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「喜びにあふれて」

1996年9月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 8章26節~40節

 先週、私たちは、フィリポの働きを通して、サマリアの町の多くの人々がキ リストを信じ、洗礼を受けたという出来事を読みました。今日はその続きです。 26節以下を御覧ください。

 「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムか らガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出 かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の 管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中で あった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。(26‐28 節)」

 天使の登場は、要するに、そこに神様の導きがあったことを意味します。神 様が、フィリポをサマリアから出発させるのです。南に向かわせます。「そこ は寂しい道である(26節)」と書かれています。(聖書協会訳では、「この ガザは、今は荒れはてている」と訳されていました。しかし、ここで荒れ果て ていると言われているのは、ガザであるいうより、ガザへ下る道を指すと読ん だ方がよいでしょう。)神様は、人のいない、荒れ野のを通る道へとフィリポ を導かれたのです。これは人間的な見地からすると、はなはだおかしなことの ように見えます。伝道者が人のいないような場所へ行ってどうするのでしょう。 福音を聴く人があってこそ、伝道者は働けるのです。

 状況を考えて見てください。サマリアの人々の多くはフィリポによって導か れました。彼らは、フィリポを必要としているのです。フィリポの為すべきこ とは、まだ沢山あるはずです。彼がそこに留まれば、もっと多くの人々がキリ ストを信じるようになるだろうと考えられます。しかし、神様はそこからフィ リポを取り去られたのでした。そして荒れ野に向かわせたのです。これは働き の効率を考えるならば愚かなことのように見えます。いや、無意味なことのよ うに見えるのです。

 しかし、フィリポは、この神の導きを前向きに受け止めました。「すぐ出か けて行った」と書かれています。文句を言いませんでした。従順に従いました。 フィリポは、サマリアにおける働きは、決して自分の力や知恵によって成され たのではないということを知っていたからです。自分の力によって事が成され ているのだと思っている人は、必要としている人々の間から動こうとはしませ ん。神様によって働きが強制的に中断されるならば、神様に食ってかかります。 人の力や人の業がすべてだと思っている人には、効率的でないこと、効果的で ないことには耐えられません。荒れ野へと導かれようものなら、ずっとぶつぶ つ呟いて、不平不満に満ちて道を行くようになるでしょう。フィリポはそうで はありませんでした。

 その結果を見てみましょう。フィリポは荒れ野の道で一人の人に出会います。 それは「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていた エチオピア人の宦官」でありました。財産と訳されているこの言葉は、「ガザ 」という言葉です。地名のガザと同じ発音なのです。「ガザへ下る道で、ガザ を管理する者に出会った」というわけです。もちろんこれを書いたルカは読者 を笑わせるために、こんな駄洒落を書いているのではありません。そうではな くて、ここに確かに神様の御心が働いていたのだ、ということを表現している のです。神様の目的は、フィリポとこの宦官を出会わせることでありました。 サマリアの町全体を顧み給うた神は、たった一人の異国の旅人をも顧みられる のです。そのためにあえてフィリポを荒れ野へと導かれたのです。

 神様は、私たちに対しても、時として、あえて効率的ではない道へと導かれ ます。一見すると、無意味なことを為すようにと導かれるのです。人間の目か ら見ると遠回りに思えることをさせ給うのです。順調に行っていたことを中断 され、思いもよらない所へと行かされることもあるのです。それがしばしば私 たちの経験するところです。しかし、そのような時、私たちはフィリポの経験 を思い起こさなくてはなりません。神様が人を導かれる時、そこには必ず、そ の人を通して為そうとしておられる御計画があり、目的があるのです。神様は すべてをご存じの上で事をなされます。私たちは全てを理解しているわけでは ありません。後に理解できる時が来るでしょう。

 神の導きのあるところに、神による出会いがあります。寂しい道を行く一人 の人がフィリポに出会いました。39節の終わりには、「喜びにあふれて旅を 続けた」と書かれています。何が彼にそのような喜びをもたらしたのでしょう か。次に、そのことを見ていきましょう。

 29節以下を御覧ください。「すると、??霊??がフィリポに、『追いかけて、 あの馬車と一緒に行け』と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書 を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか 』と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりまし ょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。(29‐3 1節)」

 宦官は聖書を読んでいたのです。そこにフィリポが走り寄りました。ここに 書かれている一連のやりとりを通して宦官がフィリポに求めたのは、聖書を理 解する手引きでした。そこで、フィリポは聖書の解き明かしをしたのです。要 するに、ここで起こっていることは、まず第一に、聖書に書かれていることが 分かった、ということです。ここでフィリポを導き、フィリポを通して働き給 うのは神の御霊です。聖霊の働きによって聖書に書かれていることがこのエチ オピア人に対して開かれたのです。

 それは聖書のどの箇所であったかと言いますと、彼が朗読していたのは、イ ザヤ書53章でした。ここには、53章7節と8節が、ギリシャ語訳聖書(七 十人訳聖書)から引用されています。

 「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している 小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だ れが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。 (32‐33節)」

 イザヤ書52章の終わりから53章にかけて記されているこの部分は、しば しば「苦難の僕(しもべ)の歌」などと呼ばれます。苦難を受けて死んでいく 一人の無名の人物について書かれているからです。古来から、ユダヤ教の中に おいて、これは誰について書かれているのかという解釈にまつわる議論があり ました。このエチオピアの宦官が尋ねているのはその点についてです。ところ が、初代教会の人々は一点の曇りもなく、確信をもって、これはナザレのイエ スのことであると宣べ伝えていたのでした。あのお方こそ、イザヤ書に書かれ ている苦難の僕なのだ、というところに教会の伝えてきた中心的なメッセージ があるのです。

 もう少し、聖書に即して見ていきましょう。以前も申し上げましたように、 この使徒言行録はルカによる福音書の続きです。二巻目です。第一巻目におい て、イエス様が公の場においてなされた説教として初めて出てくるのは、ナザ レの会堂において語られたものです。ルカによる福音書4章17節以下に出て きます。そこでまず、イエス様はイザヤ書を朗読されます。「主の霊がわたし の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注 がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵み の年を告げるためである。」そして、イエス様は宣言されたのです。「この聖 書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」キリストは、解 放を告げ、回復を告げ、自由にするお方として御自身を現されました。これが、 まず福音書に見るキリストの姿であります。主は、その後、人々の間で病を癒 され、悪霊を追い出し、既に語られた福音を行為においても表されたのです。

 しかし、イエス様御自身は、人々に福音を告げ、解放を告げるということが どういうことであるかを知っておられたのでした。この福音が真に成就するた めには、御自身がどのような道を歩まねばならないかを知っておられたのです。 やがて、キリストは御自分の受けるべき苦しみについて語り始められます。苦 難の道を歩まれます。そのようなイエス様の内にあったのは、聖書に書かれて いる一人の人物の姿でありました。それが、あのイザヤ書53章に記されてい る苦難の僕なのです。

 使徒言行録に引用されている箇所の前後を含めて、イザヤ書のその部分を読 んでみましょう。53章6節以下にはこう書かれています。「わたしたちは羊 の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪を すべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開 かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない 羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取 られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、 彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。(6‐9節)」

 人は解放を求めます。回復と自由を求めます。幸いを求めます。救いを求め ます。ですから、最終的に回復と解放と自由が完成され、救いが完成された世 界、神の国について聞くことにも抵抗はないでしょう。しかし、私たち人間は、 救いを求める一方で、自分たちが「道を誤り、それぞれの方向に向かって行」 っている存在であるということをしばしば忘れています。いつでも、自己中心 であり、間違ったことばかりをしており、自分勝手な道を歩み続けている者で あるということに気付かないでいるのです。そのような私たちが、解放され、 自由にされ、神の御支配のもとに救いが全うされるということが、いったいど ういうことであるかを考えようといたしません。

 イエス様には分かっておられたのです。罪ある者が救われるためには、罪が 赦されなくてはならないのです。罪は贖われなければ解決しないのです。罪の 問題が解決していないところに救いはないのです。ここには、「そのわたした ちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」と書かれています。そのような一人 の人の姿があるのです。イエス様は、ここに書かれている苦難の僕になろうと されたのです。罪を背負って死んでいく、この僕になろうとされたのです。そ こに父なる神の御心があると知っていたからです。

 父なる神はキリストが自らを献げた贖いの犠牲を受け入れられました。あの 十字架の死は、単に権力者の力によってもたらされた敗北の死で終わりません でした。神は、あの十字架の死を贖いの死として受け入れられました。だから 死んで終わりではなかったのです。神はイエス様を復活させられたのです。そ して、私たちの主、メシアとして立てられました。復活は、あのお方による贖 罪の完成を示します。復活のキリストを通して、復活の証人たちはメシアの苦 難に対して目が開かれました。また、さらに復活の証人たちの証言を通して、 多くの人々がこの聖書の箇所を悟ったのです。フィリポもその一人だったので しょう。そして、フィリポを通して、この一人のエチオピア人が、この苦難の 僕がだれであるかを悟ったのでした。イエスこそこの僕である。私たちの罪を 背負って十字架にかかってくださったお方である。このお方によって贖いは全 うされた。既に、この預言は成就した!そのことに対して目が開かれたのであ ります。

 ですから、この人はただちに恵みの福音に応答しました。ここに起こってい ることの第二は福音への応答でした。キリストの成してくださった御業に応答 する道は単純です。既にペトロが語っています。「悔い改めなさい。めいめい、 イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そう すれば、賜物として聖霊を受けます。(2・38)」宦官とフィリポは水の流 れているところを通りかかりました。宦官は言います。「ここに水があります。 洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。(36節)」宦官というのは 去勢された人です。去勢された人は、律法によれば、神の民に加わることはで きませんでした。(申命記23・2)彼は、はるばるエルサレムにまで巡礼す るような人であっても、主の会衆に加わることは許されなかったのです。しか し、今や彼は、救いが何かの資格によるのではなく、ただキリストの十字架に よる贖いによるのだということを悟ったのでした。ならば、妨げる物は何もな いはずです。

 彼は洗礼を受けました。人は、何かの資格に基づいて洗礼を受けるのではあ りません。自分がやっとキリスト者となるに相応しい人間になった、と考えて 洗礼を受けるような人は、ろくなキリスト者にならないでしょう。人は相応し からぬ自分であることを認めて、キリストの贖いに依り頼んで、洗礼を受ける のです。解放を告げられ、自由にされ、救われるのに本来相応しくない者、神 の国を受け継ぐのに本来相応しくない者であることを認めて、ただキリストに 依り頼んで洗礼を受けるのです。そのようにして、罪を赦され、聖霊を受け、 神の民に加えられるのです。

 宦官は喜びながら旅を続けました。もはや、寂しい道をここまで旅してきた、 先ほどまでの彼ではありませんでした。フィリポは彼のもとからは取り去られ ます。フィリポと過ごした時はすばらしい時ではありましたけれど、それが大 きな意味を持つのではありません。この人が、罪を赦された者として神と共に 生きていく、それが永遠の意味を持つのです。フィリポはその手助けをしたに 過ぎません。

 私たちの遣わされるそれぞれの場所で、神様が私たちに出会わしてくださる 人々にも、この宦官と同じことが起こりますように。そのように、私たちが用 いられますように。そのことを願いつつ、ここから再び世に送り出していただ きましょう。

 
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