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「神によって一つとされて」

1997年1月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録11・1‐18

 久しぶりに使徒言行録をお読みしました。今日は11章です。話としては1 0章にそのまま繋がっていますので、前の部分を思い起こしていただく必要が ありますが、幸いなことに、今日お読みしました箇所において、ペトロが要約 して話してくれています。後で詳しく振り返ることになるでしょう。要するに、 11章の冒頭にありますように、それは「異邦人も神の言葉を受け入れた(1 節)」という出来事でありました。以前もお話ししましたように、これは世界 史的にみても非常に重大な出来事であります。このことを通して、キリストの 福音は異邦人世界へと伝えられ、もはやユダヤ教ナザレ派ではなくなっていく のです。この出来事なくして、その後のキリスト教の歴史は語ることができま せんし、またこの出来事の延長線上に私たち日本の教会も存在するのです。

 まさにイエス様が言われた通りに事は進んでおりました。主は天に帰られる 前にこう言われたのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力 を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、ま た、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒1・8)」福音は地の 果てに向かって進み始めたのでした。しかし、今日の箇所を読みますと、その 出来事は単純には喜ばれなかったようです。受け入れられなかった。むしろ分 争の萌芽がここに見られます。そして、これは後々まで続きます。教会分裂の 危機にまで発展するのです。

 いったいどこに問題があったのでしょうか。ペトロがエルサレムに上って来 たとき、エルサレムの兄弟たちは、異邦人の中に起こった出来事を正確に伝え 聞いていました。「異邦人も神の言葉を受け入れた。」大事なところはしっか りと伝わっております。ところが、その後に「割礼を受けている者たちは彼を 非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事 をした』と言った」と書かれております。ユダヤ人には食物の規定があります。 汚れた食物と清い食物があるのです。何でも食べるわけではありません。異邦 人の家に行って客となることをしないのは、往々にしてユダヤ人から見れば 「汚れた食物」を異邦人たちが食べているからです。ですから、異邦人と同じ 食卓につくことはタブーだったのです。彼らはペトロが異邦人と共に食卓につ いたことも伝え聞いた。この情報も間違っていません。正確に伝えられていま す。

 要するに、問題は彼らがどちらに重点を置いたか、ということであります。 「異邦人たちが神の言葉を受け入れた」ということよりも、彼らにとっては、 「ペトロが異邦人と食事をした」ということの方が重大事だったのです。ペト ロの戒律破りの方に目が行ったのであります。このように、神様が素晴らしい 御業を人々の間に始めておられても、人がそちらに目を向けないということは しばしば起こってまいります。神の御業を喜ぶことができず、否定的な事柄だ けに目が行ってしまうのです。

 どこに目を向けるのか。これは小さな違いのようでありますが、実は決して 小さなことではありません。そのことによって、ここに見るように、教会が揺 さぶられる時があります。そう言えば、かつてアメリカで、当時の多くのヒッ ピーたちがキリストを受け入れ、教会に集うようになった時期がありました。 「イエス革命」などとも呼ばれました。しかし、ある人々はヒッピーたちの内 に起こっている神の御業よりも、教会のカーペットが汚れるということしか見 ようとしませんでした。もう少し遡って、18世紀、ジョン・ウェスレーの時 代。彼によって多くの民衆に福音が伝えられました。しかし、当時の英国国教 会は彼が教会堂の外で説教をしたことを問題にいたしました。

 身近なところで考えるとよく分かるかも知れません。例えば、一つの教会に おいて、新しい人々が神によって導かれ、加えられてきますと、当然、様々な ことを経験いたします。もしかしたら、小さな群れの時には経験しなかったよ うな、快くないことも起こってくるかも知れません。その時に、どこに目を向 けるのか。教会は人々の中に起こっている神の御業に目を向けるのか、それと も様々な否定的な事柄だけに目を向けるのか。これはその教会の歩みにとって、 決して小さなことではないのです。

 ペトロは異邦人と食事を共にしたことを非難されました。確かに彼はユダヤ 人のタブーを破ったのです。しかし、彼は単にそのことの申し開きをしようと してはおりません。自己弁護をしているのではないのです。むしろ、教会が見 るべきところに目を向けさせようといたします。人々に神の御業へと目を向け させるのです。そこにこそ解決があることを知っているからです。

 そのために、「ペトロは事の次第を順序正しく説明し始め(4節)」ました。 この部分は10章の繰り返しになりますが、今まで読んできたことを思い起こ しながら、ペトロの説明を聞きたいと思います。5節から14節までを御覧く ださい。

 ペトロはまず、カイサリアにあるコルネリウスの家に行った次第を説明いた します。ここには幻が現れ、??霊??が命じ、天使が立っているのを見るという ことが出てきます。これらの表象は私たちに馴染みがないことですが、要する にこれらが表しているのは、この出来事の中心に神様がおられるということで す。人間がこの出会いを作ったのではない。そのことをペトロは伝えようとし ているのです。そもそも、ペトロ自身の計画の中には異邦人の家に入って客と なるということは全くなかったのです。本来起こり得ることでもなかったので す。その本来起こり得ないことがどうして起こったのか。神様がその出会いを 作られ、場面を作られ、導かれたのだ、とペトロは説明しているのです。

 そして、ペトロは次のように話を続けます。「わたしが話しだすと、聖霊が 最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。(15節) 」ここで「最初わたしたちの上に降ったように」というのは、ペンテコステの 出来事です。使徒言行録2章に記されている事です。その時、神様ははっきり と目に見える形で、使徒たちおよび他のユダヤ人たちの上に聖霊を降らせまし た。彼らは皆、聖霊に満たされて、「ほかの国々の言葉で話し出した(2・4) 」と書かれています。これは神様のなされたデモンストレーションでした。こ うして教会は誕生したのです。その時とまったく同じように、今度は異邦人の 上に聖霊が降りました。神様はこの際、はっきりと誰の目にも分かるような仕 方で為されました。「(ペトロと一緒に来た人は)異邦人が異言を話し、また 神を賛美しているのを、聞いた(10・46)」と書かれています。最初のペ ンテコステの出来事と同じような形で異邦人への聖霊降臨が起こったのです。

 この時に、ペトロは何を考えたのでしょう。次のように書かれています。 「そのとき、わたしは『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によ って洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。(16節) 」ペトロがこのイエス様の言葉を思い出したということは非常に重要です。と いうのも、イエス様が言っておられた「あなたがた」というのは、もともとペ トロにとってはユダヤ人以外の何者でもなかったからです。イエス様が言う 「あなたがた」には自分たちユダヤ人しか入っていないと思っていたのです。 しかし、ここでもう一度主の言葉を思い起こした。そして、その「あなたがた 」の中に、ユダヤ人以外の異邦人も入っていることを悟ったのであります。そ れは、神が特に御自身の御心を明らかに示された出来事でありました。「神は 人を分け隔てなさらない(10・34)」ということを神自ら示されたのです。

 しかし、ここでペトロが異邦人の中に起こった現象そのものを細かく描写し てはいないことに注意しなくてはなりません。異邦人の内になされた神の御業 がどのような形で現れたか、ということに関しては大して重要なこととして取 り上げていないのです。聖霊の賜物がどのような形で現れたか、ということに は関心がないかのようです。これを聞いていたユダヤ人たちも、ただこう言っ て神を賛美し始めました。「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与 えてくださったのだ。(18節)」

 ペトロは異邦人たちの内になされた神の御業に目を向けさせようと、これら のことを話してきました。しかし、ペトロが伝えたかったのは、それは、神が どれほど不思議なことを異邦人の内になさったか、どれほど素晴らしい賜物が 与えてくださったか、どれほど異邦人たちの品性や生活が変わったか、などで はなかったのです。そうではなくて、神が「異邦人をも悔い改めさせ、命を与 えてくださった」ということなのです。「悔い改め」とは「悔いて改める」と いうことではありません。これは神に立ち帰るということです。彼らが神に立 ち帰り、神を賛美し、礼拝する者とされている。神との永遠の交わりに入れら れ、神の命に与っている。そのことにこそ、神の御業を見たのであります。

 ペトロを非難していた人々も、そこに神の御業を認めざるを得なかったので す。なぜでしょうか。少なくとも彼らは「悔い改め」ということが神の賜物で あることを知っていたからです。神に立ち帰ることができ、礼拝する者とされ るということは、純粋に神の恵みであることを知っていたからです。それゆえ、 異邦人についても、もしそこに悔い改め、神に立ち帰り、神を礼拝している人 々がいるならば、それは神から出たことであると承認せざるを得なかった。だ から、当初非難していた人たちも含め、皆が神を賛美したのです。

 さて、私たちが教会において事を見、人を見る時、いったいどこに目を向け ているのか。そのことを改めて考えさせられます。神の御業に目を向けること ができるかどうか、ということです。こうして神に立ち帰り、共に礼拝をして いる中に、神の御業を見ることができるかどうか。それは、他ならぬ自分が神 に立ち帰っていることに、神の御業を見ることができるかどうか、ということ に関係してくるでしょう。もし、自分が神に立ち返り、神を礼拝していること こそ神の奇跡なのだ、ということを知っているならば、他の人々の中にも同じ 御業を見ることができるはずです。そして、見なくてはならないのです。そし て、この神の御業に目を向けるということは、初代の教会においても、現代に おいても、教会が一つとなっていくために不可欠なことなのです。

 例えば、教会分裂の危機というほどではないにしても、身近な話として、あ るキリスト者が他のキリスト者を見て、「あんな人が教会に来ているなら、わ たしは行かない」「あんな人がクリスチャンなら、私は教会には行かない」と いうような言葉を聞いたり、言ったりしたことがあるでしょうか。つまらない 話ですが、そのような言葉は実際多くの教会でも聞かれるのです。気持ちとし ては分からなくはないけれども、この言葉は正しくありません。見ている方向 が正しくないのです。「あんな人が教会に来ている」と言うならば、そこに神 の御業を見なくてはならないのです。「あんな人が教会に来ているから、私も 教会に行けるのだ」というのが正解でしょう。善い人であるか、悪い人である か。正しい人であるか、間違った人であるか。そんなことではなくて、どのよ うな人であれ、お互いに神のもとに立ち帰り、神を礼拝する者とされていると ころに神の御業を見るべきなのです。

 実は、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の問題は、これで解決したの ではありませんでした。後々まで尾を引くのです。使徒言行録では15章にも っとはっきりした形で現れてきます。また、ガラテヤ2章11節以下にはこの ように書かれています。「さて、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たと き、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。な ぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に 食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れて しり込みし、身を引こうとしだしたからです。(ガラテヤ2・11‐12)」 あのペトロでさえ、後まで問題を引きずりました。教会が一つとなっていくと いう事については、何に目を向けて、何によって一つとなっていくか、という ことが常に継続的に問われているということでもあるでしょう。それは私たち の今日の課題でもあるのです。

 
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