「ああ、幸いなるかな」                              詩篇1編  本日、私たちに与えられている御言葉は、詩編第1編です。この詩編は詩編 全体の表題的な役割を持つものとして、ここに置かれているようです。そして、 この詩編は、本日お読みしましたように、「いかに幸いなことか」という言葉 で始まります。この「いかに幸いなことか」という言葉が、この詩編の冒頭に 置かれ、さらには詩編全体の冒頭に置かれているということは、一考に値する と思います。と言いますのも、詩編は礼拝において用いられてきました賛美歌 集でありますけれども、そこにおいて私たちが出会いますのは、絵に描いたよ うな幸福な人々の姿ではないからです。問題も悩みもなく、自分の願いや欲求 が完全に満たされている人々ではないからです。むしろ、悲しみ、悩み、怒り、 あるいは自分の罪に苦しむ生身の人間の現実がありのまま、そこに言い表され ているのです。しかし、その事実にもかかわらず、なお「いかに幸いなことか !」という叫びから、詩編全体は始まるのであります。  人は、悲しみと悩みの中にあっても幸いであり得ます。人は、何不自由ない 境遇に置かれていても、不幸な人であり得ます。人の幸・不幸は最終的に何に よって決定するのか。この詩編を読みます時、あるいは歌いますとき、私たち はその問いの前に立たせられます。そして、礼拝のための書物であるこの詩編 は、謙って神を礼拝するところにおいてしか知られ得ない答えを私たちに示し てくれるのであります。   「いかない幸いなことか    神に逆らう者の計らいに従って歩まず    罪ある者の道にとどまらず    傲慢な者と共に座らず    主の教えを愛し    その教えを昼も夜も口ずさむ人。 」                     (1・1‐2)  幸いな人、それは悩みや困難から解放されている人である、とこの詩人は言 いません。あるいは、自分の願望が実現し、欲求が満たされている人が幸いだ、 とも言いません。彼はまず、消極的な側面から語ります。  「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢 な者と共に座らず…」。  「神に逆らう者」というのは意訳です。直訳は「悪人」という言葉です。し かし、ここで言われているのは、単に道徳や倫理の話ではありません。悪い人 は不幸になり、良い人は幸福になる、というのではありません。その点を新共 同訳はよく訳し得ております。あくまでも、ここで問題とされているのは、神 との関係なのです。ここで「歩き、とどまり、座る」という三つの言葉が用い られていますが、それはしばしば人が神との関係を失う過程なのです。それが ここで取り上げられているのであります。  人は困難から解放されるためには、あるいは自らの願望の達成のためには、 しばしばためらいながらも罪を犯すことを良しとします。「神に逆らう者の計 らい」に耳を傾けるのです。悪しき提案に耳を傾けるのです。それは直接、誰 か具体的な他者からの言葉であるかも知れないし、心の内に響く悪魔のささや きであるかも知れません。いずれにせよ、耳を傾けた後、人は「神に逆らう者 の計らい」に従って歩み始めます。それは一つの通過点に過ぎないのだ、と自 分自身に言い訳しながら、歩み始めるのです。  「歩んで」いるうちは、まだ引き返すことも可能です。しかし、一つ「神に 逆らう者の計らい」に従うと、連鎖的に罪を犯すことになります。その結果と してどうなるでしょうか。罪ある者の道に「とどまる」ことになるのです。人 は、そこに「とどまる」ようになると、もはや引き返す意志を失っていきます。 良心が麻痺してくるのです。心に痛みや苦しみを覚えるということはありがた いことです。そして、人はいつも心に痛みを覚えることができるとは限らない のです。  旧約聖書にダビデというイスラエルの王が出てきます。彼の生涯における最 大の失敗は、自分の家臣の妻であるバト・シェバを奪ってしまったことでした。 サムエル記下11章にはその様子がこう書かれています。  「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。 彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかっ た。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シ ェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって 彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身 を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使い を送り、『子を宿しました』と知らせた。(サムエル下11・2‐5)」  ウリヤの妻であるという報告を聞いたとき、彼の心の内には、十戒の言葉が 響いたと思います。「姦淫してはならない。」しかし、もう一方の声も響いて いた。それは「お前は、王ではないか。誰にも分からなければ良いではないか 」。誰にでも経験があるでしょうが、この「分からなければ良いではないか」 という言葉が響いていたのだと思うのです。そして、彼はこの言葉に従った。 まさに「神に逆らう者の計らい」に従ったのです。恐らく良心が痛んだことで しょう。しかし、バト・シェバが身ごもってしまいました。彼はこの事実を隠 蔽しなくてはなりません。彼は様々な策略を練りますが、ついにバトシェバの 夫であり、自分の忠実な家臣であるウリヤを殺してしまいます。そこには何と 書いてあるでしょうか。ダビデは次のような書状をウリヤに持たせたというの です。「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ。 (サムエル下11・15)」もはや良心が麻痺しています。痛みがなくなって しまっています。  歩いているうちは引き返せるかもしれません。しかし、人はとどまってしま うものです。心が痛まなくなり、苦しみがなくなることは、真の解決ではあり ません。むしろそれは、もはや歩んでいるのではなく「とどまっている」こと を意味するのであります。  やがて、人はその道にとどまるだけではなく、そこに座るようになります。 自分自身を正当化しはじめるのです。「傲慢な者」と訳されている言葉は「嘲 る者」を意味します。「馬鹿にする人」「他者を軽蔑する者」ということです。 自分を正当化するためには、他者を嘲るしかありません。「自分はうまくやっ ている人間なのだ、賢い人間なのだ」を自らに言い聞かせるためには、他者を 軽蔑し、馬鹿にして生きるしかありません。人を嘲り、神を嘲る者と共に座る ようになるのです。もはや人を人とも思わず、神を神とも思わず、罪を罪とも 思うことの出来ない傲慢な人となっていることに、自分自身で気付くこともで きません。そうです、罪の恐ろしさは、このように自覚できなくなるところに あるのです。罪が本性を現すのは、その人を最終的に傲慢な者とするところに おいてなのです。そして、人は自らの傲慢さに気付かないのであります。  これは人が神との関係を失っていく過程です。多くの人がこのようにして神 のもとから失われた者として生きています。もちろん、人はこのようなプロセ スを経て、願望を実現することも可能でしょう。あるいは、一時的に欲望を満 足させることはできるかも知れません。いわゆる成功者になることも出来るか も知れません。しかし、幸いなのはそのような人ではない、と言うのです。 「いかに幸いなことか。」それは「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪 ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座ら」ない者である、と言うのです。 御言葉は私たちのあり方に対して、真っ向から挑んでまいります。そこで、人 は、神の御前において、自分の姿に引き合わされるのです。願望の実現や問題 の解決によっては幸福となり得ない人間の現実に向かい合わされるのです。そ して、もし幸福でないならば、何が幸福であるかを取り違えているからだ、と いうところに行き着くのです。そもそも最初から誤っているのです。ボタンを 掛け違えているのです。最初のボタンを掛け違えたら、最後まで掛け違えるこ とになるのです。  幸福は自らの願望の実現でも、欲求の充足でもないのです。そうではなくて、 私たちを通して、神の御心が実現していくところにあるのであります。神は私 たち一人一人の存在に目的を持っていてくださいます。その神と共に、神と一 つになって生きるところに、人の真の幸福があるのです。それゆえ、この詩人 は、さらに積極的な側面から、幸いな人について語ります。「いかに幸いなこ とか」。どのような人が幸いなのでしょう。「主の教えを愛し、その教えを昼 も夜も口ずさむ人。(2節)」  彼は、神様が何を望んでおられるかを切に知ろうとと努めます。神の御言葉 を常に思い巡らし、御言葉がいつも具体的な生活の中にあるように努めるので す。なぜなら、本当に大切なことは、神との生きた交わりの中に生きているか どうかということだからです。すべてが順調に運んでいる人生の昼の時がある でしょう。あるいは逆境に立たされ、闇の中にたたずんでいる人生の夜がある でしょう。しかし、彼の思いは常に神の御心がどこにあるかということに向か うのです。そのような人の幸いを、この詩人はさらに一つの比喩をもって語り ます。   「その人は流れのほとりに植えられた木。    ときが巡り来れば実を結び    葉もしおれることがない。    その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」                        (1・3)  「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」はまた、流れのほとり に植えられた木として生きる人です。彼は自分が荒れ野に自生した野生の木で はないことを知っています。流れのほとりに植えてくださった方がおられるこ とを知っている人です。そこに生きようとする人です。そこには最善なるお方 の意志があります。彼は自分が最善なるお方のご意志のもとに置かれているこ とを知っています。大切なことは、人がどこにいるかということです。人の幸 いは恵まれた環境にいるかどうか、ということによって決まるのではありませ ん。本当に命の流れのほとりにいるかどうか、ということが問われるのです。  神と共にある時、人は命の流れのほとりに生きています。人が命の流れのほ とりに植えられている限り、必ず実を結びます。実とは命の現れであります。 実を結ぶためには時間がかかります。ですから「ときが巡り来れば」と書かれ ております。実が結ぶべき「とき」があるのです。そして、「その人のするこ とはすべて、繁栄をもたらす」と書かれています。もちろん、ここで「繁栄」 と呼ばれているのは、次の節にある「風に吹き飛ばされるもみ殻」のようなも のではありません。命ならぬものがもたらしたものではありません。神の命が もたらす本当の実りこそ、ここで語られていることであります。永遠の価値を もつ実が豊かに実るということでしょう。それは、必ずしもこの世の誉れとは 結びつかないかも知れません。しかし、神の命のほとりにあるならば、その人 を通して、神様の御心が実現され、神様の望まれるところが達成され、神様の 栄光がその人の人生を通して豊かに現されるのであります。そこにこそ真の幸 いがあるのです。   「神に逆らう者はそうではない。    彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。    神に逆らう者は裁きに堪えず    罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。    神に従う人の道を主は知っていてくださる。    神に逆らう者の道は滅びに至る。」     (1・4‐6)  詩人は、幸いな人について語った後、不幸な人について語ります。農夫は脱 穀した麦を箕をもって空中に放り上げます。すると籾殻は風で吹き飛ばされ、 中身があり重みがある麦粒だけが箕の中に戻ってきます。風が吹く中ですべて の真価が問われます。その人の幸福とするものが永遠なるお方と結びつき、永 遠なる価値を持っているかどうか。そのような重みを持つものであるか。その ことが問われるのです。もしそうでないならば、その人の幸福も、その人自身 の存在も、風が吹いた時に吹き去られてしまいます。それは失いながら生き、 年老いていくという人生の過程において吹き去られていくことを見るでしょう。 あるいはそうでないにせよ、最終的には「死」という風が吹いたとき、そして、 神の正しい裁きの前におかれた時、吹き去られてしまうものと、そうでないも のが分かれるのです。  人生を評価するのは人ではありません。神様です。悩みがあり、困難がある 険しい道を人は進んでいかなくてはならないかも知れません。しかし、その道 を「主は知っていてくださる」というのであるならば、すなわち神様御自身が 伴い、顧みてくださるその道であるならば、その道を歩む人は幸いです。一方、 どんなに平坦で安楽な道であっても、あるいは華やかに飾られた道であっても、 それが滅びに至るのであるならば、その道を行く人は不幸です。先にも言いま したように、「神に従う人」「神に逆らう人」というのは、単に人の生き方の 道徳性のことを言っているのではありません。そうではなくて、その人の生き る方向が問題とされているのです。神に向かっているのか、神に背を向けてい るのか、ということです。それは真の幸福が何であるかということについての 認識の違いからくる方向の違いであります。  幸・不幸は人が自分で獲得した何かによってではなく、また置かれている境 遇によってではなく、その人生の方向によって決定する。その厳粛な事実をこ の詩編は神の御前にあって私たちに突きつけています。そして、礼拝において、 私たちが立ち返るべきお方の招きを再び聞くことへと促してくれる。それが、 礼拝の歌集としての詩編全150編の冒頭にこの詩が置かれている大きな意味 なのだろうと思います。