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「見よ、あなたたちの神を」

1996年12月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 35章1節~10節

未来はどこに

 私たちは通常、未来を過去と現在の延長線上に見ているものです。この社会 についても、また自らの人生についても、無意識の内にそうしているようです。 1996年も終わりに近づいてきました。来年を展望する文章が新聞にも、雑 誌にも、しきりに書き立てられる時期でもあります。明るい展望を語る人はほ とんどいません。それも無理のないことでしょう。明るい展望を期待させるよ うなこの一年ではなかったからです。過去と現在の延長としての未来を語るな らば、現代人にとって最も縁遠い言葉は「希望」という言葉なのかも知れませ ん。

 しかし、それは今に始まったことではありません。「希望」という言葉が最 も縁遠かった時代に生きた人々は、聖書の中にもたくさん見出されます。特に 旧約聖書の多くの部分は既存の社会の崩壊期に書かれたものであるとも言えま すので、それはある意味で当然のことであると言えるでしょう。しかし、聖書 の中には私たちが見るようには歴史を見ない人々が出てきます。そこを私たち は見落としてはなりません。私たちが通常するような仕方で世界を見、人生を 展望することをしない人々がそこにいるのです。

 今日お読みしましたイザヤ書35章を書いた人もまたそのような人々の一人 であると言えるでしょう。彼は言います。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ、 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大 いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャ ロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。(イザヤ3 5・1‐2)」(これは一つの可能な訳です。もっと一般的なのは、「荒れ野 と荒れ地は喜び躍る」というような訳です。)これは不思議な言葉です。「荒 れ野」や「荒れ地」「砂漠」が象徴的な言葉であるにせよ、常識的に考えて明 かなことは「砂漠に花が咲き乱れることはない」ということです。砂漠は突然 できたものではないからです。そこには砂漠としての過去と現在があるのです。 その延長上に野ばらの花園はないのです。また、「砂漠はレバノンの栄光を与 えられる」と彼は言います。レバノンはレバノン杉で有名な森林を有する地域 です。砂漠の過去を考え、現在を考える時に、その未来に「レバノンの栄光」 が見えてくるはずがありません。要するに、ここに象徴的な言葉で表されてい る彼の視点は私たちとは違う、ということです。彼にとって未来は単なる現在 の延長上にはないのです。

困難と挫折のただ中で

 実は、このような表現はここだけに出てくるのではありません。35章に出 てくる様々なモチーフは、イザヤ書40章以降、いわゆる「第二イザヤ」など と呼ばれている部分にも出てきます。(例えば41・18以下、43・19以 下、48・21、51・3など)しかし、イザヤ書40章以降の場合、これら の表象は具体的な歴史的な場面と結びつけられています。それは、捕囚からの 解放であり祖国への帰還です。

 ユダ王国がバビロニア帝国によって国が滅ぼされた時、主だった人々は祖国 からバビロンへと移されました。これをバビロン捕囚と言います。紀元前6世 紀のことです。その捕囚時代末期からペルシャ時代にかけて活動した預言者が おりました。その預言者の言葉がイザヤ書40章以下に残っていると一般的に は考えられております。その預言者を便宜的に第二イザヤと呼ぶのです。その 彼も荒れ野の変貌を語っています。それは具体的には、ペルシャによってバビ ロニアが滅ぼされ、ペルシャの王キュロスによって捕囚民が解放され、エルサ レムが再建されるという出来事に照準が合わせられ、語られております。いわ ば第二の出エジプトの出来事として捕囚の解放が見られ、語られているのです。

 しかし、35章の場合、具体的な歴史的な出来事との関連というものが見え ません。むしろ歴史の終末に照準を合わせて語られる黙示的なものとなってい る。そのような傾向は、イザヤ書35章が位置的には第二イザヤの前に置かれ ていますけれども歴史的には後の時代の預言であると見られる、一つの理由と なっております。それは恐らく正しい見方でありましょう。そうしますと、こ こで語っている預言者の言葉が語られた状況が見えてまいります。「荒れ野よ、 荒れ地よ、喜び踊れ」と語ったこの人は、自ら荒れ野のような状況のただ中に いたと思われるのです。

 確かに第二イザヤの語ったように、新しい出エジプトは現実となりました。 しかし、次々にエルサレムに帰還していった人々が直面したのは、廃墟となっ た都であり、瓦礫の山となった神殿だったのです。解放は事実となったし、エ ルサレムに帰ることも出来た。しかし、神殿の再建という事業を一つとっても、 それは困難を極めたのです。事実、神殿の再建が始まったのは、帰還が許され てから20年も後となってしまいました。思うように事は運ばなかった。要す るに彼らの目の前の現実は、かつて語られた預言の言葉とは単純には結びつか なかったのです。例えば、かつて「わたしは不毛の高原に大河を開き、谷間の 野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする(41・1 8)」という神の言葉が語られた。しかし、現実はそう言える状態にはなって いないのです。「あの約束はいったいどうなったのか」と思わざるを得ない状 態です。そこにはやはり失望と挫折があったに違いありません。ですから、当 然やはりそこには35章3節にあるように「弱った手」があり、「よろめく膝 」があり、「心おののく人々」がいたのでしょう。無理もないことです。期待 が裏切られるというのは辛い経験です。そのようなことが繰り返されるならば、 希望は確実に失われていきます。それが過去と現在であるならば、未来に希望 は見出せなくなるのです。そのようなところに、この預言者は立っているので す。

見よ、あなたたちの神を!

 しかし、この預言者は語り続けます。彼はかつて語られた預言をもう一度語 り直すのです。それがこの35章です。ここに、あくまでも希望を失わなかっ た人を私たちは見るのです。そこにまだ、「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」 と語る人がいた。そして彼は、人々に、「弱った手に力を込め、よろめく膝を 強くせよ」と語るのです。彼は何を根拠としてこのように語るのでしょう。失 望して、落胆して、現実の荒れ野しか見えない人々、それゆえ弱った手を持ち、 よろめく膝を持つ人々が、いったいどのようにしてその手と足に力を取り戻す ことができると言うのでしょうか。彼は言います。「雄々しくあれ、恐れるな。 見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あ なたたちを救われる。」

 「見よ、あなたたちの神を!」結局、そこにしか最終的な希望を見出す道は なかったのです。そしてまた、それで十分だったのです。神に目を向ける。し かも、「わたしたちの神」として、そのお方を見るのです。その時、この預言 者はもはや現実の荒れ野に捕らわれていません。未来を単に現在の延長に見る のではなく、このお方を通して未来を見るのです。

 その方は「敵を打ち、悪に報いる神」です。このように書かれていましても、 これは復讐する神について語っているわけではありません。具体的な敵が誰で あるかは語られていないのです。それはこの預言者にとって、もはやバビロニ アでもペルシャでもないのです。それはどうでもよいのです。ここで言われて いるのは、神が来られ、神が介入され、秩序を回復されるという、神の主権の 行使であります。そのようなお方、最終的には「このままにしてはおかれない 」という神様。その方に目を向けるのです。「神は来て、あなたたちを救われ る。」歴史の外側から来られて、歴史に介入される方がおられる。人生の外側 から来られて、人生に介入される方がおられる。その方が救ってくださる。そ の方がおられるからこそ、過去と現在の延長以外の未来を語ることができるの です。救いの希望としての未来を語ることができるのです。

キリストの到来と終末の希望

 このように、厳しい現実の中で預言者が目を向け続けたのは「来て、救われ る」神でありました。それゆえ、彼は救いが成る「そのとき」について語るこ とができるのです。いつであるかは分かりません。しかし、必ず来る「そのと き」を語るのです。彼は言います。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こ えない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口 の利けなかった人が喜び歌う。」

 ここに完全なる救いの世界が語られています。完全なる癒しの世界として語 られます。神の恵みのみが支配し、神の命のみが満ち満ちた世界を預言者はこ のように描写するのです。それが実現する「そのとき」を彼は確信をもって語 ります。彼が目の前に見ているのは、罪と死が支配するこの世の現実です。し かし、それが彼の見ている過去であり現在であるにもかかわらず、来るべき救 いの「そのとき」を彼は語るのです。

 イザヤ35章全体の黙示的な性格からすると、これは「終末」と言い換える ことができるでしょう。このように、聖書における「終末」は、単なる全人類 の滅亡を意味するのではありません。単なる破局ではありません。「来て、救 われる神」を「わたしたちの神」と呼び、このお方に目を向け続け、忍耐強く 待ち望む者にとっては、まさに来るべき救いの希望である「そのとき」なので あります。

 そして、預言者が語った「そのとき」を最も深く心に留めておられたのは、 他ならぬイエス・キリストであったと言えるでしょう。新約聖書に次のような キリストの言葉が記されています。ルカによる福音書7章22節をお開きくだ さい。洗礼者ヨハネが二人の弟子たちをイエス様のもとに遣わして、こう尋ね させました。「来るべき方(メシア)は、あなたでしょうか。それとも、ほか の方を待たなければなりませんか。」するとイエス様は二人にこう答えられた のです。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は 見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえ ない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わ たしにつまずかない人は幸いである。(ルカ7・22‐23)」

 イエス様は何を言っておられるのでしょう。イエス様こそ「来るべき方だ」 ということです。そして、「神は来て、あなたたちを救われる」と言われてい た「救いの時」が既に始まっているのだ、ということです。イエス様の到来と 共に始まっている。イエス様がなされた数々の癒しの業は、それ自体が救いな のではありません。来るべき完全なる癒しの世界を指し示す「しるし」なので す。そして、救いの神の介入は既に始まっていることを示す「しるし」なので す。最終的に、キリストは十字架にかかられ、わたしたちの罪を贖われ、復活 されました。キリストの復活の出来事とは何でしょうか。それは来るべき復活 の世界を指し示している出来事であります。そして、永遠の命を与え給う救い の神の介入は既に始まっているという事実を示す「しるし」なのです。それゆ え、教会は空約束かもしれない「そのとき」を待ち望んでいるのではありませ ん。神がキリストを通してその実質を示してくださった、救いが完成する「そ のとき」を待ち望むのです。

共に待ち望む私たちとして

 最後に8節以降をお読みして終わりましょう。「そこに大路が敷かれる。そ の道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がそ の民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子は おらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進 み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌 いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去 る。(8‐10節)」

 預言者は、来るべき救いの完成の世界に一本の道を見ています。その道を通 って人々がシオンに帰ってくるのです。「解き放たれた人々がそこを進み、主 に贖われた人々は帰って来る。」救い給う神の御業は、私たちを単に個人個人 の幸いへと至らせるのではありません。そうではなくて、救いを待ち望んでい た者たち、贖われた神の民は、この大路を通して一つに集められるのです。永 遠の神の都において一つとされる。その時に、真の喜びと楽しみが私たちを迎 え、嘆きと悲しみが永遠に逃げ去るのです。今の世においては嘆きと悲しみの 中に散らされている神の民であるかも知れません。しかし、やがて一つに集め られ、永遠の都において神と共に住む時が来るのです。

 繰り返します。キリストの到来と共に、救いの神の決定的な介入は既に始ま りました。既に救いは始まりました。私たちは完成に向かって生きています。 救いの時は既に始まっている故に、私たちは部分的ながらもその恵みに与って います。私たちはこの世において既に、罪を赦され、聖霊を与えられ、神の命 に与らせていただきます。そして、不完全な形ながら、既に集められて、共に 礼拝をしているのです。それは終末における恵みに既に与っているということ であります。始めて下さったのが神であるならば、完成してくださるのも神以 外のお方ではありません。やがて全く一つとされた私たちを、完全なる喜びと 楽しみが迎え、嘆きと悲しみは永遠に逃げ去る時が来るでしょう。私たちは共 に、救いの恵みを知らされた者として、救いの完成する「そのとき」を待ち望 むものでありたい。終わりの日まで共に待ち望むものでありたいと思うのです。

 
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