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「パウロの宣教」

1997年2月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録13・13‐43

 前回はキプロス島における宣教の様子をお読みいたしました。キプロス島に おいてローマの地方総督であるセルギウス・パウルスが回心いたします。とい うことで、その島はキリスト者に治められる最初の地域となりました。総督の 回心により、少なくとも年若いキプロスの教会については、当面の安全が確保 され、伝道の道が広く開かれたわけです。そこで、彼らはキプロスを発ち、次 なる未伝の地へと旅を進めていきました。彼らはパフォスから小アジアの南海 岸へ船で渡っていきます。その港から陸路を進んでペルガに着きました。彼ら はそこからピシディアの山を越えてさらに内陸に向かいます。彼らは一路アン ティオキアへと向かっていきました。(同じ名前ですが、先に出てきたシリア のアンティオキアとは別の町です。)

 そこにはユダヤ人居留民の共同体があり、安息日には会堂において礼拝が行 われておりました。キプロス島においてもそうでありましたように、彼らが御 言葉を語る機会を得るのは、もっぱら安息日の礼拝においてです。本日の箇所 には、どのようにして伝道の機会が与えられ、彼が何を語ったかが記されてお ります。彼らは安息日に会堂に入って席に着きました。いつものように礼拝が 進めらます。まず、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である (申命記6・4)」から始まる、シェマーと呼ばれる信仰告白から始まり、続 いて祈りが唱えられたことでしょう。その後、律法(モーセ五書と呼ばれる創 世記から申命記まで)と預言者の書が朗読されます。そこで、会堂長たちが人 をよこしてパウロたちに励ましの言葉を語るように促しました。会堂の礼拝に おいて、朗読の後に説教をすることはユダヤ人の男性であるならば誰にも許さ れていたのです。特に、パウロとバルナバは、旅の途中のラビであるかのよう に思われたのでしょう。

 そのようなわけで、彼らは集まっている人々に御言葉を語る機会を得たので した。その内容が16節以下に記されております。それは明快な構造をもって いまして、三部に分けられます。各部の最初では聴衆に対する呼びかけが為さ れております。第一部は16節から25節まで。第二部は26節から36節ま で。最後は38節から41節までです。私たちは、この区分に従って内容を概 観し、それが私たちに対して意味するところを考えてみたいと思います。

救いの歴史の中で

 最初の部分は「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々聞いてくださ い(16節)」という言葉で始まります。「イスラエルの人たち」というのは、 生まれながらのユダヤ人であるか、あるいは改宗し割礼を受けてユダヤ人とな った人々です。「神を畏れる方々」というのは、安息日を守っているけれど、 割礼を受けていない異邦人たちです。ここでパウロはその両方に呼びかけてい ます。

 そしてまず最初に、アブラハムから始まる神の民の歴史について語ります。 「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地 に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから 導き出してくださいました。(17節)」このように始めて、彼はイスラエル の歴史を滔々と語るのです。22節に至るまで、出エジプトの後のカナン定着、 師士の時代、王国の形成、ダビデの即位までが語られます。ここまでは、ユダ ヤ人であるならば誰でも知っていることです。

 しかし、これはそこにいた聴衆にとって大切なことなのでしょうか。特に、 ユダヤ人ならまだしも、異邦人である「神を畏れる人々」に意味があるのでし ょうか。さらに言うならば、この使徒言行録を読んだ人々の多くは異邦人キリ スト者でしょうから、ユダヤ人でない彼らに、パウロのこの説教は意味を持つ のでしょうか。そして、二千年近く後の、「異邦人キリスト者」である私たち に、これは何か意味を持つのでしょうか。

 しかし、私たちはここでよく考えて見なくてはなりません。パウロはダビデ まで語りますと、そこで一気に千年分の歴史を飛び越えてイエス様のことに言 及します。「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イ エスを送ってくださったのです。(23節)」パウロが最終的に伝えたかった のはこの方だからです。「救い主は来た。」「ナザレのイエスこそその救い主 である。」この二つのことを伝えたいわけです。しかし、パウロは救い主イエ ス・キリストの出来事を神の民の歴史の中に位置づけて語るのです。それを共 通認識として語っているのです。

 神を離れ、永遠の命を失った、罪と死の支配するこの世界の中に、神はアブ ラハムを祝福の源(創世記12・2)として召され、その子孫から、出エジプ トという決定的な出来事を通してイスラエルを形作られました。そこから始ま ったのは、神の民の歴史であり、神の救済の歴史であります。その大きな救い の歴史を導かれ、その救いの歴史の中において神はイエス・キリストを私たち に与えられたのだ、と彼は言っているのです。

 イエス・キリストも、その救いにおける教会も、私たちも、その大きな救い の御計画の内にあるのです。これは私たちにとって大切な認識なのです。とい うのも、私たちはともすると、救いの事柄を、私たち個人の短い一生に関わる 出来事くらいにしか考えないからです。信仰ということについても、私たちが 持ったり捨てたりできる「心の持ちよう」程度にしか考えないからです。そう ではないのです。私たちがこうして共に礼拝しているということは、私たちも またこの壮大な救いの歴史の中に加えられているということなのです。確実に 完成へと向かっているこの大きな神の民の歴史の中に加えられているというこ となのです。

 そこで、どのような意味で、私たちが加えられているのか、あるいは加えら れるのか、ということが大切なのでしょう。それが、この後に語られるのです。 キリストがいかなるお方であるか、ということが明らかにされるからであります。

十字架と復活

 パウロは、ダビデの子孫から神は救い主を送ってくださった、と語りました。 イエスこそその救い主であることを明らかにしました。さらに、24節以下で 洗礼者ヨハネに言及いたします。ヨハネの洗礼運動は小アジアにおいても知れ 渡っていたでしょうし、また運動そのものがこの地域に波及していたかも知れ ません。いずれにせよ、ヨハネのことは誰もが知っていた。そのヨハネが「わ たしの後から来られる」方について語っていたのだ、つまり真の救い主につい て証言していたのだ、とパウロは語るのです。

 しかし、このことは彼らが少しでもイエスという方について聞いていたなら ば、簡単には承伏できないことであったに違いありません。なぜ十字架につけ られて殺された者が救い主であるのか、という疑問が当然起こってくるからで す。どうしてメシアが殺されなくてはならないのか。しかも、木にかけられて、 神に呪われた者として死んだ。そんなメシアがあるものか。それは当然起こっ てくるつまずきであろうかと思います。

 しかし、パウロはまさにそのつまずきでしかないような出来事について語る のです。「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にい て神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。(26節) 」ヘブライ語でもギリシャ語でも、「言葉」という単語は同時に「出来事」を 意味します。救いの言葉とは、イエス・キリストの出来事です。つまずきでし かない十字架の出来事です。それを救いの言葉と呼ぶのです。

 パウロは、27節で、「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエス を認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪 に定めることによって、その言葉を実現させたのです」と言っています。ここ で大切なことは、その言葉(すなわち預言者の言葉)を実現させた、というこ とです。29節でもこう言っています。「こうして、イエスについて書かれて いることがすべて実現した後…」。人々は、メシアなら十字架にかけられて殺 されるはずはない、と考えているわけです。ところが、パウロは正反対のこと を言うのです。メシアだから殺されたのだ。預言者が語ったことが成就したの だ。パウロはそう語っているのです。

 ここには預言者の言葉は引用されていません。恐らく実際のパウロの説教に おいては、実現した預言の言葉が語られたことでしょう。私たちは、ここでイ ザヤ書53章に触れれば十分であろうかと思います。

 「わたしたちは羊の群れ
  道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
  そのわたしたちの罪をすべて
    主は彼に負わせられた。             (イザヤ53・6)」

 国家としてのイスラエルは、裁かれ、滅びました。バビロン捕囚の出来事は、 神の裁きに他なりませんでした。人間の罪はあまりにも深いゆえに、神は裁き をもって救いの歴史を終わりにしてしまったのでしょうか。いいえ、そうでは ありません。神はなお、神の民を生かし、この世界に命をもたらされるのです。 しかし、神は、どのようにして神の民を生かし、救いの歴史を進められたので しょうか。モーセの律法の遵守を再び求めることによってでしょうか。いいえ、 そうではなくて、罪を赦すことによってでありました。それがこの預言者の書 に記されているのです。そこにしか神の民に希望はないし、人間には希望がな いのです。神による一方的な罪の赦しの恵みによってしか、神との関係の回復 はあり得ないのです。神は一人の人に罪を背負わせることによって、人々の罪 を赦すことを定められました。この罪を背負う一人の人こそ、苦難のメシアに 他ならないのです。この預言がイエス・キリストにおいて実現したのです。

 そして、神は、この苦難のメシアによる贖いが完全であることを、メシアの 復活によって示されました。それは人の罪に対する神の勝利でもありました。 そして、パウロはその復活の証人について語り、また復活に関する聖書の証言 について語ります。その上で、最終的に、人々に呼びかけるのです。それが第 三の区分です。そして、ここにこそ、彼の説教の中心があるのです。

信じる者は皆、義とされる

 「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知 らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じ る者は皆、この方によって義とされるのです。(38‐39節)」

 ここで呼びかけは「兄弟たち」となっています。もはやユダヤ人と異邦人の 区別がなくなっています。そしてさらに「信じる者は皆、この方によって義と されるのです」と語られています。なぜ「信じる者は皆」なのでしょう。キリ ストによって罪は完全に負われ、罪の赦しが告げ知らされたからです。人が救 われるのは罪の赦しによるのであり、神の民は罪の赦しによって成り立つので あるならば、そこにはもはやモーセの律法によって規定されたユダヤ人である か異邦人であるかの区別は意味を持たないのです。そこで意味を持つのはなん であるか。キリストの贖いによる神の赦しを信じるか否かだけです。キリスト を救い主として信じて、神の民の歴史の中に身を置くか否なのです。異邦人で ある私たちがこうして神を礼拝する者とされている理由もそこにあります。私 たちが神の民の歴史の中にいるとするならば、それは純粋にただ神の赦しの恵 みによるのです。私たちは信じてその恵みに与っているだけです。

 ですから、この恵みの事実は、同時に鋭い警告の言葉をも生み出します。パ ウロは続けてハバクク書1章5節を引用して次のように言うのです。

 「それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさ い。『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの 事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。 』(41節)」

 太陽が照っていても、光を拒んで雨戸を締め切ったらそこには闇しかありま せん。自らを正しい者として神の赦しの恵みを侮り、退けるならば、そこには もはや赦しはありません。自らを滅びに定めることになってしまうのです。そ のようなことが起こらないように、警戒せよ、とパウロは言うのです。

 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とは、パウロ とバルナバに着いてきました。二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続 けるように勧めました。そう言えば、バルナバがアンティオキア教会に遣わさ れて来た時も、彼が人々に勧めたのは、「固い決意をもって主から離れること のないように」ということでした。(11・23)神の恵みによって義とされ、 神の赦しの恵みによって神の民に加えられたのならば、大切なことは、神の恵 みの下に生き続けることです。一時的な大きな経験や感動よりも、大切なこと は終わりの日に至るまでの継続です。キリストから離れないことです。

 
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