「隔てを越える福音」
1996年11月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録10・1‐33
10章から11章にかけて、後に異邦人に対する伝道の拠点となりましたア ンティオキア教会の成立に至る長い物語が記されております。それは読んです ぐに気付かれると思いますが、繰り返しが多く、私たちの感覚からすると冗長 に過ぎると思われるほど、長々と書かれております。それはとりもなおさず、 これを書きましたルカが、この出来事をどれほど重要視していたかということ を示しています。なぜなら、これは歴史的にはいかなる大事件よりも大きな意 味をもった出来事だからであります。このことを通して、キリストの福音は異 邦人世界へと伝えられ、もはやユダヤ教ナザレ派ではなくなっていくのです。 その延長線上において、初めて、後のキリスト教世界の歴史、さらには全世界 の歴史を語ることができます。もちろん、同じ延長線上に私たちも存在いたし ます。しかし、その大事件は、世界の片隅においてコルネリウスという一人の 人物がペトロという元漁師である男と出会い、彼から話を聞いたということか ら起こりました。それは小さなことです。ある意味では、私たちの日常茶飯事 に類するような事です。しかし、神様は小さなことを用いて後の歴史を導かれ るのです。
カイサリアにコルネリウスという人がいました。彼はローマ人であり、百人 隊長でありました。彼については「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民 に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と記されております。彼は「神を 畏れる人」あるいは「神を敬う人」と呼ばれる人々の群れに属していました。 それは割礼は受けていないけれども、安息日の礼拝に出席し、エルサレムへの 巡礼を行い、ギリシャ語訳の旧約聖書に親しんでいた異邦人であることを意味 します。そのような人々はユダヤ教の集会にはどこにおいても見られたのです。 8章に出てきましたエチオピアの宦官なども、「神を敬う人」に属します。異 邦人である彼らは何に惹かれていたのでしょうか。恐らく、偶像礼拝にまつわ る迷信と退廃的な習慣に不満を感じていた人々が、ユダヤ教の高い倫理性と唯 一なる神を畏れる敬虔さに惹かれたのだと思われます。ですから、コルネリウ スもまたユダヤ教における「義の業」とされていた祈りと施しに励んでいたの でした。
その彼が、ヤッファに人を遣わして、ペトロという人物を呼び寄せて話を聞 いた。それがこの物語の内容です。そのペトロは革なめし職人シモンという人 の客になっていたのでした。「神を敬う人」と呼ばれている人が、革なめし職 人の客になっている男をわざわざ呼び寄せて話を聞いた。それは、恐らく普通 の状況では起こり得ないことだろうと思います。なぜなら、ユダヤ教に少し親 しんだ人であるならば、「革なめし職人」が「罪人」と呼ばれていることを知 っているからであります。それは明らかに不当な差別です。しかし、革なめし の職業は動物の死体にどうしても触れますので、汚れた職業と見なされていた のです。ですから、そこに客になっているということは、明らかにラビではあ りません。そんなことは、ユダヤ教に帰依して日が浅い人でも分かります。い や、ラビでないだけでなく、いわば伝統を重んじる正統的なユダヤ教徒でない ことも確かです。コルネリウスがユダヤ教徒の枠の中にあるものに惹かれて、 その枠の中でしかものを考えることができなかったら、ペトロを呼び寄せて話 を聞くということはまずあり得ないことなのです。
そのあり得ないようなことがどうして起こったかというと、聖書は、彼が幻 を見たのだ、と説明するのです。その幻の中で、神の天使が入って来て、「コ ルネリウス」と呼びかけた。そして、さらに天使がこう言ったというのです。 「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送 って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモン という人の客になっている。シモンの家は海岸にある。(4‐6節)」11章 14節によりますと、この時、天使は「あなたと家族の者すべてを救う言葉を あなたに話してくれる」と言ったようであります。そこで、彼は自分と家族と を救う言葉を聞こうと思った。そしてペトロを招いたのです。これが聖書の説 明するところです。彼がペトロを招いて話を聞こうと思った理由はこれ以外に ありません。
このような話を馬鹿馬鹿しいと思ってはなりません。実は非常に大切なこと を私たちに示しているのです。この物語の中には幻が出てきたり、天使が出て きたりいたします。後の方でペトロが幻を見るのです。確かに多くの人々にと ってはこのような経験は馴染みの薄いことだろうと思います。しかし、ここで 大切なことは超常的現象そのものではありません。ルカがここで強調している ことは、この物語における主人公がコルネリウスでもなければペトロでもない という事実なのです。すなわち、この場面を動かしているのは神様御自身だと いうことであります。神様がコルネリウスに働きかけ、ペトロを遣わされるの です。コルネリウスが人々を集めて、そこにペトロが来た。そして、ペトロか ら福音を聞いて彼らが救われます。それは先にも言いましたように小さな出来 事ではありますが、歴史的な大事件でもあります。しかし、それはあくまでも すべて人間の行為に見えるのですけれども、実は人間が造り出した状況ではな いのだ、ということを聖書は強調しているのであります。
主人公は神様です。そして、それは例えば天使が登場しない私たちのごく当 たり前の日常においても同じなのだ、ということなのです。実際そうでしょう。 私たちの意志によって為される事々など、私たちの人生において微々たる部分 でしかないのです。私たち個人の人生にしても、この世界の歴史にしても、動 かしているのは人間であるという思い上がりに気付かせるために、ここに天使 が登場しているのです。
私たちがキリストの福音を聞く、あるいは福音を語るということについても 同じです。神様は人に働きかけ、人を備えられます。備えた上で、福音を語る 者を遣わされます。この場面で、天使は直接福音を語りません。それは神が直 接福音を語らないということを意味します。人を通して神様は語られるのです。 そのために出会いを作られるのです。あなたが今、礼拝をしていることは単に あなたの意志から出たことではありません。あなたが福音を聞いているという ことは単なる偶然ではありません。本来だったら起こり得なかったかもしれな いことが、神の意志によって起こっているということなのです。
さて、次に、ペトロに対する神様の働きかけに目を向けてみましょう。
彼は昼の12時ごろ、祈るために屋上に上がりました。「彼は空腹を覚え、 何か食べたいと思った」と書かれています。空腹で祈っていたら恍惚状態にな りました。そこで幻を見たのです。そこで食べ物の幻を見せるとは、神様もユ ーモラスなことをなさいます。しかし、その内容はペトロにとっては深刻なこ とでした。
天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされ地上に下りてきました。 その中には、獣や地を這うもの、鳥などが入っていたのです。それらのほとん どは、ユダヤ人の律法においては、いわゆる「汚れた動物」だったのでしょう。 ですから、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声が聞こえる と、すぐさまペトロは答えるのです。「主よ、とんでもないことです。清くな い物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。(14節)」
ユダヤ人の食物規定はレビ記11章に記されております。動物で言いますな らば、ひづめが割れていて反芻するものは食べてよいのです。それ以外はだめ です。だから豚などは食べないわけです。これは現代でも正統的なユダヤ人は 厳格に守っているということです。東京神学大学にユダヤ教のラビを招いた時 には、鍋やフライパン、お皿の類まで新しい物を用意したという話を聞いたこ とがあります。古いフライパンなどでは汚れた動物を料理している可能性があ るということで、新しい物を用意するように要求されるわけです。ほとんど笑 い話ですけれど、彼らにとっては真剣なのです。ペトロが「主よ、とんでもな いことです」と言った時もやはり、それは彼にとって真剣なことだったわけで す。
なぜ食物規定のことがそれほど問題になるのでしょうか。様々な理由が考え られますが、恐らく汚れの種類に関係しているのではないかと思われます。旧 約聖書では、例えば死体に触れたりして身が汚れた時には、清めの儀式を行う ことが記されています。つまり、清めの儀式によって取り除かれるのです。と ころが、汚れた食物によって受けた汚れというものがどのように取り除かれる のかは聖書に書いてないのです。それだけに真剣に受け止められてきたのだと 思います。
そして、清さと汚れが問題になるのは、それが神との交わりに関わるからで あります。言うまでもありませんが、ここで清いとか汚れているとか言われて いる事柄は、私たちが言うところの清潔・不潔とは何の関係もありません。あ くまでも宗教的な事柄です。そもそも、汚れているといのは、聖なる神との交 わりが許されない状態を意味するのです。汚れた食物というのは、神との交わ りを許されない状態にするから汚れた物なのです。ところが、ペトロが口答え するとこんな声が聞こえてきました。「神が清めた物を、清くないなどと、あ なたは言ってはならない。」そして、そんなことが三度あったのです。
いったいこれは何を意味するのでしょうか。単に食物の規定を廃棄せよ、と いうことなのでしょうか。実は、ペトロにも分からなかったのです。だから思 い巡らしていた。するとコルネリウスから遣わされた人が尋ねてきたのです。 そこで、聖霊がペトロにこう語りました。「三人の者があなたを探しに来てい る。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者た ちをよこしたのだ。(19‐20節)」そこで彼が階下に降りると、そこにいた のはユダヤ人ではありませんでした。それはペトロにとっては意外なことだっ たのでしょう。「どうして、ここへ来られたのですか」と彼は尋ねます。する と彼らはこう言ったのでした。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を 畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞く ようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」
そこでペトロは分かったのだと思います。何が分かったのか。その後、コル ネリウスの家について彼が言った言葉の中にその内容が現れています。28節 を御覧ください。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際し たり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、 神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはなら ないと、お示しになりました。」注意しなくてはならないのですが、これは単 に「同じ人間なのだから差別してはならない」ということを言っているのでは ありません。あくまでも神様との関係が問題になっているのです。
ペトロがヤッファで革なめし職人のシモンの客となっていたことを考えてみ てください。これは先にも申しましたように、正統的なユダヤ人だったら絶対 にしなかったことをしているのです。なぜペトロがシモンの客になれたかと言 いますと、イエス様がそのようにしておられたからであります。イエス様がか つて罪人や徴税人たちと食事を共にしておられたからであります。そこにペト ロもいて、その姿を見てきたからであります。
イエス様が罪人と食事をしたのは、単に「みんな同じ人間じゃないか」とい うことで、そうしていたのではないのです。そうではなくて、「彼らもまた神 との交わりへと招かれている者である」という意味で食事を共にされたのです。 そして、当然の事ながら、そこには神の赦しの恵みが前提とされているのです。 父なる神が人を赦し、どんな人をも交わりへと招いてくださるということを 前提として、イエス様は罪人と食事を共にされたのです。それはイエス様だか ら出来たことであります。なぜなら、イエス様は罪の贖いのために十字架へと 向かっておられた方だからです。自らが罪を負うゆえに、罪の赦しを語り得た のです。そして、神との完全なる交わりの道をその贖いの血潮によって開かれ たのです。
神との交わりは、ただキリストの贖いによるのだ。ペトロにはそのことが分 かっていました。ですから、シモンが革なめし職人であろうがなかろうが、も はや関係なかったのです。彼はキリストにあって神との交わりの中にいるから です。しかし、ペトロの意識の中では、依然として異邦人は汚れた者でありま した。すなわち、神の招きの対象ではなかった。神との交わりが与えられる存 在ではなかったのです。
神様はそこを問題にされたのです。「神が清めた物を清くないなどと、あな たは言ってはならない。」神様がキリストによって交わりの道を開かれ、人を 招かれたのです。だから、誰もその対象から除外してはならない。「どんな人 をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」というのはそうい うことです。ペトロは幻の意味を適切に理解しました。それゆえ、23節には、 シモンの家に「その人たちも迎え入れ、泊まらせた」と書かれているのです。
私たちは異邦人伝道の端緒となった小さな出来事にまつわる物語を読んでま いりました。神様は人に働きかけ、福音を聞くようにと備えられます。そして 人を遣わし、出会いを与え、福音を語られます。このようにして、神はキリス トの贖いによって与えられた恵みを人に示し、人を御自身との交わりへと招か れます。ですから、私たちはどのような人をも、神への招きから除外されてい ると見なしてはなりません。もちろん、自分自身をそのように見なしてもなら ない。そのことを、福音が隔てを越えて異邦人世界に出ていくこの物語を通し て、私たちは知るのであります。