(この日、大阪のぞみ教会の豊中礼拝には、バリトン歌手の時
田直也さんがおいでくださり、讃美と証しの御奉仕をしてくだ
さった。また午後にはコンサートが行われた。)


               「嘆きの谷を泉とする力」
                                        詩編84編

 「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見
ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝
福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオン
で神にまみえるでしょう。(詩編84・6‐8)」

 誰でも皆、幸いであることを願っています。自分が幸いであり、家族も幸い
であり、愛する人々が幸いであることを願っています。それゆえ代々にわたっ
て数多くの幸福論が語られ、書かれてきました。現代においても様々な幸福論
を耳にします。今の時代に、物質的な豊かさこそ幸いであると考える人は多く
はないでしょう。「心豊かに生きる」という本を最近手にしましたが、「心の
豊かさ」ということがしきりに言われるようになったこと自体は良いことだと
思います。しかし、これほど「心豊かに生きる」べきことが叫ばれ、求められ、


そのような講演会があちらこちらで行われるようになりながら、実際には多く
の人がそのような生活を営むことの困難を感じていることも事実ではないでし
ょうか。それは一面においては、このストレスの多い現代には、心豊かに生き
ることを困難にする要因が満ちているということでもあるでしょう。しかし、
もっと大きなこと原因は、具体的にどのような生活を築いていけばよいのか、
そのイメージがつかめないところにあるのだと思います。私たちはどうしたら
よいのでしょうか。
 そのような時に、やはり本当の幸いを知っている人の言葉に耳を傾けること
は大切でしょう。今日は、詩編の84編をお読みしました。ここには「いかに
幸いなことでしょう」という言葉を繰り返している一人の詩人がおります。彼
の内には、具体的なイメージがあるのです。分かっている人なのです。彼はい
ったい何を考えてこう言っているのでしょうか。

 彼は言います。幸いな人は、「あなた(神)によって勇気を出し、心に広い
道を見ている人だ」と言うのです。しかし、これだけではよく分かりません。
その次の言葉はもう少し分かりやすいと思います。その人は、「嘆きの谷を通
るときも、そこを泉とする」人であります。まず、この言葉に注目してみまし
ょう。
 「嘆きの谷」というのは、以前用いていた聖書協会訳では「バカの谷」と訳
されていました。私は、子供の時から、この箇所を読んでは、「バカの谷って
なんだろうなあ」と思ったものです。新共同訳になって、少し分かりやすくな
りました。しかし、これはあくまでも意訳です。この「バカ」というのは、他
の箇所では「バルサム」と訳されています。もともとは、乾燥地に生える低木
の一種のことです。ですから、バカの谷というのは、乾いた谷ということなの
でしょう。ところが面白いことに、殆ど変わらない発音の単語があるのです。
それは「泣く」という意味なのです。おそらく、その言葉もかけられているの
だと思います。それは、巡礼の旅をする者にとっては、泣きたいような辛い道
でもあったのかもしれません。それで、共同訳では「嘆きの谷」と訳されてい
るのでしょう。
 この詩人は、その嘆きの谷を通る時も、そこを泉とすることのできる人につ
いて語っています。「嘆きの谷を通らない人が幸いな人なのだ」と言っていな
いことに私たちは注意しなくてはなりません。当時、エルサレムへと巡礼の旅
をした人たちが、必ず「嘆きの谷」とも言うべきところを通らなくてはならな
かったように、私たちが生きていく時には、必ず乾いた地、嘆きの谷を通らな
くてはならないものです。乾いた谷を通らなくてはならないから心豊かに生き
られないのだ、と思っている人は、一生涯、真の豊かさを経験することはない
でしょう。多くの人は乾いた荒れ地を行かなくてはならないから不幸なのだと
思っています。しかし、そうではありません。そこを泉とすることができない
ことこそ、実に不幸なことなのです。
 今日の豊中における礼拝には、時田直也さんがいらしております。私が時田
さんと始めてお会いしたのは昨年の7月でした。もともとは神戸に住んでおら
れたのですが、被災されて、篠山に仮住まいをしておられたのです。そして、
お母様と共に篠山の礼拝に出席されるようになられ、主にある交わりを与えら
れたのでした。彼は、全く目が見えません。生後半年で未熟児網膜症になられ
たからです。そして、お会いした時は、父上を亡くされてそれほど経っていな
い頃でした。しかし、私が初めてお会いした彼によって強烈に印象づけられた
のは、彼の突き抜けた明るさでありました。午後のコンサートの案内にも書か
れていますが、彼は「目が見えないことは不便ではあるが決して不幸ではない
」と言い切ります。彼もまた、彼自身の嘆きの谷を歩いてきたのでしょう。し
かし、彼は、そこを泉としてきた人なのです。
 実に、私たちの人生において大切なことは、嘆きの谷を通るか通らないかと
いうことではありません。真に人生を決定づけるのは、そこを泉湧くところと
することができるかどうかということなのです。

 では、どうしたら、嘆きの谷を泉とすることができるのでしょうか。そこで、


もう一度6節に戻りたいと思います。そこにはこう書かれていました。「いか
に幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人
は。」この箇所は、聖書協会訳では「その力があなたにあり、その心がシオン
の大路にある人はさいわいです」となっていました。「シオン」というのは原
文にはありません。ですから、新共同訳の方が直訳に近いと言えるでしょう。
しかし、その内容としては、やはり「広い道」とはシオンの大路だと理解する
ことができます。つまり、神殿へと通じる道です。その人は神殿へと思いを馳
せる巡礼者なのです。神殿へと向かう巡礼者は、嘆きの谷を泉とする、という
のです。これは何を意味するのでしょうか。
 この詩人が言っていることを理解するためには、彼自身がどのように生きて
きたのか、ということをもう少し考えてみる必要があります。この詩人自身の
心の内にあることは、2節以下に明らかにされております。
 「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょ
う。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わ
たしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣を
かけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸
いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛
美することができるなら。(2‐5節)」
 「あなたのいますところ」と言われ、「主の庭」と言われているのは、具体
的にはエルサレムの神殿であり、その前庭です。彼は、魂が絶え入るばかりに、


主の庭を慕うのです。それは、当然のことながら、神殿そのものを求めている
のではありません。神殿は、主を礼拝する場所として初めて意味を持つのです。


ですから、彼が求めているのは、神様御自身であると言ってもよいでしょう。
神を求めるとは、具体的には、神を礼拝することであります。この詩人こそ、
まさに、神様を慕い求め、神様を礼拝することの喜びを知っている人であると
言うことができるでしょう。
 私たちは、彼が、単に「神様から来る何か」を求めているのではない、とい
うことに注意しなくてはなりません。もちろん、神様は良きもので私たちを満
たしてくださいます。この詩編の12節にも、「完全な道を歩く人に主は与え、


良いものを拒もうとはなさいません」と書かれています。この詩人も、そのこ
とは知っているのです。にもかかわらず、彼が第一に慕い求めているのは、他
ならぬ主御自身なのです。
 なぜなら、この詩人が言っている通り、礼拝されるべき方は、「命の神」だ
からです。それは、命のない偶像ではなくて、生きておられる神ということで
す。そして、さらに言うならば、命の源である神様だということであります。
神様は、目の前の渇きを癒すための一杯の水だけを与えようとしておられるの
ではありません。往々にして、人は、目の前の一杯の水だけを欲しているよう
なところがあります。しかし、神様が与えようとしておられるのはそんなもの
ではないのです。命の源そのものなのです。人に本当に必要なのは、この命の
源そのものであるお方なのです。ですから、この詩人はそのお方を求めるので
す。具体的には神を礼拝することを求めるのです。神を礼拝する場を慕い求め
るのであります。
 さて、私たちはどうでしょうか。この国の多くの人々は、神から何かを求め
はしますが、神御自身を求めようとはしていません。それはキリスト者とて同
じことです。私たちは、何か欠乏している時に、神に求めます。私たちは様々
な問題が起こった時に、その解決を神に求めます。それはそれとして大切なこ
とです。しかし、神御自身を求めることは、それ以上に大切なことなのです。
そのことを忘れていることが多いのです。目の前の事ごとに関して神様に何か
願い事はしても、神様を礼拝することが信仰生活の中心になっていないとする
ならば、そこに問題があるのです。
 「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わ
たしの身も心も叫びます。」そのように彼は言っています。私たちは、この詩
人の心に近づきたいものです。更に深く、神を礼拝する喜びを知る者となりた
いと思うのです。

 「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人」―それは、神を慕
い求める人であります。神を礼拝することを喜びとして生きる人です。命の源
を求め、真の命に与って生きることを喜びとする人です。その人にとって、も
はや自分が乾いた地を歩いているかどうか、嘆きの谷を歩いているかどうかは
大きな問題とはなりません。なぜなら、その力は自らの内にではなく、神の内
にあるからです。神の命がその人の内に生きているからです。その人こそ、嘆
きの谷を歩くときも、そこを泉としながら歩み続けて生きるのです。
 そして、こう書かれています。「彼らは いよいよ力を増して進み、ついにシ


オンで神にまみえるでしょう。(8節)」巡礼者たちは長い旅路に弱ってしま
うことはありません。乾いた地は彼らを弱らせるものとはなりません。かえっ
て、目指す礼拝の場が近づくにつれ、いよいよ力を増して進むのです。
 私たちの一週間の生活を、ここに描かれているような巡礼の旅になぞらえる
こともできるでしょう。私たちの生活は、日曜日の礼拝によって一週間の長さ
に区切られております。それは、礼拝から礼拝へと向かう生活と見ることもで
きます。礼拝を重んじるということは、その他の日を軽んじることではありま
せん。いにしえの巡礼者は礼拝の喜びを知る故に、旅路が進むにつれていよい
よ力を増して進んだのでした。同様に、私たちも、主を礼拝することを学び、
その喜びを知れば知るほど、週日の6日間はより力強く歩むことができるはず
であります。多忙な現代人が一週間の生活に疲れ果てて日曜日を迎えるという
ことも珍しくはありません。しかし、だからこそ、礼拝へと向かい、ますます
力を増して進むという生き方を体得していくことが大きな意味を持つのです。
 さらにまた、私たちの一生も、ここに書かれている巡礼の旅路にたとえるこ
とができるでしょう。この世における週毎の礼拝は、やがて来るべき神の国に
おける完全なる礼拝の雛形に過ぎません。やがて、私たちは顔と顔を合わせて
主にまみえる時が来るのです。それは、主を慕い求める人にとっては、何とい
う喜びであり、希望でしょうか。最終的に神にまみえるその日を目指して生き
ている人は、この地上の生涯を、単に弱り果て、朽ちていく者のように生きる
ことはありません。もちろん、体は弱り、病み、機能は低下していくのでしょ
う。しかし、パウロが言う如く、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えて
いくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新しくされていく(2コリン
ト4・16)」のです。まさに、「いよいよ力を増して進み、ついに、シオン
で神にまみえるでしょう」ということが私たちの人生においても実現するので
す。

 これだけ幸いが論じられ、心豊かに生きるべきことが語られながら、具体的
にどのような生活を築いていったらよいのか分からないでいる。そのような多
くの人々の問題について、冒頭において触れました。私たちは84編の中に明
確な一つの方向を見ることができます。それは神御自身を求めることであり、
具体的には礼拝から礼拝へと向かう生活を確立していくことであります。神を
礼拝することの喜びを知り、命の源なる神に連なり、神の命に与って生きるこ
とであります。さらに、最終的に、神の国において神にまみえるその日をしっ
かりと見据えて生きることであります。そして、これらのことは、ただ単にこ
の地上において幸いを得て生きるということだけではなく、永遠の価値を持つ
豊かさに生きることに他ならないのであります。