使徒言行録 9章1節~19節 「サウロの回心」  今日お読みしましたところにはサウロという人物が出てきます。彼は、13 章9節以後ではパウロという名前で呼ばれています。彼は伝道者でありました。 キリスト教が地中海沿岸一帯に伝えられたことについて大きな働きをしたのは この人でありました。使徒言行録の後半は、この人物を中心として書かれてい ます。また、新約聖書の中の13の手紙は、パウロを差出人とするものです。 彼を抜きにして聖書を語ることも、キリスト教の歴史を語ることもできません。 それほど、私たちにとって大きな意味をもつ人物、それがこの人であります。 しかし、彼は、もともとは律法に熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教会の迫 害者でありました。彼の名があえてサウロというヘブライ語の名前で呼ばれて いるのはそのことを表現しているのでしょう。ここに見るのは、そのような彼 の回心であり、いわばキリスト者としてのパウロの原点ともいうべき出来事で あります。私たちは、その出来事の意味するところをよく考えたいと思うので す。  初めに1節、2節を御覧ください。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを 脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あて の手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛 り上げ、エルサレムに連行するためであった。(9・1‐2)」  シリアのダマスコには大きなユダヤ人の共同体がありました。各地に会堂が ありました。迫害によって散らされていったキリスト者は、ダマスコにあるユ ダヤ人社会の中においても、キリストを証しして歩いたのでしょう。既に、多 くのキリスト者がそこにいたものと思われます。サウロは、ユダヤだけではな く、ダマスコにまで迫害の手を伸ばそうと考えておりました。そこで、大祭司 の手紙を求めたのです。大祭司は最高法院の頂点に立っておりましたから、大 祭司の権力はユダヤ以外のユダヤ人社会にも及んでおりました。その大祭司の 持っています警察権を背景に、キリスト者を逮捕し殺害しようと思っていたの です。彼は、脅迫と殺害の息をはずませながら、ダマスコへと向かっていった のでした。  さて、このサウロとはどのような人だったのでしょうか。彼はタルソスの生 まれで、厳格なユダヤの家庭で育ちました。彼は自らを「ヘブライ人の中のヘ ブライ人(フィリピ3・5)」と呼んでいます。彼はファリサイ派に属し、著 名なガマリエル一世の弟子でした。私たちがここに見るのは、いわゆる悪人や ならず者の類ではありません。当時のユダヤ人社会においては、律法に忠実で あり、真面目であり、尊敬されるべき人物であります。決していい加減な、不 道徳な人物ではありません。「正しい人」であります。しかし、往々にして恐 るべき残忍さを現すのは、不道徳な人物、不真面目な人物ではなくて、真面目 で道徳的な人であります。いわゆる「正しい人」なのです。もちろん、不道徳 や不真面目であるのが良いと言っているのではありません。しかし、不道徳の 中に存在する悪というのは分かりやすいのです。正しさの中にある恐るべき罪 に人はしばしば気付きません。  自分の持っている義の基準に照らしてみるならば、それに反する相手は殺し ても差し支えない。それは恐ろしい思想でありますが、人はしばしば、そのよ うなことをいたします。ここに見るように、神の名をもってすることさえあり ます。私たちには無関係だと思ってはならないのです。彼の姿は、今日の私た ち、明日の私たちであるかも知れません。殺しはしなくても、人間が「正しさ 」と呼ぶものによって、人はしばしば大いに他者を傷つけ、苦しめるものであ ります。であるならば、程度の差はあれ、同じようなことを私たちは今日まで してきたと言えるでしょう。  さて、このように、サウロは、いわゆる「正しい人」でありました。彼はそ の正しさのゆえに人々を捕らえ、殺しに向かっていたのです。しかし、同時に、 彼は「正しくない人」でもありました。他の人には分からなかったかも知れま せん。しかし、彼は自分でそのことをよく知っていたのだと思います。使徒言 行録に見るサウロの姿は一面であります。私たちは、彼の書いた書簡において、 他の面を見ることができます。ローマの信徒への手紙7章には次のように書か れています。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しか し、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のして いることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいるこ とをするからです。(ローマ7・14‐15)」これは、神の律法に生きよう としたパウロの自己認識であります。律法が悪いのではない。律法は霊的なも のであり、神からのものです。しかし、それを守って神の前に正しく生きよう とする時に、「肉の人であり、罪に売り渡されている」自分を見い出さざるを 得なかったのです。  正しい人間として人を裁き、殺害することさえ厭わないサウロ。もう一方で、 自らの罪に悩むサウロ。一見矛盾するこの二者を結びつけることは決して難し いことではありません。往々にして、自分を正しい者として他者を攻撃する人 は、自分の内にある「正しくない自分」「醜い自分」「弱い自分」を憎んでい る人でもあります。しかし、そのような自分自身を認めたくはない故に、ます ます自分の正しさを主張し、他者を攻撃するようになるのです。罪を執り成し、 祈りながら死んでいったステファノの姿に接して、ますますサウロが凶暴とな っていったその過程は、それなりに理解できるような気がします。自信ありげ でありながら、実は不安で仕方ない人。強さを誇示しながら、実は弱さに悩む 人。正しさを主張しながら、実は自分の不誠実、不真実な姿に悩む人。真実の 自分と向き合えずに、一生懸命肩をいからせながら無理をして生きて、人を裁 いて生きている人。そうやって、人を殺しはしないものの、結果として人々を 傷つけ、苦しめて生きている人。それは、しばしば、私たちの姿でもあるので す。  そんなサウロの人生にキリストが入ってこられました。「突然」という言葉 が主の御介入を現しています。人の現在や未来がいつでも過去の延長線上にあ るとは限りません。9章に書かれていることは、サウロの過去の延長としては 予想され得なかった「現在」でありました。主は「突然」事を為されます。天 からの光がパウロの周りを照らしました。パウロはその中でキリストの声を聞 きます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」サウロが「主よ、 あなたはどなたですか」と問いますと、「わたしは、あなたが迫害しているイ エスである」という答えが返ってきました。このように、大変、不思議なこと が書かれています。ある人は、パウロがてんかんになって幻覚を見たのだろう と説明しますが、そのような説明をつけることに余り意味はありません。体験 の世界というのは、他者が立ち入ることができないものです。彼の体験を否定 することは出来ませんし、また逆に全ての人が経験すべきこととして普遍化す る必要もありません。  要は、彼にはこのような形で復活のキリストが出会われたということであり ます。後にパウロはコリントの信徒へこう書いています。「そして、最後に、 (復活したキリストは)月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 (1コリント15・8)」復活のキリストがその権威と力をもって彼の人生に 決定的に介入された、ということであります。そこで現象として何が起こった のかをいろいろと詮索するよりは、むしろ、そのことの結果に目を留めること の方が大切でしょう。  復活のキリストが人生に介入されるということは、彼にとって単純に幸いや 喜びが与えられることを意味しませんでした。キリスト教はインスタントに幸 福や豊かな人生を与える自動販売機のようなものではありません。パウロの場 合、まず彼は地に打ち倒されなくてはなりませんでした。そして、完全なるお 方の栄光の前に置かれて、自分がまったく愚かな者、間違ったことをしてきた 者であることを知らしめられたのです。彼は、キリストに対して、いわば完全 に降伏させられたのです。それは、また、彼が自分の力で築き上げてきた人生 の土台と、自分を守るために建て上げてきた砦が、音を立てて崩れていったと いうことでもあるでしょう。彼が立ち上がった時、もはや彼の目は見えなくな っておりました。自分で見て、自分で歩いて、自分で進んでいると思ってきた 者が、もはや見ることができない、手を引かれて行かなくてはならない者とさ れたのです。彼の傲慢さは完全に打ち砕かれました。高ぶる者は徹底的に低く され、惨めな者とされました。ダマスコへ向かう彼の、なんと変わり果てた姿 でしょうか。  ここに書かれていることは、ある意味では決して特殊なことではありません。 キリストが直接介入されることによって、しばしば同じような結果がもたらさ れます。先ほども言いましたように、体験そのものは個別です。必ずしもパウ ロのように光に照らされ、打ち倒され、直接声を聞くことはないかも知れませ ん。しかし、ある人は病の中で、同じキリストの御業を経験いたします。ある 人は、失敗と挫折の中で、ある人は死に直面した時に、ある人は静かな祈りの 中で、自らの依って立ってきたものが崩され、自我が打ち砕かれ、キリストの 前に謙らされ、低くされることを経験するのです。  しかし、話はそれで終わりません。キリストは、サウロについてのすべての 計画を、自らの直接介入によって成し遂げようとはされませんでした。続きを アナニアという一人のキリスト者を通して行われるのです。キリストは救いの 御業をキリストの体である教会を通して進められるのです。  キリストはアナニアに命じます。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ 行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼 は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり 目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。(11‐12節)」これが、 アナニアにとってどれほど無茶な要求であったかは、その次の彼の言葉を聞け ば分かります。彼は、キリストに訴えます。「主よ、わたしは、その人がエル サレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人か ら聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長 たちから権限を受けています。(13‐14節)」アナニアはサウロが何のた めにダマスコに向かったかを知っているのです。そのサウロを訪ねよとは、い くらキリストの言葉とはいえ無茶なことだと思ったに違いありません。ところ がキリストはアナニアの訴えを却下しました。「行け、あの者は、異邦人や王 たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器 である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは 彼に示そう。(15‐16節)」アナニアは主に従いました。  続いて書かれているのは、実に感動的な出来事の描写です。キリストはサウ ロについて、「今、彼は祈っている」と言いました。何を祈っていたのでしょ うか。恐らく、神の御前に自らを悔い、赦しと救いを求めて祈っていたのでし ょう。そこに、アナニアが訪ねて来ました。彼はサウロに手を置いて、こう言 います。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエス は、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるように と、わたしをお遣わしになったのです。(17節)」  アナニアは、かつての迫害者、敵であった者に対して「兄弟サウル」と呼び かけます。サウロは、まだたった一人のキリスト者によってですが、アナニア によって兄弟として受け入れられるのです。「すると、たちまち目からうろこ のようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起 こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(18‐19節)」真っ暗 闇の中にいたパウロのところに光が差し込みました。アナニアという一人の人 の存在を通して、キリストの愛と恵みが明らかに示されました。ここに、神に よって赦され、受け入れられ、新しくされた一人の姿があります。サウロは、 赦しの恵みに与り、聖霊による新しい命に生きる者とされたのでした。  キリストは、今も生きて働いておられます。人生に介入されるお方です。そ して、主の御手によって砕かれ、低くされ、謙らされた人に、キリストの体で ある教会を通して、御自身の愛と赦しの恵みを現し給うのです。  サウロは晩年、自らの人生を振り返ってこう書いています。「『キリスト・ イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのま ま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、 わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない 忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人 々の手本となるためでした。(1テモテ1・15‐16)」今日、お読みしま した、サウロの回心の出来事は、まさに「キリスト・イエスは、罪人を救うた めに世に来られた」という事実を雄弁に物語っているのであります。