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「宣教旅行の始まり」

1997年1月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録13・1‐12

 使徒言行録の13章に入り、場面は再びアンティオキアの教会に移ります。 本日は12節までをお読みしました。ここにはアンティオキア教会からバルナ バとサウロが伝道旅行に遣わされ、まずキプロス島がキリスト者によって治め られる最初の地域となるまでの経過が記されております。

多様な人々

 始めに、バルナバとサウロが旅立つまでのいきさつを見ておきましょう。既 に11章のところで触れましたように、アンティオキアはローマ、アレキサン ドリアに次ぐ大都市でありました。そこにおいて初めて異邦人にも福音が伝え られ、その結果としてアンティオキアの教会が形成されてきたのです。その教 会はいかなる教会だったのでしょう。私たちは詳しい情報を得てはいませんが、 ここに預言者と教師の名簿を見ることができます。これを見るだけでも、教会 の一面を知ることができるでしょう。

 そこには、エルサレム教会から遣わされてきたバルナバがいます。また、ニ ゲルと呼ばれるシメオンがいます。ニゲルというのは黒人のことです。シメオ ンというのはヘブライ名ですから、彼は離散のユダヤ人(ディアスポラ)とし ての伝統の中に生きてきた人物であることが分かります。多分アフリカのユダ ヤ教改宗者の家に生まれ育った人物なのでしょう。次に出てくるのはキレネ人 です。キレネというのはアフリカ北部にあります。ということは、シメオンと 共にアフリカ人ということになりますが、ルキオというのはヘブライ名ではあ りません。ラテン語の名前です。シメオンというヘブライ名と並べられること によって、二人の文化的な背景の違いが強調されております。

 ルキオの次に書かれているのは、「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」で す。彼は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスの幼友達だったわけです。 恐らく宮廷との関係にある貴族の出身だったのでしょう。そして、最後に書か れているのはサウロです。タルソ出身のユダヤ人。宗教的には元ファリサイ派 のユダヤ人であり、ガマリエルのもとで正統的なラビのラビの教育を受け、教 会の迫害者であった人物宇です。彼が、今やキリストに仕える者としてここに 挙げられているのです。

 教師だけを挙げても、この多様さがあったということです。ルカは、世界へ と福音が伝えられるその端緒となった教会を記すのに、まずその驚くべき人員 構成を挙げるのです。まさにアンティオキア教会に見られたこの事実が、後に 福音があらゆる国々、あらゆる文化圏に伝えられていくことの象徴となってい るからです。そして、後の時代の教会を考える時にも、このアンティオキア教 会の姿を抜きにしては考えられません。例えば、私たちは小さな群れでありま すが、それでも様々な背景を持っている人が集められております。私たちは、 自分の背景とはまったく異質な人々に出会ったとしても驚いてはなりません。 教会というのは、そのようなところだからです。そこで大切なことは、何にお いて私たちが一つになるのか、ということです。アンティオキア教会では、こ のような多種多様な人々がいったいどこにおいて一つとなったのでしょうか。 何において一つの方向に動きだし、サウロとバルナバを送り出すに至ったので しょうか。

 2節にはこのように書かれています。「彼らが主を礼拝し、断食していると、 聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。 わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』(13・2) 」この「断食」というのはいわゆる苦行ではありません。教会における断食は 祈りに関連します。彼らは礼拝し、祈っていたのです。彼らが一つの体に作り 上げられたのは、単なる相互理解によるのではありません。また、この世のあ らゆる組織や集団が一つの目標に向かって一丸となったと言うのとも違います。 そのような一致であったなら、バベルの搭を作った人々と少しも変わりません。 そうではなくて、彼らが一つとなったのは、礼拝と祈りにおいてでした。神を 拝み、神の御前に共に身を低くして、共に御心を尋ね求めるところにおいてで す。共に神の言葉を聞き、神に従うところにおいて一つとなったのです。それ は私たちについても同じです。

 さて、ここで聖霊が教会に対して「バルナバとサウロをわたしのために選び 出しなさい」と語られたということは重要です。礼拝と祈りの中で、教会は神 の言葉を聞き、主の御心が確かにここにあると信じたのです。だから、彼らは さらに「断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた(3節)」のです。 大切なことは、単にパウロとバルナバの伝道的熱情をアンティオキアの教会が サポートしたのではないということです。教会が、キリストの派遣を信じて 「出発させた」のです。人からのものではなく、キリストから出たのだ、とい う共通理解があったのです。それを聖書は4節では「聖霊によって送り出され たバルナバとサウロは」と語ります。このように、「聖霊によって」というこ とと、教会によってということは無関係ではありません。「彼らは断食して祈 り、二人の上に手を置いて」という言葉の中に、出ていく者も送り出す者もキ リストの主権のもとに一体となっている姿を私たちは見るのです。教会の祈り のもとに彼らは送り出され、「聖霊によって送り出された」のです。

 これは私たちの教会のあり方と無関係ではありません。例えば、私は毎週篠 山に行き、月二回奈良に行き、月一回呉に行きます。それらの集会の中心にな ってくれているのは岩下姉であり、西口姉であり、島本姉であるわけです。し かし、彼らの伝道や私の伝道の働きを教会が支えているのではありません。そ うではなくて、教会がそれぞれの場所に伝道しているのであり、そのために具 体的には私が送られているのであり、それぞれの場所に責任者がいるのです。 ですから、教会は、各地区の方々も含めて、このことを共通理解とし、キリス トの派遣のもとになされる教会の伝道として祈りに覚る必要があるのです。

魔術との対決

 さて、次に4節以下に目を移しましょう。バルナバとサウロはセレウキアか らキプロス島に船出し、サラミスに着きました。サラミスはキプロス島東岸に ある港です。そこから彼らは島全体を巡ってパフォスに着きました。パフォス はローマの地方総督の座があったところで、キプロス島における行政の中心で した。当時のキプロスを治めていた地方総督はセルギウス・パウルスという人 物です。キプロスには迫害によって散らされたキリスト者たちが既に伝道を初 めておりました。(11・19)セルギウス・パウルスも島のうちのユダヤ人 たちに起こっている新しい動きを知っていたのでしょう。そこでサウロたちを 招いて御言葉を聞くことにしたのだと思います。

 ところが、そこに「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者 」と呼ばれ、「魔術師エリマ」と呼ばれている人物が登場します。この男はセ ルギウス・パウルスと交際がありました。エリマは宮廷における宮廷預言者あ るいは宮廷魔術師といった地位を持っていたのでしょう。このことは魔術師エ リマがキプロスにおいて大きな支配力をもっていたことを想像させます。

 そのエリマがバルナバとサウロの邪魔を始めたのでした。「魔術師エリマ― ―彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの 信仰から遠ざけようとした(8節)」と書かれています。第一回目の宣教旅行 において、彼らがまず直面したのは、このような魔術師との対決という問題で ありました。これは前近代的な話でしょうか。いいえ、今でも例えば南米の宣 教師たちから同じような話を聞かされます。それでは日本ではどうでしょうか。 少なくとも私たちには無関係なのでしょうか。いや、そんなことはないでしょ う。私たちの周りには様々な魔術的な支配力が形を変えて存在しているからで す。

 そもそも魔術とは何でしょうか。なぜ霊能者や特別な力を持った者が古代に おいて重んじられ、現代においてもそのようなことが見られるのでしょうか。 それは明らかに人間の内にある「恐れ」とは無関係ではないでしょう。人はだ れでも自分の手に負えない諸々の力のもとにあることを知っているのです。例 えば、古代人にとっては、自然現象に現れる力などは、具体的に彼らの理解も 能力をも越えた力であったわけです。ですから、それらの諸々の力を支配する ことのできる人、あるいはそれらの力の行方を予知することのできる人が必要 だったのです。ところが、結果的には、恐れのゆえに呪術師や占い師の類に支 配されることになります。現代においても、霊能者がある程度の支配力をもっ ている地域はいくらでもあるのです。

 さて現代の日本ではどうでしょう。確かに科学の進歩により、かつて不可解 とされていた自然の諸力の仕組みの多くは解明されました。それは不気味な恐 怖の対象ではなくなりました。しかし、依然として人は恐れのもとにあります。 不安のもとにあります。ですから魔術が様々に形を変えて人々の精神生活を支 配していることには変わりありません。どのような雑誌にも星占いのページが あることを「ただの遊びだよ」と笑い飛ばすことができるでしょうか。多くの 若者たちがいわゆる「占いの館」に足繁く通い、霊感商法の類は後を絶たず、 人々は厄除けを求め、あるいは水子供養を求めて多額の支払い要求にいともた やすく応じてしまう。また日常のことがらについても得体の知れない迷信がこ こかしこに見られ、悪いことが起こると自分の家は何か間違ったことをしてい るので呪いを受けているのではないか、と考えてしまう。これは笑い事で済ま されるのでしょうか。

 聖書は一貫して魔術に反対しています。特に旧約聖書には明確に魔術を禁じ ている箇所がいくつもあります。(例えばレビ19・26)なぜ、魔術がこれ ほどまでに退けられるのでしょうか。それは、人が恐怖からの解放や解決を魔 術的なものに求める時、本当に向かうべきお方を見失うことになるからです。 恐れを解決してくれる者であるならば、向かうべき対象は誰でも何でもよくな るからです。これは、言い換えるならば、魔術的なものによっては、絶対者な るお方との人格的な交わり、愛の関係は生み出されないということです。占い や御託宣が当たったら、そこから絶対者なる神への愛が生み出されますか?水 子供養によって絶対者なる神、命の源なる神への真実と従順が生み出されます か?明らかに答えは「否」です。そして、それは結局は恐れや不安からの解放 とはならないということです。だから魔術師に支配され、迷信の類に支配され、 一つの恐れから解放されても別な恐れによって支配されるのです。

 バルナバとサウロは何よりもまず「ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知ら せた(5節)」のでした。これが彼らの働きの中心でした。そして、信仰へ導 かれつつあった総督も、バルナバやサウロの行う奇跡を見たいと思ったのでは なくて、「神の言葉を聞こうとした(7節)」のです。その意味で、総督は正 しい方向へ向かっていたのでした。なぜなら、神との真実なる関係は「神の言 葉」が語られ聞かれることによってしか生み出されないからです。神の言葉な るイエス・キリストを通して現された神の恵みが語られ、人々に聞かれ、宣教 を通してキリストとの出会いが起こらなくては、神と人との正しい関係は回復 しないのです。

 サウロはこの魔術師に言いました。「今こそ、主の御手はお前の上に下る。 お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」すると魔 術師の目がかすんできて、すっかり見えなくなりました。そのとき、「総督は この出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」と書かれています。 ここは注意して読まなくてはなりません。「彼はこの出来事に驚き、信仰に入 った」と書かれていないのです。もし、この出来事の不思議さだけによって得 た信仰であるならば、それは魔術や迷信と少しも変わらないでしょう。そうで はないのです。「主の教えに非常に驚き」と書かれているのです。すなわち、 ここで真に主なる方との出会いが起こったということです。それは既に宣べ伝 えられていた「主の教え」によることは言うまでもありません。

 教会の働きは、あの時代も今日も変わりません。教会は単なる使命感による のではなく、憂国の思いからでもなく、キリストの権威のもとに服し、キリス トの派遣を覚えて、神の言葉を語り続けてきたのです。しかし、私たちは、御 言葉が語られ、聞かれるということを、魔術的な諸々の事柄に比べて、どれだ け力あるものと信じ、受け止めてきただろうか、ということを改めて考えさせ られます。むしろ、ともすると私たち自身、迷信的なこと、魔術的なことに支 配され、神の愛を見失って恐れに支配されてきたのではないでしょうか。私た ちは心新たにパウロたちがいたところに立ちたいと思います。御言葉の宣教を 通してこそ、人を闇に閉じこめる支配力が打ち破られ、神との命の交わりが築 かれ、神の国の現実がもたらされることを信じて、御言葉を語り続け る教会でありたいと思うのであります。 

 
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