「神が与えてくださる平和」 使徒言行録 9章19b節~31節  二週間前、私たちは9章前半において、サウロの回心の次第を読みました。 今日はその続きです。  ここには、サウロがダマスコにおいて「この人こそ神の子である」と宣べ伝 え始めたことが記されています。これは重い事実です。なぜなら、このメッセ ージこそ、かつてのサウロにとっては絶対に受け入れ難い言葉だったからです。 なぜ十字架にかけられて死んだ男が神の子でありメシアであるのか。「木にか けられた死体は、神に呪われたものだからである(申命記21・23)」と聖 書にも書いてあるのです。どうして、そのような者が、神の子でありメシアで あるものか。そのようなことは絶対にあり得ないというのがサウロの確信でし た。十字架で死んだ男をメシアと信じ、そのように宣べ伝えているキリスト者 たちは、彼の目から見るならば、神を冒涜している者としか見えませんでした。 だから、迫害したのです。投獄し、殺しもしたのです。  そのような彼が、ここでは「この人こそ神の子である」と語っているのです。 どうしてでしょうか。それは、直接的には、ダマスコ途上で復活のキリストに 出会ったからでしょう。しかし、それだけではキリストを宣べ伝えることは出 来なかったはずです。なぜなら、当然そこには「なぜ神の子でありメシアであ る方が十字架上で呪われた者として死ななくてはならなかったのか」という問 題が残るからです。  サウロはただ復活のキリストとの神秘的な出会いをしたから、「この方こそ 神の子である」と宣べ伝えたのではないのです。彼がキリストを伝えたのは、 「なぜ神の子である方が呪われて死ななくてはならなかったか」が分かったか らなのです。その内容は彼の書いた手紙の数々を見れば明らかです。例えば、 後に彼はコリントの信徒にこう書き送りました。「罪とは何のかかわりもない 方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によっ て神の義を得ることができたのです。(2コリント5・21)」罪のない神の 子が罪人として十字架にかかり死んだのはなぜか。それは、私たちが罪を赦さ れ、義とされ、受け入れられるためだったのだ、と彼は言います。そのように して、神と和解することができるようになるためだったのだ、と言うのです。 ですから、パウロは今引用したところの少し前にもこう言っています。「つま り、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うこと なく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(2コリント2・19)」  もちろん、私たちの罪のためにキリストが十字架にかかられたのだ、という メッセージは、既に教会が宣べ伝えていたに違いありません。8章において、 フィリポがエチオピアの宦官に、イザヤ書を通して語ったのも、そのことなの でしょう。しかし、十字架の言葉は、パウロが自分の義、自分の正しさによっ て神に受け入れられようとしていたときには、どうしても理解できなかったの です。彼が自分を正しい者としている時は、イエスという方は呪われた罪人で あり、その弟子も殺されるべき罪人であったのです。彼が罪深い自分自身の姿 と正直に向き合うことができず、正しい者の側に立ち、他者を裁き、迫害して きた時には、十字架で死んだ人を神の子と告白する教会の言葉が理解できなか ったのです。  その彼が復活のキリストに出会い、打ち倒され、砕かれました。それがダマ スコ途上での出来事でした。正しい者、裁く者の側に立てなくなった。そして、 アナニアというキリスト者を通して福音に触れたのです。神の御前に罪人であ る自分を認めた時に、彼は、神によって赦され、愛され、受け入れられている 自分を見いだしたのです。その時に、目からうろこのようなものが落ちたと書 かれていますが、まさにそのような経験だったのでしょう。  イエス・キリストを通して、神の恵みに与った彼は、「この人こそ神の子で ある」と熱心に伝え始めました。しかし、ダマスコにおける宣教は、ユダヤ人 たちの受け入れるところとはなりませんでした。むしろ、憎まれたのです。ユ ダヤ人たちはサウロを殺そうとたくらみました。その結果、彼はまるで夜逃げ をするように、籠に載せられ、町の城壁づたいにつり降ろされたのです。ダマ スコから逃げざるを得なくなったのでした。これはサウロにとってどれほど大 きな苦しみだったでしょう。彼は愛国者です。ユダヤ人である同胞を心から愛 しておりました。その同胞から拒否され、殺されそうになったのです。どのよ うな思いで、ダマスコを後にしたことでしょう。  しかし、この苦しい経験の中にもキリストは働いておられました。この事は、 彼がエルサレムへと向かうきっかけとなったのです。そして、彼がエルサレム へと向かったことは、彼にとっても、後の教会にとっても、大きな意味を持つ のです。  彼はダマスコからエルサレムへと向かいました。しかし、この旅は、少なく とも二つの困難を覚悟しての旅であったと思われます。第一に、彼がエルサレ ムに行くことは非常に危険なことでありました。ダマスコにおいて命を狙われ たサウロには、そのことがよく分かったに違いありません。エルサレムは、ス テファノの殉教の血が流されたところです。サウロは、石で撃たれて惨殺され たステファノの姿を生涯忘れ得なかったに違いありません。しかし、今や、サ ウロが彼と同じ立場に置かれていることを悟ったことでしょう。それはステフ ァノと同じように死んでいくことになるかも知れないということを意味したの です。  しかし、それにもまして大きなもう一つの困難がありました。それは、エル サレムのキリスト者たちとの関係です。19節を見る限り、ダマスコのキリス ト者はすぐにサウロを受け入れたようです。しかし、ダマスコとエルサレムで は状況が違います。ダマスコには、サウロが具体的に迫害の手を下したことは ないのです。エルサレムから散らされて来た人々を除いては、だた、サウロが エルサレムで何をしてきたかを聞いていただけだったのです。  それに対して、エルサレムのキリスト者は、サウロがどれほど酷いことをし たかを身近に見てきたのです。サウロ自身、後にこう言っています。「わたし はこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたので す。(使徒22・4)」エルサレムに残った信徒の多くは、そのような迫害を なんとか逃れて留まった人たちなのでしょう。その中には、自分の家族を投獄 された人がいるかも知れません。親を殺された子供たちがいたかも知れません。 サウロが都を数年離れていたとしても、その記憶は薄れることはなかったでし ょう。サウロがエルサレムに向かうということは、そのような人々に再会する ことを意味するのです。そこで、簡単に受け入れられるとは、到底思えなかっ たに違いありません。  しかし、なおサウロはエルサレムへと向かいます。その第一の目的はキリス トを宣べ伝えることにありました。サウロは、拒絶され、憎まれ、殺されるか もしれないことを知りながら、なおキリストを伝えに行ったのです。なぜでし ょうか。それは、自分自身もかつて同じような者であったことを忘れていない からです。彼は拒絶されました。その時に、彼はかつての自分の姿を思ったこ とでしょう。彼は、嘲られました。憎まれました。その時、彼はかつての自分 の罪を思ったことでしょう。彼は命を狙われました。しかし、彼も同じことを してきたのです。そのような自分が、神によって赦され、愛されている事実の 大きさを思わずにはいられなかったでしょう。キリストが限りない忍耐と寛容 をもって受け入れてくださったゆえに救われたのです。そして、それはとりも なおさず、同じように、今は福音を受け入れてはいない同胞も、神の恵みの対 象であることを意味しているのです。今日はサウロを憎んで迫害している人で あっても、明日はサウロと同じようにキリストの恵みを喜び、神を誉め讃えて いる人であるかもしれないからであります。  私たちもキリストを証しする時に、拒絶され、受け入れられないこともある でしょう。理解してもらえないこともあるでしょう。閉ざされた心に遭うこと もしばしばだと思うのです。そして、ともすると私たちはすぐに諦めてしまう のです。「あの人は頑なだから」などと思ってしまう。そのような時、私たち はかつて自分がどのような者であったかを忘れているのだと思います。自分は 心柔らかで、素直な者であったかのように思い上がっているのです。そうでは ないでしょう。自分こそ、罪人の最たる者であり、頑なな者であり、キリスト の限りない忍耐と寛容によって赦され、救われた者であることを忘れてはなら ないのです。サウロにはそのことがよく分かっていた。だから、彼はエルサレ ムに向かったのです。  そして、もう一つの目的、それはエルサレムにいる弟子たちに会うため、特 に使徒たちに会うためでした。ルカはこの点をやや強調しているように思いま す。サウロは、ダマスコ途上で光に撃たれ、キリストの声を聞くという特殊な 体験をしました。彼は、ガラテヤの信徒への手紙にもこう書いています。「わ たしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリス トの啓示によって知らされたのです。(ガラテヤ1・12)」これは、私たち にも違った形ではあれ、言えるでしょう。キリストを示してくださるのは究極 的には神であって、人ではありません。主の霊の為し得ることです。  しかし、サウロがただ単に自分の個人的な体験のみに留まって、使徒たちと の交わりを持たなかったら、恐らく彼は不思議な体験をした一人の人として、 歴史の中に消え去ったことでしょう。彼はそのような人ではありませんでした。 信仰を、単に宗教的な経験に基づく個人的な事柄としては捕らえていませんで した。信仰生活とは、同じ信仰を告白する共同体に連なることであると理解し ていたのです。彼は、恐らくペトロたちとの交わりの中で、復活の出来事や、 キリストの生前の教えや御業について聞いたことでしょう。彼は、自分自身の 経験したこと、神から啓示されたことを、使徒たちの教え、教会の教えの中に 再確認し、捉え直していったのだと思います。ですから、後に彼は手紙にこう 書いているのです。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、 わたしも受けたものです。(1コリント15・3)」  私たちについても同じです。神の働きは十把一絡げではありません。個別で す。個々の体験は大切です。重んじなくてはなりません。しかし、私たちの経 験は、教会を離れて信仰生活の土台とはなりません。そのような信仰生活はや がて倒れるか、異端に陥るでしょう。私たちの経験はいつでも教会の伝えてき た使徒たちの教えの中で捉え直されなくてはなりません。聖書を通して、確認 されていかなくてはならないのです。  さて、そのようにしてエルサレムへと向かったサウロですが、現実は厳しか ったようです。やはり、エルサレムの教会には受け入れられませんでした。ま た、予想されたように、ユダヤ人たちからは命を狙われることになりました。 確かに、サウロはそのような厳しい状況の中において、かつて自分がどのよう な者であったかを改めて思い知らされたことでしょう。自分の罪を思わされた に違いありません。  しかし、それは決して無駄なことではなかったと思います。神はそのような 状況の中で、慰めを与えられます。神は人を備えられました。それはいみじく も、バルナバ(慰めの子)という名の人でした。人々の不信のただ中で、一人 サウロを徹底的に信じてくれる男が現れたのです。その一人の執り成しによっ て、サウロは教会に受け入れられることになりました。まさに神の慰めがそこ にありました。そして、さらにユダヤ人たちに命を狙われた時、彼を助けよう と努めたのは、かつてサウロが迫害した教会の兄弟たちだったのです。「それ を知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ 出発させた(30節)。」なんという心温まる情景でしょうか。同胞から命を 狙われて逃げていくという悲しい状況の中にありながら、キリストの愛によっ てサウロはかつて彼が迫害した人々によって赦され、愛され、助けられ、キリ ストによって一つに結び合わされているのです。実に神の慰めと平和がそこに あるのです。  そして、31節に至って、教会の状況は次のようにまとめられています。 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を 畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」  6章7節にはこう書かれていました。「こうして、神の言葉はますます広ま り、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。 (6・7)」その時には「エルサレムで」となっていたのが、この箇所では、 「ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で」となっています。明らかに範囲が 広がっています。それは、使徒言行録1章8節に対応していると見てよいでし ょう。イエス様は言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたが たは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土 で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(1・8)」  6章と9章の間にはステファノの殉教がありました。大規模な迫害がありま した。しかし、その中で、福音は宣べ伝えられ、パウロはキリストに捕らえら れ、神の恵みによる神の計画は進んでいったのです。  「こうして、教会は…」その言葉の重さを思います。パウロは敗北者のよう にタルソへと逃げていきます。彼はしばらく表舞台から姿を消します。しかし、 「この方こそ神の子である」と宣べ伝えた彼は、そのキリストの恵みの御支配 を信じて旅立ったのでしょう。私たちもまた、その神の恵みの計画の中に置か れているのです。神の子が十字架にかかって死ぬという、人の思いを遥かに超 えた出来事を通して示された、神の恵みの支配の中に私たちは生かされている のです。私たちにとってもまた、伝道は困難かも知れません。理解されず、拒 絶されることもあるかも知れません。しかし、主の御支配と導きを信じて、私 たちのために死んで復活された神の子を証ししていきたいと思うのです。「こ の方こそ神の子である」と、そこに現された、神の赦しと愛とを証ししていき たいと思うのであります。