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「獄中からの賛美」

1997年3月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録16・11‐40

 獄中から賛美の歌声が聞こえてきます。パウロとシラスが暗闇の中で讃美を 歌い、祈っているのです。他の囚人たちが聞き入っています。それはただなら ぬ光景です。いったい何が起こっているのでしょうか。「獄中からの賛美」と いう題がつけられていますように、本日の説教の中心はフィリピの獄中におけ る出来事です。しかし、彼らの姿とそこに起こった出来事に目を向ける前に、 そもそもなぜ彼らがフィリピの牢獄にいるのか、ということを確認しておかな くてはなりません。

神の導きに従って来たのに

 先週お読みした箇所を思い起こしてください。もともとパウロとシラスには、 海を渡ってヨーロッパへ向かう予定などありませんでした。彼らはまずアジア 州、恐らくエフェソで伝道しようと思っていたのです。しかし、その計画は神 によって止められました。「聖霊から禁じられた」と書かれています。そこで 彼らは北に方向を変えました。ベティニア州に向かったのです。しかし、そこ でも神様によってストップを掛けられました。「イエスの霊がそれを許さなか った」というのです。結局、彼らは導きを求めながら、トロアスに下りました。 そして、そこで幻を通して、神様の導きを得たのです。それがフィリピ行きの きっかけでありました。ですから、これは人から出たことではなくて、神から 出たことだったのです。

 彼らが行き着いたフィリピは「ローマの植民都市(12節)」でありました。 退役軍人が多く入植している、さながら小さなローマとも言うべき町であった ようです。そこでの働きは小さなところから始まりました。フィリピにはユダ ヤ人の会堂はありませんでした。ただ川べりに祈りの場所があるだけです。こ れはユダヤ人の男性が少なかったことを意味します。パウロたちは川べりの祈 りの場所に赴き、そこで婦人たちに福音を語りました。そして、神様は小さな ところからも、御業を始めてくださいます。紫布を商う人で、神をあがめるリ ディアという婦人がそこにおりました。主によって心を開かれた彼女は注意深 く話しを聞いています。御言葉を聞く彼女の内に信仰が宿りました。その結果、 彼女とその家族がフィリピで最初のキリスト者となったのです。彼女はパウロ たちを家に招待しました。40節を見ますと、彼女の家が、フィリピにおける 伝道の拠点となったようです。小さな始まりではありましたが、順調であった と言えるでしょう。

 しかし、すぐに困難が生じました。占いの霊に取りつかれている女奴隷が後 について来るようになったのです。彼女はこう叫ぶのでした。「この人たちは、 いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」そして、幾 日もこのようなことが続いたのでした。「地元の占い師までがキリストを証し をしてくれるのだから有り難い」などとは言ってはいられません。彼女が「い と高き神」について語るとき、そこに意味されているのは天地の造り主なる唯 一の神ではないからです。さながら、神々の内の最も位の高い神霊というとこ ろでしょうか。大川隆法がエル・カンターレについて語るのと同じような話で す。キリストの福音は悪霊の証しを必要としません。また、様々なオカルト的 なことに取り込まれてはならないのです。パウロはそのようなことに断固反対 したのです。

 パウロは占いの霊をイエス・キリストの御名によって追い出し、彼女を解放 しました。それはそれで問題は解決したように見えたのです。しかし、事は簡 単に片づきませんでした。彼女は女奴隷であって主人たちに使われていたから です。もはや占いが出来なくなった彼女は、利益をもたらすことができません。 主人たちは不利益をもたらしたパウロとシラスを捕らえて高官たちに訴えまし た。しかも、あらぬ罪状をでっちあげます。彼らは言いました。「この者たち はユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であ るわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝して おります。」この訴えは、フィリピにいた多くのローマ人たちのプライドを刺 激しました。そして、同時に、彼らの内にあったであろう反ユダヤ感情を煽り 立てたのです。直接利害とは関係しないはずの「群衆も一緒になって二人を責 め立てた」のでした。結果として、彼らは故無き誤解のもとで暴力的に裸にさ れ、鞭で打たれ、投獄されてしまいました。

 我が身をそこに置いて考えて見て下さい。神の御心と信じてわざわざ海を渡 ってフィリピまで来たのです。そこで伝道の実りが見え始めたのも束の間、一 人の女性を解放した良き事がかえって反感を買いました。いわれのない誤解に 巻き込まれて痛い目に遭い、あげくの果てに牢獄にいるのです。これが、神に 従った者たちの成れの果てというならば、これほど悲惨なことはないでしょう。 なぜこんな目に遭わなくてはならないのか、と神に対しても人に対しても叫び たくなるような状況に彼らはいるのです。

獄中からの讃美

 しかし、彼らは真夜中の獄中で賛美をしていたのです。彼らは眠れない夜を 過ごしておりました。むち打たれた傷が疼きます。足枷は足を開いたままに固 定する拷問に用いるものであろうと言われます。これからどうなるかも定かで はありません。しかし、その壁に囲まれた闇の中で、彼らは神を賛美していた のです。

 彼らは必死に弁明し、自らの潔白を証明して、この事態を解決しようとはし ませんでした。また、後に見るように、パウロとシラスはローマの市民権を持 っているのですが、この世の力を頼りとして、解放の道を開こうとはしません でした。彼らはひたすら、神を見上げ、賛美の歌を歌って祈っていたのです。 なぜでしょうか。今の姿が神を信じた者の成れの果てであるとは、彼らは決し て思わなかったからです。現在の惨めな状態が、全ての結論ではないことを知 っていたからです。自分たちは途上にあることを知っていたからです。

 途上にあるならば、神御自身が駒を進められるのです。そこから新しく何か を始めてくださるのです。現在の状態が神のご計画の実現するプロセスに過ぎ ないことを知る人はなんと幸いなことでしょう。神の次なるステップを期待す ることの出来る人はなんと幸いなことでしょうか。私たちはここに実に幸いな 信仰者の姿を見るのです。そして、そのような神への期待と信頼のあるところ、 神は必ず御自身を現し給うのです。四方を壁に囲まれた獄屋の中であろうとど こであろうと、神は介入し給うのです。

 ここで何が起こっているでしょう。26節を御覧ください。「突然、大地震 が起こり、牢の土台が揺れ動いた」と書かれています。「突然」という言葉は、 神の介入が人間の予期や予想を越えていることを意味します。人間のタイムテ ーブルに従って、神様は行動されません。神様には神様の時があるのです。そ して、その神様の御業は予期しない方向から来たのでした。人は閉じこめられ たら扉の方を見るものです。私たちも、苦しみと悩みの牢獄のような現実の中 に置かれるならば、扉の方ばかりを見ていることでしょう。しかし、彼らは扉 を見ていたのではなくて、神に心を向けていたのです。そして、神の介入は扉 の方からは来なかったのです。下から来たのです。土台の方から来たのです。 もともと扉の方を見ていなかった彼らですから、「牢の戸が開いた」こと自体 には関心がありませんでした。ですからパウロとシラスは牢に留まったのです。 そして、神が次に何をなそうとしているかに思いを向けていたのでした。

救われるためにはどうすべきか

 パウロとシラスが地震の後に見たのは、自殺しようとしている一人の男であ りました。牢の看守は囚人たちを逃がしてしまった責任を遅かれ早かれ取らざ るを得ないことを知っていました。それゆえ自らの命を断とうとしたのです。 その時、パウロが大声で叫びました。「自害してはいけない。わたしたちは皆 ここにいる。」看守は、牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながら ひれ伏し、二人を外へ連れ出してこう言いました。「先生方、救われるために はどうすべきでしょうか。」

 なぜ、彼の口からこの言葉が出てきたのかを、私たちはよく考える必要があ ります。つい今し方まで死を決意していた男は何を見たのでしょう。彼の前に 立っているのは、むち打たれて傷だらけになっている、無力な二人の男であり ました。しかし、無力ではあるけれど、神と共にあり、神への信頼に生きる人 の姿でありました。獄中にて神と共にあったパウロとシラスとを前にして、こ の看守もまた自らが神の御前にあることを悟ったのだと思います。それゆえ、 「囚人は逃げなかった。ああ助かった。死ななくて済んだ」で終わらなかった のです。

 聖なる神の御前にある自分が認識される時、「ああ助かった」などという言 葉が吹き飛んでしまうような大きな問いの前に、人は立たされることになりま す。それは、「私は神に受け入れられるのか。それとも退けられ、裁かれ、滅 びるのか」という問いであります。だから、看守の口から出た言葉は「ああ助 かった」でも「ありがとう」でもなかったのです。「救われるためにはどうす べきでしょうか」という求道の言葉だったのです。

 看守がいる場所と、私たちのいる場所は全く違います。彼らは獄屋におりま すし、私たちは礼拝の場におります。しかし、起こっていることは、本質的に は変わらないことにお気づきでしょうか。私たちが、こうして共に礼拝してい る時、決定的に重要なことは、「神の御前にいる人々と共に、この私もいるの だ」ということであります。それは、あえて言うならば、ここにいる少数の人 々だけでなく、神の御前において礼拝していたパウロやシラスと同じ場所に共 にいるということなのです。すなわち、神の御前にいるのです。そこでやはり 大きな問題は、私たちは神に受け入れられるのか否か、ということなのです。

 この看守は、彼の今まで生きてきた人生を携えて、聖なるお方の御前に立っ ています。私たちがこうして礼拝する時、私たち自身も、私たちの生きてきた 人生を引きさげて神の御前にいるのです。私たちが一生を終わる時も、私たち は私たちの一生を引きさげたまま神の御前に立つのです。私たちは神に受け入 れられるのでしょうか。「救われるためにはどうすべきでしょうか。」

 二人は答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救 われます。」最終的に私たちが神の御前に立つとき、私たちには自分自身につ いても、家族についても何一つ為し得ることはありません。共に主イエスの十 字架を仰ぎ、その贖いによる罪の赦しを信じ、神に受け入れていただくしかあ りません。そういう意味では、週毎の礼拝も終末的な出来事であると言えます。 私たちは、ここにおいても自らの救いのためにも、他者の救いのためにも、何 も為し得ることはありません。ただ、主イエスを信じる者として、十字架を仰 ぎつつ神の御前に立ち、神に受け入れていただくしかないのです。

 パウロは看守とその家の人たち全員に福音を語りました。彼らは信じて洗礼 を受けました。そして、「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ (34節)」と書かれています。「神を信じる」とは、「神の存在を信じる」 ということではありません。神に赦された者として、神に受け入れられた者と して、神に信頼して生きることです。彼らは、獄中にて賛美を歌い続けたあの パウロとシラスのように神に信頼して生きる新しい生活が始まったことを、家 族共々大いに喜んだのであります。

 朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」 と言わせました。もとより、正式な裁判がなされたわけではありませんし、鞭 打ちと投獄の後に追放したら良いと思っていたのでしょう。しかし、ここでパ ウロは自らがローマの市民権を持つ者であることを明らかにいたします。そし て、高官自らが連れ出しに来るべきであると主張するのです。その後の出来事 は痛快です。「下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二 人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来てわびを言 い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。牢を出た二人は、 リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。(38 ‐40節)」彼らがローマ市民であることを明らかにしたのは、自分自身の名 誉の回復というよりも、後に残される生まれて間もない教会のためであったと 思われます。

 しかし、それにしても彼らはなんと遠回りをしたことでしょう。本来ならむ ち打たれる前にローマの市民権に言及し、22節から一足飛びに38節まで進 んでも良かったはずなのです。もちろん、暴徒と課した群衆による争乱の中に あっては、何を主張しても通らなかったのかも知れません。何らかの事情もあ ったのでしょう。しかし、いずれにせよ、本来なら不必要であるように見える 苦難の遠回りを経て、牢獄の看守とその家族が救われたのです。こうして、フ ィリピの教会の礎石が築かれたのでした。神の御業は、このように人の思いを 越えたところで確実に進められているのであります。

 
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