(11月3日、大阪のぞみ教会では聖徒の日永眠者記念礼拝が  行われました。)           「主は羊飼い」                               詩篇23編  本日は永眠者記念礼拝です。後ほど、永眠者名簿を読み上げます。それは大 変厳粛な時であります。なぜなら、こうして故人を記念する時、私たちはこれ らの方々が間違いなく亡くなられた方たちであり、この地上における人生の過 程を終えられた方なのだ、ということを確認することになるからです。それは、 とりもなおさず、私たちの自身もまた、やがて彼らの列に加えられることを意 識することに他なりません。  本当に故人を大切にしたいと思うならば、今なお地上に生かされている私た ち自身の人生を大切にしなくてはなりません。彼らの人生とその終わりを覚え つつ私たち自身の人生を厳粛に捉え直すことをしないで、形ばかりの儀式をす ることで故人を大切にしていると思ってはなりません。ですから、この時は、 終わりの日を身近に覚え、自らの人生を省みる時でもあるのです。  しかし、私たちには、このことを重苦しさを伴ってではなく、喜びと感謝を もって為すことが許されております。なぜなら、ここは礼拝の場だからであり ます。私たちは、私たちの生と死の現実よりもはるかに大きな方を礼拝してい るからです。  今日、お読みしました詩編23編は、その大いなるお方へと私たちの目を向 けさせてくれる詩篇であると言えるでしょう。この詩の内容から推測するに、 作者が誰であれ、若い日に作った歌ではないようです。むしろ、その晩年の詩 であると考えてよいと思われます。神と共に生き、そして神と共にその人生の 終わりに向かうこの一人の人の詩は、日頃、目の前のことに振り回され、私た ちの一生において何が真に大切なことであるか分からなくなっている―そんな 私たちの心を静め、神の御声に耳を傾けさせてくれます。そして、この時を真 に故人を記念するに相応しい時としてくれることでしょう。   賛歌。ダビデの詩。   主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。   主はわたしを青草の原に休ませ  憩いの水のほとりに伴い   魂を生き返らせてくださる。                     (23・1‐3a)  「主は羊飼い」。直訳すると「主はわたしの羊飼い」となります。主を「わ たしの牧者、羊飼い」と呼ぶということは、自分を「羊」として見ているとい うことであります。神との関係を羊飼いと羊の関係に見ているのです。  ご存じのように、羊は群れを形成して生活いたします。当然のことながら、 この人は自分が羊飼いのもとでたった一匹で生きている羊であるとは考えてい ないはずです。羊が彼らにとって馴染みの深い動物であるならば、そのような イメージは持ち得ないのです。あくまでも自分は羊の群れの中の羊なのです。 さらに言うならば、彼は自分が羊の群れの中にいるという自覚によって、主を 「わたしの羊飼い」と呼んでいるということなのであります。  これは羊飼いと羊の具体的なイメージを持たない私たちにとって非常に重要 な理解であります。というのも、私たちは「主はわたしの羊飼い」というよう な言葉を聞きますと、すぐに「ああ、これは彼の個人的な人生経験から生じた 言葉だな」と単純に思ってしまうからです。実はそうではありません。イスラ エルにはもともと神様を羊飼いとして見るという見方がありました。それは、 恐らく出エジプトの後、主に導かれて荒れ野を旅したというイスラエルの民の 歴史に根ざした言葉だったのだろうと思います。(例えば、詩編77・20) また、他の詩編にも、もっと一般的な叙述として出てきます。「わたしたちは 主のもの、その民、主に養われる羊の群れ(詩編100・3)」このように、 「羊飼い」という言葉が特に詩編などに出てくるということから分かりますよ うに、これらは公の礼拝においてイスラエルの民が言い表してきた神への信頼 の言葉だったことが分かります。  その言葉が、この詩編においては、個人の人生との関わりで用いられている のです。それは彼がその信仰の群れの中に身を置いているゆえに出てきた言葉 です。彼は信仰の群れの中にあって生き、共に主を礼拝してきたのです。それ が彼の人生でありました。だから、彼は、「主はわたしの羊飼い」と言い得る のです。人生の最後に向かうに当たっても、そう告白できるのです。  羊の群れの中に生き、共に礼拝してきた彼は、自らの人生を振り返る時に、 彼は「わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩 いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」と言い表します。そこに は、平安と休息と命の回復があります。繰り返しますが、このような経験が、 「主はわたしの羊飼い」という言葉を生み出したのではありません。羊の群れ の中に生き、主を羊飼いと呼んで生きることが先にあったのです。経験は後か らついてくるのです。主を羊飼いと呼ぶ群れを離れて、羊飼いとの個人的な関 係なるものは存在しません。主を「私たちの羊飼い」と呼ぶ群れを離れたら、 そこにはもはや羊飼いに養われる豊かさを経験するということもなくなってし まうのです。   主は御名にふさわしく   わたしを正しい道に導かれる。   死の陰の谷を行くときも   わたしは災いを恐れない。  あなたがわたしと共にいてくださる。  あなたの鞭、あなたの杖   それがわたしを力づける。                   (23・3b‐4)  ここでは羊飼いによる導きについて歌われています。主の群れに身を置く者 は、主の導きを経験いたします。羊飼いは群れに責任を持ちます。神様は同じ ように、御自身の名に相応しく、羊の群れである私たちに対して責任をもって 関わられるのです。そのお方が導かれるのは「正しい道」です。それは必ずし も平坦な道ではないかも知れません。広い大路を行くのでもないかも知れませ ん。しかし、それは神御自身が導かれる正しい道です。滅びへの道ではなくて 命への道です。  「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」とこの詩人は言いま す。間違えてはいけません。「羊飼いによって導かれるならば、死の陰の谷を 通ることはない」とは言っていないのです。この詩人は今まで幾たびも、その ような死の陰の谷を通るようなことを経験してきたのでしょう。そして、彼は 人生の終わりにおいて、本当の意味で「死の陰の谷」を行かなくてはならない ことも知っているのです。しかし、この人は「恐れない」と言います。なぜで しょうか。彼は「死の陰の谷」そのものに目を奪われてはいないからです。 「あなたがわたしと共にいてくださる。」そのようにこの詩人は神に向かって 声を上げるのです。彼は、羊の群れの中にいる自分がいったい誰によって導か れているのかを知っているのです。この瞬間にも「あなた」と呼びかけること の出来るお方がおられる。「あなたがわたしと共にいてくださる。」死の陰の 谷にさしかかった時、そう言い得る人はなんと幸いなことでしょう。  そして、共にいてくださる方は、鞭と杖をもって導かれます。「あなたの鞭、 あなたの杖、それがわたしを力づける」と詩人は言います。「鞭」と訳されて いるのは、羊を危険から守る棍棒のようなものです。狼などを打つのです。一 方、「杖」は羊を打つためのものです。羊飼いは羊を棍棒のようなもので打つ ようなことはしません。しかし、杖は用います。羊を正しく導くためには杖を 用いるのです。羊が危険なところへと行ないように、あるいは、群れから迷い 出ないように、杖を用いるのです。ある時はやさしく、ある時は強く打たれま す。それはありがたいことです。この人は、そのような鞭と杖が力づけるのだ、 と言うのです。誰が共におられ、誰に導かれているかを知っているからです。   わたしを苦しめる者を前にしても   あなたはわたしに食卓を整えてくださる。   わたしの頭に香油を注ぎ   わたしの杯を溢れさせてくださる。    (23・5)  詩編23編はここから神様の描写の仕方が変わります。そこには羊飼いに代 わって家の主人がいます。敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かに もてなしてくれる家の主人です。食卓を整えること、香油を注ぐこと、杯に酒 を満たすことは、すべて豊かなもてなしを表現しています。敵によって苦しめ られている客人を力づけるのです。また、特に「香油」は詩編45編などでは 喜びの象徴として出てきます。この家の主人のもとに身を置く者は、主人のも てなしを経験し、力づけられ、喜びに満たされるのです。  さて、ここで、敵と闘ってくれる将軍のイメージが用いられていないことに 注意してください。確かにそのような神のイメージが他の聖書箇所では用いら れていることもあります。しかし、ここでは違います。ここに描かれている主 人の関心は、敵に向かうのではなくて、逃げ込んできた人自身に向かっている のです。また、ここで「敵の手から逃れさせてくださる」とも書いてありませ ん。要するに、苦しめる者を取り除いたり、苦しめる者から逃れさせてくださ る神様について語られているのではないのです。  苦しめる者がいなくなれば人は幸いであり得るのでしょうか。問題が取り除 かれて初めて喜びが来るのでしょうか。多くの人はそう考えます。しかし、も しそうであるならば、生涯幸いではあり得ないし、変わらぬ喜びの中に生きる ことは不可能でしょう。そうではなくて、ここには苦しめる者のただ中にあっ て、そのような苦しい現実のただ中にあって、豊かにもてなし、力づけ、喜び に満たしてくださる神様について語られているのです。「神様、食事どころで はありません。苦しめられているのですから。彼らを追い払うか、私を安全な ところへ逃がしてください。」それが自然な心情でしょうか。しかし、神様は あたかもこう言われるかのようです。「いや、まずあなたは豊かな霊の食事に 与りなさい。力を得なさい。喜びを得なさい。元気になりなさい。私がそうし てあげよう。」これこそ、信仰の群れの中に生きてきた彼が、繰り返し経験し てきたことなのだと思います。そして、私たちもまた、そのような恵みに与る ことが許されているのです。   命のある限り   恵みと慈しみはいつもわたしを追う。   主の家にわたしは帰り   生涯、そこにとどまるであろう。 (23・6)  彼は、神と共に歩んできた長い年月を思い、残された人生を思います。そし て、感謝に溢れてこう言い表します。「恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 」険しい道であったかも知れない。死の陰の谷を幾度も通るような道であった かも知れない。常に苦しめる者に囲まれてきたような人生であったかも知れな い。しかし、彼はその道のりに確かに恵みと慈しみが彼を追うようにして伴っ ていたことを見るのです。そして、これからもそうであると信じ、信頼を言い 表すのであります。彼は恵みを追い求めてきたのではありません。人が心すべ きことは、一生懸命に努力して神の恵みと慈しみを獲得することではありませ ん。そうではなくて、主を羊飼いとする群れに留まること、神を家の主とする その家に身を置くことなのです。  そして、自分がどこにいるべきかを知っているこの人は、また自分の最終的 に帰るべきところを知っている人でもあります。「主の家にわたしは帰り、生 涯、そこにとどまるであろう。」この「生涯」という言葉は、むしろ「永遠に 」と訳されるべき言葉です。そうしてみますと、彼は単に残された人生の日々 を思ってこれを言っているのではなさそうです。そうではなくて、彼は最終的 に帰るべきところに目を注いでいるのです。それは生涯にわたって私たちを導 き、豊かに養ってくださったお方と永遠に共に住む家であります。  私たちは、ここに歌われているように、豊かに養い、導き給う主なる神を礼 拝しています。この大いなるお方を思いつつ、私たちは故人を記念いたします。 それは、やがて私たちもまた彼らの列に加えられることを確認いたします。や がて終わりの来る一生の間に「何をするか」ということも大切ではありますが、 「どのような者であるか」ということは、もっと大切なことです。いるべきと ころにおり、導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かっていてこそ、 私たちの生涯は永遠の意義を持つのであります。