「闇の中に輝く光」                   ヨハネによる福音書 1章1節~18節  「光は暗闇の中で輝いている。(ヨハネ1・5)」ここに、私たちがクリス マスにおいて聞くべき神のメッセージがあります。「その光は、まことの光で、 世に来てすべての人を照らすのである(9節)」と言われています。光が来ら れた。その聖書の告知に私たちがどのように応えるのか。それがまた、クリス マスにおいて私たちに問われていることでもあります。  「光は暗闇の中で輝いている。」この言葉は私たちにとって何を意味するの でしょう。  ある人は「暗闇」という言葉によって、「現代の暗い社会」ということを考 えるかも知れません。確かに為政者の不正が明るみに出る時に、私たちは「暗 い社会だ」と思います。子供たちがいじめによって自殺したというニュースを 読む度に、「暗い社会だ」と思います。中学生、高校生の間に広がる売春行為、 覚醒剤使用などの現実を聞くたびに、「暗い社会だ」と思います。バブル崩壊 後の不景気。リストラの嵐。それに伴うかのように激増する50代の自殺者数。 誰も1997年に対して明るい希望をもった展望を語ろうとはしない。語るこ とができない。確かに「暗い社会」だと思います。  また、ある人は「暗闇」という言葉によって、自分自身の生きてきた「暗い 人生」を考えるかも知れません。病気、失敗、挫折、様々なトラブルによって、 出口のないトンネルの中にいるかのような日々を送っている人にとっては、ま さに「暗闇」という言葉は身近な現実であろうと思います。それは人生の暗さ 以外の何ものでもないでしょう。  しかし、私は今日、誰もが知っているような暗い出来事をいくつも並べ立て て、いかにこの社会が暗いか、あるいはどれほど多くの人が人生の暗さを経験 しているか、ということを話そうとしているのではありません。というのも、 ヨハネによる福音書は、ここでそのような意味での「暗さ」について語ってい るとは思われないからであります。もちろん、この福音書が書かれた時代にも、 私たちが言うような「暗さ」はあったと思います。当時のユダヤ人は、現代の 私たちに比べれば、経済的にも決して豊かではなかったし、政治的にもローマ に支配されている被抑圧民族でもありました。しかし、ある意味では彼らのコ ミュニティは、昨今のこの国の現実と比べますならば、ずっと「ましな」社会 であったと言えなくもありません。地域社会にも個々の家族にもそれなりの秩 序があった。道徳的ということを言うならば、現代の日本人よりもずっと道徳 的であったのです。戒律の世界ですから。そして、宗教的でもあった。それが 福音書の背景です。しかし、そこでなおヨハネは暗闇について語るのです。で すから、ここで言われているのは、単に腐敗した社会の暗さでもなければ、不 幸な各人の人生の暗さでもないと思われれるのです。  では、聖書はどのような暗闇を見ているのでしょうか。そこで、ここのとこ ろは、もう少し丁寧に読まなくてはなりません。先ほど、5節の「光は暗闇の 中で輝いている」という言葉を読みました。その直前には次のように書かれて います。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」後でも少し 触れますが、ここで「言」とはキリストを指します。キリストの内に命があっ た。その「命」とは言うまでもなく、単に時と共に朽ちていく生物学的な命の ことではありません。神と共にあり、神と一つとなっているお方の内に輝いて いた神の命です。その「命」が「光」だというのです。  言うまでもなく、「暗闇」というのは「光」のないことを意味します。とい うことは、聖書の語る「暗闇」とは、ここで言う「命」、すなわち神の命を失 った状態であることが分かります。神の命を失っているということは、言い換 えるならば、神との交わりを失っていることであり、神御自身を失っている、 ということです。つまり、暗闇とは、神を失っているこの世界とその現実を意 味しているのです。神に背を向け、神に逆らい、神との交わりを失い、それゆ えに神の命を失っているこの世の現実を、聖書は「暗闇」と呼んでいるのです。  このように、いわば聖書は根元的な「暗さ」を問題にしているのです。ただ 現象として現れている、社会や人生の暗さの話をしているのではありません。 今は不景気であるから暗いと考える人は、景気が好転したら明るくなると思う ものです。しかし、本当にそうなのでしょうか。病気のゆえに人生が暗いのだ、 と思う人は、病気さえなおれば人生は明るくなると思う。しかし、本当にそう なのでしょうか。こんな現代でも、必ずしもいつも「暗い」と思って生きる必 要はないわけで、それなりに楽しく生きている人はいくらでもいる。しかし、 そのような人にとっては「暗闇」は無縁なのでしょうか。聖書は私たちに「そ うではないのだ」と言っているのです。  それは、例えば、人が病気になった時、その病気が初めて人生に暗闇をもた らすのではない、ということでもあります。失敗や挫折が人生に暗闇をもたら すのではないのです。そうではなくて、人はもともと暗闇の中にいるのです。 神の命、神の光を失っていることこそ、既に暗闇なのです。同じように、不道 徳や不景気が社会を暗くするのではないのです。神の命を失っているゆえに、 既に闇の中にあったのです。好景気の時にも、闇の中にあったのです。ただ、 様々な危機的な状況において、今まで決して暗くはないと思っていた自分の人 生が、あるいはこの社会が、実は他ならぬ深い闇の中にあったのだ、というこ とが認識されるだけなのです。つまり、真の命がない、光がない、それゆえに 本当の確かさも、方向性もない人生であった、そのような根元的な暗闇の中に いたのだという現実が表に現れてくるだけなのです。いつでも私たちが見てい るのは、結果であり、現象でしかありません。しかし、葉が枯れてきたら、問 題は根っこにあるものです。ここで語られている「暗闇」は、いわばこの根っ この部分についての話であると言ってもよいでしょう。  このように、聖書は、神に背を向け、神の命を失った世界を見ています。そ のような暗闇の世界を見ています。根元的な暗さを見ています。しかし、そこ に光が来た、というのです。それがクリスマスの出来事です。ヨハネはそこで 闇に目を向けさせるのではなくて、光に目を向けさせるのです。「光は暗闇の 中で輝いている」と言うのです。「その光は、まことの光で、世に来てすべて の人を照らすのである」と言っているのであります。  それはまた、14節に見ますように、「言は肉となって、わたしたちの間に 宿られた」という出来事でありました。先にも触れましたように、ここで「言 」と言われているのは、キリストです。世に来られる前から父なる神と共にお られた子なる神です。しかし、ここで「神が来られた」というのではなく、 「キリストが来られた」というのではなく、あえて「言は肉となって、わたし たちの間だに宿られた」と言われております。これはいったい何を意味するの でしょうか。  面白いことに、「言」に相当するヘブライ語の単語は、「出来事」をも意味 します。ユダヤ人にとって、言葉とはただ空しく消えていく実体のないような ものではありません。言葉が発せられると、そこに関わりが生み出され、その 言葉は関わりの対象に事をなしてしまう。出来事を起こす実体として捉えられ ているわけです。これは非常に現実的な見方であると言えるでしょう。私たち の間においては、一般に「言葉」というのが、何か非常に頼りなげな、当てに ならないもののように捉えられているかもしれません。言葉だけの約束では当 てにならないので、書面に残したりするわけです。しかし、一方において、確 かに言葉が発せられる時に、その言葉が何事かをなしてしまう事を経験から知 っているのではないかと思うのです。そのようなことを良きにせよ悪しきにせ よ経験している。実際、何気ない一言が人を自殺にまで追い込んでしまうこと さえあるのです。そのような現実的な経験から来ているのが、ユダヤ人の「言 」についての概念なのだろうと思います。  その「言」である方を神は世に送られたのだ、と聖書は語っているのです。 関わりを生み出し、関わりの対象に働いて出来事を起こす「言」が、暗闇であ るこの世に送られた。それがクリスマスの出来事なのだと言うのです。そこに 表現されているのは、いわば徹底的にこの世に関わろうとされる神の御意志で あります。この暗闇の世、神に背を向け、神に逆らい、神の命を失っているこ の世に、なお徹底的に関わって、御自身を現そうとされ、事を為そうとされる 神の御意志がそこにあるということであります。そのために「言」は神のもと を離れて世に来られたのです。  神がいかにこの世に関わろうとしておられるか。いかにこの暗闇に命と光を もたらそうとしておられるか。それはまた「言は肉となって」という表現の中 にも現れています。私たちは「肉」なる存在です。神の命がそこにないならば、 ただ朽ちていくだけのはかない存在です。そして、暗闇の中に生きているとい う現実が現れるのは、他ならぬこの肉においてであります。人は肉において悩 み苦しみます。肉なるがゆえに悲しみがあり、肉なるゆえに虚しさがあります。 肉において傷つき、肉において衰えます。肉において罪を犯し、肉において死 ぬのです。人は暗闇を忘れていることは出来るかもしれませんが、神の命を失 った暗闇の現実は、私たちの肉において確実に現れるのです。そこで、多くの 人々は、肉であるという現実を克服しようと必死で努力してきたのではないで しょうか。肉が肉でないものになろうとして涙ぐましい努力をしてきたのだと 思います。肉なる者であるゆえに経験する泥沼のような現実からはい上がろう としてきたのです。そのような中に、あらゆる宗教的な努力もあったわけです。  しかし、ここで言われているのは、まったく逆のことなのです。クリスマス において私たちが聞くのは、「言」が肉となったというメッセージなのです。 神の側から人間の肉なる現実に降って来られたというのです。神に背を向けて いるこの世界に対して、神の方から徹底的に関わられたのです。事実、「言」 なるあのお方は、私たちが傷つくように傷つかれ、私たちが痛むように痛まれ、 私たちが悩むように悩まれ、私たちが苦しむように苦しまれ、私たちが誰でも 最終的には一人で孤独の内に死ぬように、あの方も罪人の一人として孤独の内 に死んだのであります。確かに「言は肉となられた」のです。私たちが肉にお いて暗闇の現実を経験するように、その暗闇の中にあのお方は入ってこられた のであります。  そして、その「言」は、「わたしたちの間に宿られた」と言われています。 「宿られた」という言葉は「テントを張って住む」という言葉です。クリスマ スの出来事は、この暗闇を神が見捨てずに徹底して関わり給う御意志の現れで ありましたが、同時にそれは実につつましやかな出来事でありました。「言」 は権威を振りかざして入り込んできたのではありませんでした。神は力づくで 入り込んで来られたのではありませんでした。「言」は寄留者であるかのよう に、「テントを張って宿られた」のであります。  人々が実際にそこに見たのは、汚い家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている赤 ん坊でありました。貧しい者、差別され抑圧されている者、病を負う者、宗教 的に見捨てられていた罪人たちと共に食事をする、一人の青年でありました。 むち打たれ、嘲られ、ぼろぼろにされて十字架にかけられて死んでいく惨めな 男の姿でありました。神はそのような形において、命の光を現されたのです。 それは受け入れることも出来れば、拒否することも出来る光でありました。 「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(11節)」と書か れている通りです。その光は、自分が闇の中にいないと主張する者たちには見 いだされなかったのです。その光は、暗闇の現実に苦しむ者、それゆえに自ら が闇の中にいることを謙って認める者、まことの光を必要とする自分であると 知る者のみが見出すことのできる、小さな、つつましやかな光だったのであり ます。  神はそのような「まことの光」なる方、永遠に神と共におられ、ただ一度肉 となって私たちの間だに宿られた「言」なる方を、私たちが信じ、受け入れる ことを求められます。私たちの応答を求められるのであります。神との命の交 わりは力づくの強制によっては生み出されないからであります。私たちが真の 命を持つ「言」である方を受け入れる時、人は光と共に生き始めます。闇の世 にありながら光と共に生きるのです。私たちは神の命に与り、神との新しい関 係に生きる者となるのです。それは、12節にあるように「神の子」として生 きることに他なりません。  「光は暗闇の中に輝いている。(5節)」「輝いていた」のではありません。 闇が今もってなお闇であるように、その中に光も変わることなく輝いているの です。光なる方が来られた。そのメッセージは今年もこうして語られておりま す。そして、神はなおも私たちに関わられ、私たちを招いておられるのです。