあるように預言者 ヨエルの書を彼らに説き聞かせたのかも知れません。そして、手を置くと彼らは 聖霊を受けました。それは、第三者であるシモンが見て分かるほどの出来事だっ たのですから、恐らく、ペンテコステにおいて使徒たちに起こったのと同じよう に、サマリアの新しい教会の内にも異言などの聖霊の賜物が見られたということ なのでしょう。もちろん、私たちは、この手を置くという行為だけを魔術的なこ とのように捉えて形だけを模倣するようなことであってはなりません。また、現 象としてそこで何が起こったか、ということだけに関心を向けることも間違いだ ろうと思うのです。要するに、大切なことは、使徒たちの宣教と祈りを通して、 彼らは内に働き給う聖霊なる神を知り始めたということなのです。それは、勿論、 私たちにとっても、キリストの証し人として生きるために必要なことなのです。  ところが、ここに、自ら神の霊を求め、神の霊に支配され、満たされることを 求めるのではなくて、何か事を起こす「力」だけを求めた人物がおりました。シ モンです。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしに もその力を授けてください。」彼は金を持ってきてそう言ったのです。  誰でもこの場面を読みますならば、明らかにシモンは間違っていると思ことで しょう。特に、「金を持ってきて」というところに間違いを見いだすだろうと思 うのです。しかし、考えて見てください。彼は、私たちなら絶対にしないような 愚かなことをしているのでしょうか。これが「お金」ではなくて、例えば何らか の「犠牲を払うこと」であったり「努力をすること」であるならば、どうでしょ うか。彼は、表面的には、「力ある働き人」になることを求めているのです。そ のためには犠牲をも厭わなかったということです。たまたま彼にとっては「金を 持ってきた」ということなのです。似たようなことは私たちにもあるのではない でしょうか。私たちは「何かができる人」でありたいのです。そのためには金を 直接的にもってこないにしても、何らかの犠牲を払おうとするのでしょう。それ は表面的には「神のために」ということであるかも知れません。しかし、ペトロ ははっきり言っているのです。「お前の心が神の前に正しくないからだ。…お前 は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」 シモンは、サマリアの町におけるかつての尊敬と支配力を再び手にしたかったの かも知れません。しかし、そのような誤った動機は、私たちの求めの中にも忍び 込んでくるものです。  シモンは「力を授けてください」と言いました。しかし、私たちが求めるべき であるのは、力そのものではありません。力を持ったお方御自身なのです。神御 自身を慕い求め、神の御霊を求めるべきなのです。そのお方に治めていただき、 満たしていただき、全く神のものとなることこそ求めなくてはならないのです。 私たちがそのように願い始める時、神御自身が私たちを通し、御計画に従って私 たちを用いて、神御自身の御業を為し給うのです。