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「キリストの日に備える」

1996年12月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピ 1章3節~11節

 アドベント(待降節)の第二週に入りました。既に先週も申し上げました通 り、この期間は、特に、キリストの到来を待ち望んでいる私たちであることを 覚えるべき時であります。すなわち、終末におけるキリストの再臨の日を待ち 望むということです。このテーマは、パウロの手紙において繰り返し出て参り ますが、今日お読みしましたフィリピの信徒への手紙においてもその最初から 出てきます。ここでは「キリスト・イエスの日(6節)」あるいは「キリスト の日(10節)」と呼ばれています。私たちはキリストの日に向かっているの です。

 それは、「終末」と呼びましたが、この世において騒がれているような、い わゆる「全人類の滅亡」や「全世界の破局」という意味ではありません。聖書 における「終末」は、そのような「十把一絡げに人類が滅亡する」ということ とは明確に一線を画しています。それは、完全なる神の支配のもとに私たちが 入れられる日であり、その完全なる神の御支配のもとに、キリストの御前に私 たちが立つ日なのです。その日が遠い先であるのか、それとも目前に迫ってい るのか、それは大した問題ではありません。確かなことは、時は確実に流れて いるということです。私たちの人生も、この世界も確実に動いているというこ とです。私たちの人生も、今の世も、確実に終わりに近づいているということ であります。それは間違いないことです。最終的には、キリストの御前に立つ のです。だから、当然、その日に向かう者は備えをするのです。10節に「キ リストの日に備えて」と書かれていますのは、そのような意味であります。そ うしますと、アドベントを過ごす私たちにとって大きな課題は「どのようにし て備えるのか」ということであります。そのことについて、今日は聖書から聞 いていきたいと思うのです。

 さて、終末への備え、キリストの日への備え、ということで、私たちはいっ たい何を考えるでしょうか。いつの時代でも、「終末の預言」なるものに伴っ て、大騒ぎが繰り返されてきました。再臨運動に伴う熱狂主義は、いつの時代 にもありました。キリストの再臨を屋根の上で白い衣をきて待ち続けた人々の 話を聞いたことがあります。笑えない話です。しかし、神はそのような何か特 別なことを私たちに求めておられるのでしょうか。

 今日の箇所よ読みます限り、神様はそのような非日常的な特別なことを求め ておられるのではないようです。パウロはこう祈っています。9節を御覧くだ さい。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなた がたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そ して、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄 光と誉れとをたたえることができるように。(9‐11節)」

 まず、「愛がますます豊かになるように」と書かれています。これが「キリ ストの日に備え」ることと関係します。しかし、愛が豊かになるということは どういうことでしょうか。そこで私たちは不思議な言葉に出会います。パウロ は「知る力と見抜く力とを身に着けて」と言うのです。「知る力」というのは 「知識」とも訳せる言葉です。「見抜く力」というのは、鋭い感覚をもって判 断することのできる判断力です。そして、愛が豊かになって、「本当に重要な ことを見分けられるように」、と祈るのです。

 ここでは、およそ熱狂とはかけ離れたことが言われています。非常に冷静か つ研ぎ澄まされた感覚を伴う知的作業が語られているかのようです。それは、 私たちが普段「愛」という言葉で考えていることとは正反対のことのように思 えます。

 私たちが「愛の人」ということで誰かを考えるならば、それは他者のために 一途に打算を越えて行動する人を考えるのではないでしょうか。時には愚かに さえ見える人、それが愛の深い人であると考えているだろうと思うのです。そ れは、必ずしも間違ったことではないでしょう。愛は確かに打算を越えます。 愛は時として愚かになることでもあります。

 しかし、私たちはやはりパウロが言うところのもう一面を忘れてはならない のだと思います。愛とはやはり単なる熱狂や暴走とは無縁なのです。本当に愛 が豊かとなるためには、知る力と見抜く力が必要なのです。やはり、知的な作 業が伴い、人情におぼれない冷静な鋭い判断力が必要とされるのです。これは 神に対する愛であっても、人に対する愛であっても同じだと思うのです。実際、 どうでしょう。それらを抜きにした「愛」なるものが、単に人迷惑なだけであ ったり、あるいは人をだめにしてしまうことがどれだけあることでしょう。あ るいは、「神に対する愛」の名のもとにどれだけ思慮を欠いた破壊的な行為が なされることでしょうか。そのことを私たちはやはり考えなくてはならないの だと思います。最終的に、何が本当に重要なことかが解らないで、「愛が豊か である」などとは言えないということでしょう。

 そして、その「本当に重要なことを見分けられるように」ということに続い て、先に申しました「キリストの日に備えて」という言葉が続くのです。つま り、「愛が豊かになり、本当に重要なことを見分けられる」ということと、キ リストの日に備えるということは無関係ではないのです。そもそも、本当に重 要なこと、とは何でしょうか。それは、最終的に、「キリストの日」において 重要と見なされることではないでしょうか。キリストがご覧になられて「重要 である」と見られることこそ、本当に重要なことではないでしょうか。

 それゆえ、パウロは、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるとこ ろのない者となり」と続けるのであります。この世においては、「愛」の名に よって行われていることがいくらでもあるのです。不倫の関係でさえ、「美し い愛」の名によって語られる時代に私たちは生きているのです。そのように明 らかにおかしいことが判断され得る場合ばかりではありません。実際に良いこ とをしているように見えることが「愛」の名によって行われるならば、誰も変 だとは思わないのです。そして、「本当に重要なこと」のためにやっているの だ、と主張されるのです。しかし、そこでパウロは、ただ「愛がますます豊か に」なるように、というだけでなく、「清い者、とがめられるところのない者 」となるように、と祈るのです。

 「清い者」と訳されている元の言葉は、「太陽のもとにおいて調べられたも の」を意味する言葉です。光にさらされても大丈夫なもの、ということです。 私たちが愛と呼び、本当に重要だと呼んでいるもの、それが太陽のもとにさら されても大丈夫であるのか、ということです。神の光に照らされても大丈夫な 者となるように、そして「とがめられるところのない者となるように」と言わ れているのです。最終的に人がどのように判断するかは問題ではありません。 主の御前に立つときに、その光のもとにおいて、キリストがどう見られるかが 問題なのです。

 しかし、どうでしょう。本当にそのような者となり得るのでしょうか。ここ まで読みまして、ふと考え込んでしまいます。なるほど、「キリストの日」と いうことを考え、終末に向かって生きている私たちであることを思えば、ここ に書かれていることはもっともなことです。しかし、「愛が豊かになるように 」と言われると、やはり愛が豊かではない自分を思ってしまう。「清い者、と がめられるところのない者」と言われると、「そのような者となることが可能 だろうか」と、途方に暮れざるを得ない。そのようにも思います。

 実際私は、先日ある方から、愛の乏しいことを責められました。なるほど言 われてみればもっともな話で、反論のしようがありません。本当に、愛が乏し い、愛に欠けていると思います。ましてや、本当に重要なことを見分けて生き ているかと言えば、現実にはつまらないことのために振り回されている日常で あることを思います。情けない自分であることを思います。

 しかし、それでも私は落ち込んで生きる必要はないと思っているのです。こ のような箇所を読んで、「ああ、やっぱり自分はだめだ」と失望する必要はな いのです。そのことを私は改めて示されました。私たちは、パウロがこのこと を「祈っている」という事実を忘れてはならないのです。望みがなくなった時 に祈りは消えるのです。パウロはここで祈っている。それはとりもなおさず、 これらのことを神に求めてもよいのだ、ということを意味するのです。諦める 必要は無いのです。求め続けたらよい。自分についても、他者についても、こ れらを神に求め続けたらよいのです。

 パウロもそのことは良く分かっていたのでしょう。ここに書かれているよう な「キリストの日への備え」が、どうしたって人の内からは出てこないし、人 間の努力によっては完成されないものであることを知っているのです。ですか ら、パウロは祈りの最後にこう語るのです。「イエス・キリストによって与え られる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることがで きるように。(11節)」

 「人間の努力による実を生み出して」とは書いてないのです。実は、イエス ・キリストによって与えられるのです。イエス・キリストによって与えられる 義の実なのです。それをあふれるほどに「受ける」のが私たちです。「義の実 」というのは、「救いの実」と言い換えてもよいでしょう。私たちはキリスト の贖いによって義とされ、救われました。愛のない者、罪ある者、清くない者、 とがめられるところだらけの者が、神の恵みによって、赦され、受け入れられ、 救われたのです。救いは私たちの努力によって獲得すべきものでではなく、た だ恵みによって与えられる賜物であります。私たちは完全に受け身なのです。 そして、そのように、ただ恵みとして与えられた義が、義にふさわしい実を結 ぶのです。これも私たちが「受ける」べきもので、私たちが自分の力で造り出 すものではありません。だからパウロは祈っているのです。同じように私たち も祈るのです。

 そして、「神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と書かれてい ます。神の恵みを知れば知るほど、私たちは神に栄光を帰し、神の誉れをたた える者となれるのでしょう。「愛」や「清さ」が人間の努力によるものである と思っている人は、結局は神の誉れをたたえることはありません。自分に栄光 を帰し、人を裁く人として終始することになるのです。

 さて、ここまでパウロの祈りの言葉を読みますと、彼がなぜ3節、4節にお いて次のように書いているのかがよく分かります。「わたしは、あなたがたの ことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度 に、いつも喜びをもって祈っています。」彼は、フィリピの教会が理想的な教 会であるから、祈る度に喜びをもって祈る、と言っているのではありません。 教会の人々が、愛に満ちた、清い人ばかりであるから、喜びをもって祈れると いうのではないのです。むしろ、この手紙を読みますと、教会自体にも、また 教会とパウロとの関係にも、問題があったことが分かるのです。4章2節では 「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思 いを抱きなさい」と語っています。要するに、同じ思いになれなかった人々が いた、ということです。また、4章10節では、「さて、あなたがたがわたし への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜 びました」などと書かれています。要するに、今まではそうではなかった、と いうことです。また、異端的な教師たちが入り込んで、若干の混乱があった様 子もうかがえます。決して、理想的な人々でも教会でもなかったのです。

 しかし、それでも、パウロは喜びをもって祈ります。なぜなら、すべては神 から来るからです。人間から出るのではないからです。彼はこう言っています。 「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからで す。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、 その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(1・5‐6)」 ここに、喜びをもって祈り続けることができる理由があるのです。

 善い業を始められたのは神様です。私たち自身ではありません。信仰へと招 いてくださり、導き入れてくださったのは、神様です。自分が始めたのだ、と 思っている人はよく考えてみてください。そうすれば、決して自分の内から出 たものではないことが分かるでしょう。教会に失望したり、自分に絶望したり、 諦めたり、見限ったりする人は、傲慢な人です。それは、人間が始めたのだ、 と思っている人です。そうではないのです。神様が善い業を始めてくださった のです。だから、そのままでは終わらないはずなのです。神様が始めてくださ ったのですから、神様が成し遂げてくださるのです。そうでありますならば、 私たちに必要なのは、成し遂げようとする努力ではなくて、成し遂げてくださ る方への信頼なのです。

 キリストの日に向かう私たちは、どのようにして備えたらよいのか、という 問いをもって、この聖書箇所を読みました。ここまでのところで既に明らかに されたと思います。私たちにとって、最大の備えは、善い業を始めてくださり、 成し遂げてくださる方に信頼して福音にあずかり続けることなのです。福音の 内に留まり、信頼して神に祈り、救いの御業の完成を求め続けていくことなの であります。

 
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