「目覚めるべき時」
1996年12月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ 13章11節~14節
教会の暦においては今日から新しい年に入りました。この聖日からクリスマ スに至る期間はアドベント(待降節)と呼ばれます。アドベントという言葉は、 ラテン語の「アドベントゥス(adven-tus)」から来ており、「到来」を意味しま す。誰の到来かと言えば、それはもちろん、キリストの到来です。それは、か つてのイスラエルの民がキリストを待ち望んだことに思いを馳せる時でありま す。また同時に、教会暦にこの期間があるということは、教会がキリストの再 臨を待ち望む共同体であることをも意味します。つまり、キリスト教の終末信 仰と関係しているのです。終わりの日にキリストが再び来られる。それは教会 が告白し続けてきた信仰の言葉であります。アドベントは、この信仰を新たに する時としての意味があるのです。
しかし、そうは言いますものの、今日、キリストの再臨という言葉は、どれ ほどのリアリティをもって私たちに迫ってくるものとなっているでしょうか。 「世紀末」ということが言われています。「ハルマゲドン」という言葉が毎日 のように新聞紙上を賑わせた時もありました。確かに世の終末は多くの場面に おいて話題に上がります。しかし、現代の教会において、終わりの日にキリス トが再臨されるということが、どれほど切迫したこととして受け止められてい るでしょうか。現実としては、毎週礼拝において使徒信条を告白し、「かしこ より来たりて」と言っているのですが、正直言って、実際にはあまりピンと来 ないという人の方が多いのかも知れません。というのも、キリストが再び来ら れるという約束が与えられてから、既に二千年近く経ってしまったという厳然 たる事実があるのですから無理もないとも言えるでしょう。
しかし、たとえキリストの再臨、あるいは終末ということが感覚的には切迫 しているように感じられないといたしましても、一つのことだけははっきりし ております。「時は不可逆的に流れている」という事実であります。終わりの 日が見えるか見えないかは別としまして、歴史は確かに刻々とある方向に進ん でいるということです。逆戻りさせたり押しとどめたりすることは出来ないと いうことです。昨日よりは今日、今日よりは明日、確実に何かに近づいている のです。1996年も終わりに近づいてきました。この年が過ぎれば、もう永 遠に二度とそこに戻ることは出来ません。この年は過ぎ行き、私たちは前に進 んでいきます。私たちの個人の人生においても、この歴史においても、確実に 動いている。確実に終わりに向かっているということです。
そうしますと、終末が目前に迫っているかどうかは別として、私たちに関わ ってくる問題は、行き着くところが救いであるのか、滅びであるのか、という ことであります。私たちは確実にどこかに向かっているのだけれども、そのよ うな私たちには最終的に待望すべき何かがあるのか、それとも最終的には絶望 しかないのか、ということであります。
本日はアドベント第一主日に与えられている御言葉として、ローマの信徒へ の手紙13章11節以下をお読みしました。パウロがこの手紙を書いたのは紀 元57年頃だと思われます。そうしますと、もう既にキリストの昇天から30 年近く経っているわけです。キリスト再臨の約束から30年が過ぎようとして いるのです。初期の頃、キリスト者たちは皆、キリストがすぐにでも戻ってこ られ、今の世の終わりが来ると思っていたようです。しかし、30年近く経ち ますと、その意識というのが幾分鈍ってきていたとしても不思議ではありませ ん。事実、パウロは当初、自分が生きている間に再臨はあると信じていたよう ですが、この手紙においてはそのような見解は後退しているように見えるので す。
しかし、先にも申しましたように、終末の到来が早かろうが遅かろうが、時 は後戻りすることなく確実に流れているわけです。昨日よりは今日、今日より は明日、確実に自分はある所に近づいていることを、パウロはやはり冷静に見 ております。時の流れと共に教会はある方向に進んでいる事実を、パウロは厳 粛に捉えているのであります。ですから、彼は言います。「今や、わたしたち が信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。(11節後半)」 さらに言います。「夜は更け、日は近づいた。(12節前半)」
この、「救いは近づいている」という言葉、そして、「日は近づいた」とい う言葉がここに書かれていることの意味を、私たちはよく考えてみる必要があ ります。彼がそのように語り得た事実の重さをしっかりと認識しなくてはなり ません。というのも、これは決して当たり前の言葉ではないからです。いい加 減に生きている人は別として、いわゆる真面目な人で、時の流れの不可逆性を 厳粛に受け止めている人ならば、恐らくこのように語りはしないだろうと思い ます。なぜなら、真剣に自らの人生を思い、歴史を見る人ならば、時の流れが 人を最終的に待望すべきところに連れていくと簡単には考えられないだろうと 思うからであります。
身近なところで私たちの一生を考えてみてください。一年はあっという間に 過ぎていきました。そうして一つ歳をとります。自然なこととして、肉体は朽 ちていきます。精神も衰えていきます。多くのものを失いながら日々を過ごし ます。行き着くところは墓であり、滅びに向かって人生は動いているようにし か見えません。
また、この世界についても同じことが言えるでしょう。と言いましても、何 も大袈裟なことを考える必要はないかも知れません。パウロは身近な現実から、 「闇の行い」について語ります。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」 という、当時の人々においては、どこにでも見られることを挙げております。 酒とセックスと争いです。それらは闇の中にあり、かつ闇を新たに作り出して いるわけです。社会の構造的な不正などを見なくても、身近な人々の生活の中 に闇がある。おかしなものです。こうしてみますと、今日の日本と少しも変わ りません。刹那的な享楽を追い求めながら、虚しさの中にいる人々の姿。欲望 が満たされることを求めながら、欲望に支配され、苦しみと悩みとを刈り取り ながら生きている人々の姿。そして争いとねたみに終始している人々の姿。ま さにドロドロとした闇の行いに満ちた人間の社会は、時の流れを経て変わって いくかと言えば一向に変わらない。この世界のありようは、二千年近くを経て 人類が進化(?)しても、一向に変わりません。むしろ、益々闇は深くなって いるように見えます。そうしますと、結局は個々の人生も、この世界全体も、 闇の中に終わるとしか見えない。闇の業と共に闇の中に終焉を迎えるようにし か見えないのであります。それ以外に行き着くところはないように思えるので す。待望すべき何かが先にあるとは思えないのであります。
しかし、パウロは肉の目で見ることの出来る世界だけを見ているのではあり ません。信仰の目をもってして見ることの出来るもう一つの世界を見ているの です。「夜は更け、日は近づいている」という言葉は、そこから出た言葉なの です。ただ「夜は更けた」と言ったのではありません。「日は近づいている」 とまで言えたのは、彼がもう一つの世界を見ているからであります。彼はその 時の流れの中にもう一つの歴史を持つ、もう一つの世界を見ているのです。そ れはキリストによって開かれた大いなる希望へと向かう歴史を持つ、信仰の世 界であります。パウロは、自分が希望へと向かう世界に生きていることを知っ ています。ローマの教会の人々もその中に生きていることを知っているるので す。だから彼は「今、我々は滅びへと向かっている」とは言わないのです。 「夜は永遠に続くのだ」とも言わないのです。「今や、わたしたちが信仰に入 ったころよりも、救いは近づいている」と言うのです。「夜は更け、日は近づ いた」と言うのです。つまり、「夜がますます深く暗くなっていくようだけれ ども、実は朝が近づいているのだ」ということであります。
パウロがこのように語り得たという事実の中に、キリスト者とは何であるか、 教会とは何であるかが明らかにされております。キリスト者は終末へと向かう 存在です。教会とは終末へと向かう共同体です。それは罪の闇の中を破局へと 向かっているという意味において終末へと向かうのではありません。そうでは なくて、夜の時を経て朝に向かう者であるということです。
キリスト者とは「朝が来る、必ず来る」というメッセージをキリストを通し て受け取った人であります。なぜなら、神はキリストの復活を通して、復活の 証人たちに決定的なメッセージを託されたからです。十字架で終わりではあり ませんでした。人間の罪によって神の子が十字架にかけられ、殺されて、それ で終わりではありませんでした。神はキリストを復活させられたのです。キリ ストは来るべき世の栄光の姿で現れました。キリストは死の向こうに復活の世 界があることを現してくださったのです。そして弟子たちはキリストの再臨の 約束を与えられました。この闇の世の終わりの向こうに、完全なる神の恵みの 御支配があることを示されたのです。つまり、「朝が来る、必ず来る」という ことです。キリストの再臨とはまさに、朝が訪れるその時なのです。私たちは 復活の証人たちを経て、代々の教会を経て、そのメッセージを受け取りました。 そして、希望の朝へと向かう信仰の世界に入れられたのであります。アドベン トのこの期間は、そのような私たちであることを確認する時であるとも言える でしょう。
朝が来ることを告げ知らされ、そのメッセージを受け取った人は、当然のこ ととして新しい人生へと招かれます。朝が来るのですから、朝に備えるのです。 すぐ一時間後に朝が来ると分かっているわけではありません。しかし、時は逆 戻りすることなく流れていきます。その中で、私たちは刻々と朝が近づいてい ることを知らされたのです。ですから、当然、朝に備えるのです。どのように 備えるのでしょうか。目覚めて待つということです。パウロは言います。「更 に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りか ら覚めるべき時が既に来ています。(11節)」これは、私たちの日常の習慣 とは食い違うかも知れません。多くの人は日が上ってから目覚めます。日が高 くなって初めて目覚める人もいるでしょう。しかし、信仰生活においては、そ うではありません。朝が来る前に、目覚めて待つのです。
「眠りから覚める」とは、既に朝が来たように生きるということです。やが て神様の完全なる御支配のもとに、神様の光の内に生きることになるのですか ら、今から光の内を生きるのです。パウロはこう言っています。「夜は更け、 日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱 と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望 を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。(12‐14節)」確 実に情け容赦なく終わりに向かって流れていく時の中、決して後戻りすること の出来ない人生です。どうして闇の中に生き続け、闇の行いによって費やして しまってよいでしょうか。理性を失った享楽に身を委ねて時を過ごし、欲望に 振り回されて人生を費やし、争いとねたみの中に滅びていってよいはずがあり ません。キリストの贖いは、私たちが闇の中に留まって夜を過ごすためではな いのです。夜がただ夜でしかない人ならば、そのような惨めな人生もあり得る でしょう。しかし、キリストは私たちに朝が来ることを示してくださったので す。そして、終末に至る前から、今この時から、光の内を生きるように招かれ たのです。
それは闇の業を捨てることだけを意味するのではありません。積極的には、 ここにあるように、「光の武具」を身につけて生きるのです。闇の世にあって、 光の中を生きることは戦いでもあるからです。ですから、こうして主の御言葉 を聞きながら、闇の行いを脱ぎ捨てていく一方で、光の武具を身につけさせて いただくのです。それが信仰生活であり、信仰における成長であります。また、 さらには「主イエス・キリストを身にまとう」のです。「身にまとう」という 当時の言葉遣いの本来の意味は「身も心も魂までもすっかり一体になる」とい うことです。具体的な毎日の生活全体においてキリストにしっかりと連なり、 キリストとの生きた交わりに留まることであります。
私たちはこうして礼拝の中において、繰り返し主の呼びかけを聞きます。 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ている。」アドベントの期間で あるならば、なおさらこの言葉に耳を傾けなくてはなりません。眠っていた日 々であったなら、眠りから覚める必要があります。闇の中に生きてきたのなら、 ここで光に立ち帰るのです。キリストを身にまとっていなかったなら、キリス トに立ち帰り、キリストに連なる生活を回復し、キリストを身にまとうのです。 こうして礼拝を繰り返し、一週間一週間を刻みながら、私たちは確実に夜明け に向かって生きていきます。「目覚めよ」という呼びかけを聞きながら、目覚 めた者として日々を生き、夜明けに向かって生きていくのです。