「神は分け隔てなさらない」                    使徒言行録 10章34節~48節  「そこで、ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないこ とが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人 は、神に受け入れられるのです。』 10・34‐35)」  この章の前半では、ローマ人であるコルネリウスとユダヤ人であるペトロと の出会いが記されておりました。この章の終わりには、ユダヤ人からすれば異 邦人であるコルネリウスたちが洗礼を受け、教会の交わりに加えられることに なります。こうして、長い間ユダヤ人と異邦人を隔てていた差別の壁が崩れて いきました。しかし、それは「皆、同じ人間ではないか」という人間について の理解によってもたらされたことではありませんでした。単に「人間は皆平等 である」という思想に基づいてローマ人たちが教会に加えられていったのでは ないのです。  そのことがペトロの説教の最初の言葉にすでに現れております。彼はこう言 ったのです。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」ペ トロは理解しつつありました。それは具体的には幻の中で神の言葉を聞くとい う神秘的な経験を通してであり、ローマ人たちから招きを受けるという現実的 な経験を通してでありました。そこで何が分かってきたかというと、それは 「人間について」ではなくて、「神様について」でありました。つまり「神は 人を分け隔てなさらない」ということであります。平等の思想が人本主義から 生まれるならば、それは人間の都合によっていくらでも変えられていきます。 ペトロが知ったのは、そのようなものではありません。この世には民族の違い、 国籍の違い、性別の違い、様々な社会的な地位の違い、学歴の違いなどは存在 し続けていくことでしょう。ユダヤ人はユダヤ人かそうでないかを問題にしま す。インド人であるなら、どのカーストに属するかを問題にするでしょう。私 たちは普段いかなる違いを問題にしているでしょうか。その人の生まれや育ち、 生きてきた背景を問題にするでしょうか。しかし、神はそのような違いを決定 的に重要なものとは見なされないということであります。  それはまた、決定的に重要な事柄は別にあることを意味します。それは神に 対する私たちのあり方です。だからペトロはこう続けるのです。「どんな国の 人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」教 会は単に「人間は皆平等ですよ。違いは重要ではありませんよ」というような ことは言いません。何が重要ではないか、ではなくて、何が決定的に重要であ るかを語るのであります。何が重要であるかが分かれば、何が重要でないかも 分かるのです。  何が神の御前においては重要なことであるのか。それは人生の向かう方向で あります。「神を畏れて正しいことを行う」と言われています。「神を畏れる 」ことと「正しいことを行う」ということは分離した二つの事柄ではありませ ん。一つです。単に善行を積む人を神は受け入れると言っているのではないの です。「神を畏れて正しいことを行う」というのは、例えばここにおけるコル ネリウスや友人たちのように、神に立ち帰り、神と共に生きようとしていると いうことです。神の御前で重要なのは、神を畏れ、へりくだって神と共に生き ているのか、それとも神に背を向け、あくまでも人間中心に生きているのか、 ということなのです。  神様は、その人の外側に属するものによって分け隔てされません。神のもと に立ち帰り、神を畏れ、へりくだって神と共に生きようとする者を受け入れて くださるのです。どのような人でも受け入れてくださるのです。その人の背景 は問題になりません。いかなる人でありましても、神に受け入れられて生きる ことができるのです。  「分かりました」とペトロは言います。しかし、それは神様がここで初めて そのことを明らかにされたということではありませんでした。実は、既に神が キリストを通して語ってこられたことなのです。ペトロがこれまでに多くの場 所において告げ知らせてきたキリストの福音の中に、既に神の御心は明らかに されていたのです。それゆえ、ペトロはここでさらにキリストについて語り始 めます。  「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です―― 平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなた がたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まっ てユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。(3 6‐38節)」  ペトロは、イエス・キリストの出来事を、「御言葉」を送ってくださった出 来事として要約しています。それは、神が「平和を告げ知らせて」くださった 出来事として語られているのです。これは、キリストが平和運動をしたという ことではありません。この言葉の背景となっているのはイザヤ書52章7節で す。そこにはこう書かれています。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、 良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救 いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。(イザ ヤ52・7)」つまり、「平和」とは、「恵み」や「救い」とほぼ同じ意味で あって、単に人と人との間の争いが消えるということでありません。そうでは なくて、大事なことは「あなたの神は王となられた」ということです。神様が 来て王となってくださる。神様が治めてくださる。そのような形において神様 との関係が回復するということであります。つまり、まず何よりも、神様との 間が平和になるということです。これはコリントの信徒への手紙第二では「和 解」という言葉において表現されています。「これらはすべて神から出ること であって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和 解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。(2コリント5 ・18)」これが、キリストを通して、神様がしてくださったことであると言 うのです。  具体的には、どのような形で神は恵みの御支配を現し、平和を告げ知らせ、 恵みの内への招きを現されたのでしょうか。ペトロは続けてこのように語って います。「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イ エスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべ ていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、 イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人で す。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日 目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対 してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復 活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。(38‐41節)」  ペトロは大きく二つのことをここで言っています。神はどのような仕方で語 られたのか。一つは、ナザレのイエスに聖霊と力を与え、油注がれた者となし、 イエス様を通して人々をいやされた、ということによってです。キリストを通 して、悪しき力に勝る神の力を現すことによって、神は人に対する恵みの御支 配、神の国の到来を現したのであります。このことについて、ペトロは、「わ たしたちは…証人です(39節)」と言っています。  もう一つは、さらに決定的なこととしてキリストの復活を語ります。神は、 人間がその罪のゆえに十字架にかけてしまったキリストを復活させることによ って、御自身の恵みの支配を現されたのであります。つまり、人の罪を贖い、 罪に対する勝利を決定的な仕方で現すことによって、神は語られたのでありま す。これについても、ペトロは自分たちのことを「前もって選ばれた証人」と 呼んでおります。  つまり、イエス・キリストの出来事を通して、神様は御自身の恵みによる支 配を現され、その内へと人を招かれたのであります。神が人類に対して、最終 的に決定的な仕方で語られたのであります。その言葉はペトロたち、「証人」 に託されました。そして、その証人たちに、復活されたキリストは命じられた のであります。何を命じられたのか。42節にこう書かれております。「 そし てイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定めら れた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちに お命じになりました。」  キリストが最終的な審判者なのだ、というのです。これが、神がキリストを 通して与えられた最終的な言葉です。私たちが毎週告白している使徒信条にも 「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と書かれてい ます。しかし、恐らく多くの方々は、この言葉を聞いて、「神がイエス・キリ ストによって…平和を告げ知らせて」という言葉とどうも調和しないように感 じるのではないでしょうか。「審判者」―それは実に恐ろしい響きを持った言 葉です。ミケランジェロの「最後の審判」では、キリストは拳を振り上げてい ます。そのような審判者のイメージが私たちにあるならば、なおさらでしょう。 しかし、ここで考えてみる必要があります。本当にそれは恐るべきことなので しょうか。これを単に恐るべきこととしてキリストは民に宣べ伝えよ、と言わ れたのでしょうか。恐怖を与えて、人を神へと立ち帰らせよと言っているので しょうか。  実は、そうではないのです。良く考えてみますと、他の誰でもない、このキ リストこそが最後の審判者であるというのは、実は大変喜ばしいことなのであ ります。なぜなら、そのキリストこそ、神が私たちに平和を告げ知らせるため にお送りくださった方だからです。私たちの罪を赦し、神と和解することがで きるようにと送ってくださった方だからです。恵みの御支配へと招くために送 ってくださった方だからです。具体的には、この方によって、私たちの罪は贖 われたのです。ここで言われているのは、他ならぬそのお方こそ、私たちが最 終的に直面する審判者なのだ、ということなのです。私たちのために十字架に おかかりくださった方意外に、私たちの最終的な運命を左右することは出来な いということなのであります。  このことについては、宗教改革者のカルヴァンという人がジュネーブ信仰問 答の中で、次のような興味深い表現をもって記しています。「(問い86)イ エス・キリストがいつの日にか来られて、世を裁かれるにちがいないというこ とは、私たちに何か慰めを与えてくれるでしょうか。―(答え)はい、非常な 慰めです。イエス・キリストが現れるのは、私たちの救いのためにほかならな いことを確信しているからです。(問い87)それゆえ、私たちは最後の審判 に恐れおののくべきではありません。―(答え)その通りです。なぜなら私た ちがその前に出頭すべき裁判官は、私たちの弁護人であり、私たちの訴訟を弁 護するために引き受けてくださった方にほかならないのですから。」  このように見てきますと、なぜペトロが43節を続けて語ったかが分かりま す。「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名 によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」他ならぬキリストが最 後の審判者であるから、その御名によって罪の赦しが受けられるのです。いか なる人も、このお方の御名によって罪の赦しを受けることができる。これこそ、 神の送ってくださった言葉、キリストの出来事の結論です。そして、これこそ まさにペトロが最初に語ったことの根拠なのです。すなわち、神に立ち帰り、 神を畏れ敬い、神と共に生きようとするいかなる人をも受け入れられるのだ、 ということの根拠なのです。  ペトロがこれらのことを話し続けておりますと、御言葉を聞いている一同の 上に聖霊が降りました。それは、かつてペンテコステの時に起こったのと同じ ような形で起こりました。「割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人 は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人 が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである(45‐46節) 」と書かれています。  ペトロがその説教の冒頭で「神は人を分け隔てをなさらないことが、よく分 かりました」と語りました。その事実を、神様御自身が人々の上に現されたの です。それが、異邦人に聖霊が降ったことの意味です。  いかなる人をも神は分け隔てをなさらない。神は立ち帰る者の罪を等しく赦 し、いかなる人をも受け入れてくださる。それゆえに、人において最も重要な ことは外側の違いではなくて、その人がどちらに向かって生きているかなのだ、 ということを申しました。しかし、そうは言いますものの、やはり人の目には 外側の違いが意味を持つように見えるものです。ペトロと一緒に来たユダヤ人 キリスト者たちは、ペトロの言葉を聞きながらも、やはりユダヤ人と異邦人の 隔ては越えがたいように思えていたかも知れません。本当に、神はいかなる人 をも受け入れ給うのだろうか。ところが、そのような事情の中で、神御自身が だめ押しをするかのように、彼らに聖霊を降されたのであります。神が彼らの 内に生きて働き始められたのです。  神が受け入れていてくださるという事実は、終末における審判において初め て明らかにされるのではありません。その事実の重さは、既にこの世において、 御自身の働きをもって証明されるのであります。神が聖霊を通して働かれる仕 方は多様でありますので、必ずしもここに見られるような、異言を伴う顕著な ものではないかも知れません。しかし、いずれにしましても、この世における 様々な違いにかかわらず、どのような人であっても、キリストの御名によって 罪が赦され、神と共に生きることができることを、神様御自身が現してくださ るのです。私たちの現実の生活の中に内在される方として、神が私たちの内に 生きて働き給う。そして、私たちがいかなる者であっても、その違いにかかわ らず、神は私たちを、共に神を誉め称え、礼拝する者にしてくださるのです。 そのようにして、神が確かに私たちを受け入れて下さっている事実を、この信 仰生活の中で経験させてくださるのです。