「励ましに満ちた決定」
1997年3月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒15・22‐35
先週、私たちは15章前半をお読みしました。そこには、エルサレムにおい て持たれた最初の教会会議について記されておりました。その箇所を少し振り 返ってから、本日お読みしました15章後半に入っていきたいと思います。
エルサレム会議の様子を振り返って
そもそもの発端は、エルサレムからアンティオキアの教会に来た「ある人々 」が、異邦人キリスト者に対して「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、 あなたがたは救われない」と教えたところにありました。そこで、パウロやバ ルナバたちと彼らとの間に議論が起こったのです。この問題を解決するために、 パウロとバルナバ、その他数名の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たち と協議がなされました。これがエルサレム会議です。
この議論は、割礼やモーセの律法そのものが私たちには身近でないために縁 遠いものに思われるかもしれません。しかし、その中心は救いの根拠に関する ことです。要するに、私たちが神によって受け入れられるとするならば、その 根拠は人間の側にあるのか、そうでないのか、ということであります。ファリ サイ派から信者になった人々は、恐らく皆生まれて間もなく割礼を受けた人々 です。そして幼い頃から律法を守って生きてきたのです。彼らは、要するに、 そのような自分たちであるからこそ、神によって受け入れられたのだ、と考え ておりました。だから、そのようなプロセスを経ることなくして、異邦人が救 われるという考えには断固として反対したのです。そこで議論になったのです。
この会議の方向にとって決定的となったのはペトロの発言でした。ペトロは、 コルネリウスの家において起こった出来事を語り、そして次のように締めくく ったのです。「わたしたちは主イエスの恵みによって救われると信じているの ですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。(15・11)」すると全会衆 は静かになりました。ペトロが何を意味しているかが分かったからです。つま り、私たちが神に受け入れられるとするならば、その根拠はこちら側にはない、 ということです。ただひとえに「主イエスの恵み」によるのだ、ということで す。主が十字架にかかられ、罪の贖いをなしてくださった。そのことにより、 罪の赦しが与えられた。その恵み以外に、救いの根拠は無いということです。 そこにいた人々は皆、ユダヤ主義者たちも含め、十字架を仰いで、罪を赦され て、教会に加えられたのです。そのことは認めざるを得なかった。自らの行い を誇り、そこに救いの根拠を見出そうとする者は、自らが赦されて神に受け入 れられたことを忘れている人です。ペトロの論述によって、そのことが明らか になったのでした。
そして、最終的に、ヤコブが具体的な提案をいたします。「それでわたしは こう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に 備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるよ うにと、手紙を書くべきです。(15・19‐20)」この提案は皆に受け入 れられるところとなりました。そして具体的に既に設立されている各地の異邦 人教会に手紙を書き送る運びとなったのです。書かれた手紙の文面が、本日お 読みしました23節から29節にかけて記されております。全体としてはヤコ ブの提案どおりになっていることが分かります。使徒たちと長老たちは会議を 召集し、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオ キアに派遣することを決定しました。彼らにその手紙を託すためでした。
避けるべき事柄の意味
さて、そのように書き送られて、当面のところは一件落着となったのですが、 どうもすっきりしません。そもそも、このヤコブの提案は何を意味するのでし ょう。これは、ペトロの言った「わたしたちは、主イエスの恵みによって救わ れると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」という言葉 と調和するのでしょうか。
「みだらな行い」を避けるように。これは分かります。「みだらな行い」と いうのは、一般的には結婚関係以外の性的な関係を意味する言葉です。異邦人 キリスト者がもともといた異教的世界にありふれていた性的不道徳一般、ある いは異教的祭儀と結びついていた神殿娼婦などとの関係、それらを避けるよう にとの言葉は、当然の勧めであると理解できます。また、キリスト者として、 「偶像に備えて汚れた肉(直訳すると「偶像の汚れ」)」を避けるようにとの 勧めも分かるような気がいたします。
しかし、その後の、「絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」とは何 なのでしょう。これはユダヤ式の屠殺法によらない、血が残っている肉を食べ るなということのようです。「血を避ける」という言葉も、レビ記17章11 節に書かれている「血を食べるな」という規定に関する勧めのようです。そう しますと、これはやはりユダヤ人たちが守ってきた律法に関することです。な ぜ、救いは律法を守ることによるのではない、という議論の後に、このような 勧めが出てくるのでしょう。しかも、先に挙げた「みだらな行い」という事も、 性的不道徳一般というよりは、レビ記18章において禁じられている血族結婚 のことであると理解する学者も多いのです。そうしますと、ますますここに挙 げられている項目は、モーセの律法を守ることに関係していることになります。 なぜ、使徒たちと長老たちは「人が救われるのは、割礼を受け、モーセの律法 を守ることによるのではない」と結論しながらも、なお異邦人キリスト者にモ ーセの律法の中のいくつかを守るようにと要求しなくてはならないのでしょうか。
そこで理解の鍵となるのは15章21節です。最後の一文に注意してくださ い。ヤコブは、「これらのことを守らなければ、異邦人キリスト者は救われな いからである」とは言っていないのです。そうではなくて、「モーセの律法は、 昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているか らです」と言うのです。つまり、どこの町にも、小さい時から安息日ごとにモ ーセの律法を聞いて育っているユダヤ人がいるということです。律法によって 生きてきた人たちがいるということです。これは、ローマ帝国における異邦人 の町々において伝道するとしても、そこに設立された教会に異邦人だけがいる とは限らないということを意味します。新しく生まれた信仰者の共同体には異 邦人もいれば、今まで律法によって生きてきたユダヤ人キリスト者もいるとい うことです。
そこで、問題となるのは、「どうしたら神に受け入れられるか、どうしたら 救われるか」という問題ではないのです。どのようにしてこの異なる背景を持 つ人々が共に生きる教会を形作ることができるか、ということであります。例 えば、教会には共同の食事があります。古代の教会においては「愛餐(アガペ ー)」と呼ばれ、重要な位置を占めていました。しかし、もしそこに血抜きを していない肉が異邦人の習慣に従って出されたらどうでしょう。ユダヤ人は一 緒に食事をすることが出来ません。それは、二種類の食事を作ったらよいだろ う、という問題ではないのです。それだけで両者の間に壁が出来てしまうので す。あるいは、異邦人たちが偶像に捧げられて、その後に市場に出た肉を食べ ていたとしたら、その中にユダヤ人は加わることができるでしょうか。絶対に 出来ないのです。「それはユダヤ人の偏狭さの問題ではないか。彼らが改める べきだ」と言うこともできるでしょう。しかし、そう言ってはならない、とい うことなのです。そうではなくて、「教会において共に生きるために、愛に基 づく配慮をもってこれだけは避けてほしい」というのがここに書かれている勧 めの真意なのであります。
その兄弟のためにもキリストは死なれた
以上に述べたようなこの通達の性格は、後の教会とパウロとのあり方を見る とよく分かります。例えば、この後の第二回目の伝道旅行によって生まれたコ リントの教会には、具体的に「偶像に備えられた肉」の問題が生じたことが知 られております。パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中で、その問題に関 して答えております。コリントの信徒への手紙(一)8章に記されているのが その答えです。どうぞ、8章1節以下をご覧下さい。コリントの教会に起きて いた問題は、単に一緒に食事が出来るかどうかということではありません。よ り深刻な問題であります。しかし、パウロは、使徒言行録15章に記されてい る通達には全く触れてはおりません。なぜでしょうか。
もし使徒たちからの通達に記された「避けるべきことがら」が、救われるた めに守らねばならない律法であるならば、「あの時の使徒会議において定めら れたではないか。これらを避けるようにと書かれたではないか」ということで 解決しただろうと思います。それを守らねばもはや共同体には加われないこと になるからです。しかし、パウロはコリントの信徒への手紙で、使徒会議から の通達には一言も触れてはいないのです。つまり、これらは救われるために必 要な律法ではないということなのです。
当時のギリシャ・ローマ世界においては異教的祭儀と社会習慣が密接に結び ついておりました。それは日本においてもしばしば見られることであって、私 たちにはそれほど珍しいことではありません。そのような習慣の一つが「偶像 に備えられた肉」に関する事柄だったのです。それは異教の神殿において捧げ られ、そこから払い下げられて市場で売りに出された肉のことです。これらの 肉を食べて良いものかどうか。コリントの教会のある人たちは、食べて良いの だ、と主張しました。彼らは自らを「霊の人」と呼び、救いをもたらす特別な 「知識」を持っていると主張した人々です。彼らはその「知識」によって、完 全な自由を得ていると誇っていたのです。自由に関してはパウロの福音宣教の 内容と変わりません。パウロも同じように、8章8節において、「わたしたち を神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを 失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」と 語ります。食べるか食べないかは救いに関わることではないのです。
しかし、パウロはその後に続けてこう記すのです。「ただ、あなたがたのこ の自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席についているのを、だれかが 見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に備えられたものを 食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人 が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。 (9‐11節)」ここは少々分かりにくい言葉ではありますが、簡単に言うと こういうことです。信仰の知識によって自由を主張する人が自由に振る舞う。 すると、信仰的に弱い人が真似をするわけです。するとどうなるか。偽りの生 活に陥り、罪を犯し、さらにはキリストから離れ、神の恵みから離れ、滅びに 向かってしまうことになるかも知れないのです。そのようなことがあってはな らないのです。なぜなら「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」 からです。ですから、パウロは次のように書き記すのです。「それだから、食 物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないた めに、わたしは今後決して肉を口にしません。(8・13)」
励ましに満ちた決定として
コリントの教会が直面している状況と、シリアやキリキアの教会の状況とは もちろん違います。しかし、使徒通達において勧められていることと、パウロ がコリントの信徒へ書いていることは基本において一つです。繰り返しますが、 そこで問題になっているのは、神によって受け入れられ、救われるためには 「何を避けなくてはならないのか」ということではないのです。そうではなく て、キリストの恵みによって赦され、救われ、キリストの教会に加えられた者 として共に生きるためにはどうしたらよいのか、ということなのです。
お互い違う背景があるかもしれない。同じ事柄についてもその良心の判断す るところは異なるかもしれない。強い人、弱い人があるかもしれない。しかし、 私のためにキリストは死んでくださった。あの人のためにもキリストは死んで くださったのです。その事実よって教会は存在するのです。ならば、そこで求 められるのは救われるための律法遵守ではなくて、キリストが命を捨てられた その兄弟に対する愛ゆえの配慮なのです。そして、それは時として、当然の自 由、当然の権利を放棄することを意味するのです。アンティオキアの異邦人に とっては、具体的に、今まで食べていた神殿からの払い下げの肉を食べないこ とであったり、血を含んだ肉を食べないことであったのです。「なぜ私たちが そのようなことを守らなくてはならないか。」文句を言うことも可能です。し かし、彼らは文句を言わなかったのです。むしろ、「励ましに満ちた決定を知 って喜んだ(31節)」と書かれております。「これを守らないと救われない 」という言葉としてでなく、積極的に神に受け入れられた者の共同体を作って いくことを励ます言葉として、彼らはこの通達を受け止めたのであります。
さて、私たちはどうでしょうか。肉の事柄やユダヤ教的習慣がもはや問題と はならない私たちは、この箇所に書かれている勧めをどう受け止めたらよいの でしょうか。私たちは、「キリスト者であるから、これはしてはならない、あ れはしてはならない」という生き方からは解放されるべきでしょう。しかし、 同時に、「キリストが私のために死んでくださった」ということのゆえに為す べきこと、避けるべきことがあるはずです。また「キリストが彼のためにも死 んでくださった」ということのゆえに為すべきこと、避けるべきことがあるは ずです。それは時としては、古代の異邦人キリスト者のように、当然主張する ことができる自由を自ら放棄することであるかも知れません。私たちそれぞれ にとって、愛における配慮とは何を意味するのか。主の御前に自らのありかた を省みたいと思います。