「偶像と生ける神」
1997年2月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録14・8‐28
パウロとバルナバの伝道旅行は続きます。彼らはイコニオンからリストラに 移動しました。今日お読みしました箇所には、まずリストラにおける出来事が 記されております。
救われた人
今日お読みしたところには、パウロの言葉を聞いていた一人の男について記 されております。彼は、「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなか った」人でありました。パウロはその男に目を留めます。そして、彼に向かっ て「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言いました。すると、この人は躍り 上がって歩きだした。それがここに書かれている最初の出来事です。
私たちは、ここに起こっていることを正確に理解しなくてはなりません。9 節には「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め 」と書かれております。「いやされるにふさわしい信仰」という言葉には注意 が必要です。ここを間違って一般化すると、身近な人についても、「あの人は 信仰があったから病気が癒されたのだ。この人は信仰が無かったから癒されな かったのだ」ということにもなりかねません。実は、ここで「いやされる」と 訳されている言葉は単に肉体の癒しを表現する言葉ではないのです。むしろ 「救い」と訳され得る広い意味の言葉なのです。だから直訳するならば、「救 われ得る信仰」となるのです。つまり、ここで起こっているのは、単なる肉体 の癒しではないのです。それ以上のことなのです。
パウロは彼に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言いました。奇跡的な 癒しが起こったにせよ、「立ちなさい」と言われて、人が単純に「躍り上がっ て歩き出す」ということはあり得ないだろうと思います。それは少々想像力を 働かせれば分かります。彼は今まで歩いたことがないのです。立ったこともな いのです。生まれながらに足が悪いのですから。今まで立って歩くことなど考 えたこともなかった彼であるに違いありません。諦めの中に生きていた彼だっ たろうと思うのです。ですから、彼が「躍り上がって歩き出した」のは、単に 彼の足が癒されたからではないのです。そうではなくて、「立ちなさい」とい うパウロの言葉の中に、神の語りかけを聞いたからなのです。
ここに書かれている通り、彼はパウロが福音を語るのを聞いていた人でした。 それは、パウロが語っていた福音を通して、生ける神が彼をも愛していてくだ さることを知った人だということです。彼は、神が彼の方に目を向けていて下 さることを知ったのです。だから彼も神に向こうとした。それが信仰の芽生え でした。その上で彼は「立ちなさい」という言葉を耳にしたのです。それは彼 にとって、もはやパウロの言葉ではありませんでした。彼は、他ならぬ彼の方 に向いている神を知り、神の語りかけを聞いたのです。「神が私に語りかけて いてくださる!神が私の立ち上がることを求めているのだ!」そのような思い をもって、神の求めに対して、彼は全人格的に応答した。それがここに起こっ ている出来事なのです。つまり、彼は神との関係において生きる者とされたの です。それは肉体の癒し以上のことでした。そこにこそ彼の救いがあったので す。
彼に起こったことを単なる肉体の癒しとしてではなく、彼の全存在の救いで あると理解することは重要です。肉体の癒しはこの世に属する事柄です。神が 彼に語られ、彼が神の言葉に応答するという、この生ける神との関係は、来る べき世にまで連なる彼の全存在の救いです。このことを最初にしっかりと捉え ておかなくてはなりません。なぜなら、真の救いをもたらす生ける神との関係 と、真の救いをもたらさない偶像礼拝との違いが、この後の展開において問題 になるからであります。
偶像と生ける神
この出来事の結果、人々は騒ぎ始めました。その地方の方言で、「神々が人 間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と叫ぶのです。そし て、バルナバを「ゼウス」と呼び、パウロを「ヘルメス」と呼んだのでした。 ゼウスというのはギリシャ神話における最高神であり、ヘルメスはその息子で す。その容貌と貫禄からか、バルナバがゼウスとされたのでしょう。そして、 人々は、神々に犠牲を捧げるように、牛数頭と花輪を運んできたのでした。パ ウロとバルナバは恐らく当初何が起こっているのか、分からなかったに違いあ りません。彼らはリカオニアの方言は理解できないのですから。ですから、誰 かがこの出来事の意味するところを彼らに説明したのです。パウロとバルナバ はこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中に飛び込んでいきました。そして彼 らに向かって叫んだのです。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わ たしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような 偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせて いるのです。(15節)」
ここで興味深いことは、福音を告げ知らせている目的が、特に、「このよう な偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように」と書かれている点であります。 つまり、異邦人世界における宣教が何を意味するか。その一断面が明確に語ら れているわけです。そして、もちろん、このことは「異邦人」である私たちに とっても無関係なことではありません。
ここで「偶像」と訳されているのは意訳です。もともとは「虚しいもの」と いう言葉です。協会訳では「愚にもつかぬもの」と訳されています。これらの 言葉は旧約聖書の背景においては偶像を意味するのです。しかし、ここで偶像 とされているのは、パウロとバルナバであります。ですから、ここでパウロが 「偶像を離れて」と言っているのは、単にゼウスの像などのことではないので す。単に像を造ったり、像を拝んだりすることの問題ではないのです。では何 が問題なのでしょうか。この「偶像」に対比されているのは「生ける神」であ ります。その「生ける神に立ち帰る」べきことが語られているのです。偶像礼 拝と、生ける神に立ち帰ることは、いったいどこが異なるのでしょうか。
パウロが「偶像」と呼ぶものについて考える時に、私たちはこの物語がどの ように展開しているかということを無視することはできません。この日、パウ ロとバルナバとを神々として祭り上げ、犠牲を捧げて礼拝しようとしたこの町 の「群衆」に関して、非常に奇妙なことが19節以下に記されているのです。
「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、 群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の 外へ引きずり出した。(14・19)」
これはいったい何なのでしょう。あれほどパウロとバルナバを崇め祭ってい た人々が、ここでは非公式な石打の刑の執行に荷担しているのです。ユダヤ人 たちがどのようにして群衆を抱き込んだのかは分かりません。パウロたちの存 在による不利益があることを吹き込んだのでしょうか。いずれにせよ、パウロ とバルナバの存在は、彼らにとって都合が悪くなったのです。そして、都合が 悪くなったとき、パウロとバルナバとはもはや彼らにとって神ではなくなった わけです。それは当然です。もともと神ではないのですから。もともと神では ないものを神としているから、都合によって神となったり神でなくなったりす るのです。礼拝の対象であったり、礼拝の対象ではなくなったりする。人間が それを信じることもできるし、捨てることもできる。そのようなものを「偶像 」と言うのです。要するに、人間が主人公であり、神が主人公によってどうに でもなる脇役でしかないならば、そこで「神」と呼ばれているものは、もとも と神でも何でもないのです。それを「偶像」と言うのです。
異教世界の人々はともかく、キリスト者は偶像礼拝などしない――。さて、 本当でしょうか。もしキリスト者が、「わたしがキリスト教を選んで信じたの だ。だから信じることも捨てることも自由なのだ」と思っているならば、リス トラの人々とどこが違うのでしょう。そのようなキリスト者が拝んでいるのは 偶像でしかないでしょう。もし、「神を礼拝することも礼拝しないことも私の 自由なのだ」と思っているキリスト者がいるならば、リストラの人々とどこが 違うのでしょう。少しも違わないではないですか。その人はやはり偶像礼拝者 に他ならないわけです。ですから、これは教会とは無関係な他人事ではないの です。
偶像ならぬ神は、「生ける神」であります。その「生ける神に立ち帰るよう に」とパウロは言うのです。さて、「生ける神」とはどのような方でしょうか。 「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方 です」とパウロは言います。その造られたものの中に当然私たちもいるわけで す。神が創造者であって、私たちは被造物です。しかし、「生ける神」が意味 するのは、単に創造者であるということではありません。その次に、こう書か れています。「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行 くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられ たわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を 与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです (17節)」。
生ける神は、被造物である人間に関わり給うお方です。御自身を、その恵み の行為によって証しし給うお方です。そして、当然、このパウロの話には続き があります。今や、生ける神はイエス・キリストを通して決定的に関わり給う た、ということです。神は決定的に語りかけられたのだ、ということです。神 が語られたということは、私たちとの関係と交わりを求められた、ということ です。さらに言うならば、私たち自身を求め給うたということです。私たちと の交わりが成り立つように、この生ける神は独り子さえも犠牲にされたのです。 その上で、罪の赦しを宣言され、立ち帰るようにと招いておられる。それが 「生ける神」なるお方です。そして、先にも申しましたように、この「生ける 神」なるお方との関係に生きることにこそ、まことの救いがあるのです。
信仰に踏みとどまるように
さて、パウロとバルナバは、リストラからデルベに移ります。そこでも福音 を告げ知らせました。そして、なんと、彼らは再びリストラ、イコニオン、ア ンティオキアに引き返します。石で打たれたり、命を狙われたりしたところへ と戻っていくのです。何のためでしょうか。生まれたばかりの若い教会を励ま すためです。彼らは言うのです。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦 しみを経なくてはならない。」そうして、信仰に踏みとどまるように励ました のでした。
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と いう言葉が語られ、聞かれている。それは、言い換えるならば、「多くの苦し みを経たとしても、神の国に入りたい」という願いが共通にあるということを 意味します。これは、「生きている間は苦しいことがあっても死んだら極楽に 生きたい」というのとは違います。「神の国」とは「神の支配」を意味します。 つまり、神様の御支配が完成した世界です。それは、この世において始まった 神との交わりが完成した世界でもあります。私たちが罪と死の力から完全に解 放され、本当の意味で神と共に生きる世界です。苦難を経たとしても、そのよ うな神との交わりに至りたい。それが、ここで語られている願いであり、希望 なのです。
そして、当然のことながら、神のみが支配する世界を求めるということは、 偶像礼拝からは生まれてきません。なぜだかお分かりになりますでしょう。こ の世で人間中心に生きるならば、人間中心の世界しか求めないのです。せいぜ い人間の欲望が満たされる「極楽」を求めて死んでいくのが関の山なのです。 この世で神を正しく礼拝し、生ける神との生きた交わりを求めているならば、 そこから必然的に生まれてくるのは神の国への希望であるはずです。どんなに 熱心な信仰者であっても終末における希望をもっていなかったら、どこかゆが んでいます。
逆に、信仰者が神の国を願い、神の国の希望に生きているならば、多少人格 的な欠陥や問題があったとしても信仰者としては正しい方向に向かっていると 見てよいでしょう。そして、人が神の国を求めるならば、そこに至るために必 要なことは、ただ一つなのです。「信仰に踏みとどまる」ということです。苦 しみを経なくてはならないかも知れない。しかし、信仰に踏みとどまるのです。 同じことは使徒言行録で様々な表現をもって言い表されています。「(バルナ バは)固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。(1 1・23)」「(二人は)神の恵みの下に生き続けるように勧めた(13・4 3)」これらは決して観念的なことではありません。具体的には、「神が御子 の血によって御自分のものとなさった神の教会(20・28)」から離れない ということです。共に聖餐に与り、神を礼拝する交わりから離れないというこ とであります。
彼らはピシディア州を通り、パンフィリア州い至り、ペルゲで御言葉を語っ た後、アタリアからアンティオキアに向かって船出しました。こうして、第一 回目の宣教旅行は終わったのでした。彼らがアンティオキアに到着すると、す ぐに教会の人を集めます。そこで、「神が自分たちと共にいて行われたすべて のこと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」と書かれてい ます。すべてはパウロとバルナバの業ではなく、神が彼らを通してなされたこ とでした。生ける神は彼らを通して、人々をみもとへと招き給うたのです。そ して、同じ生ける神は、今も私たちを信仰へと招き、信仰に踏みとどまるよう にと語っていてくださるのであります。