「キリストの苦難」
1997年3月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1ペトロ2・18‐25
旧約聖書の箴言26章13節に次のような言葉があります。「怠け者は言う、 『道に獅子が、広場に雄獅子が』と。」思わず苦笑してしまうような言葉です。 要するに、怠け者は自分の怠惰に関してどうにでも言い訳をするものだ、とい うことです。さらに言うならば、怠惰に限らず人間は自分の行為を如何様にも 正当化するものだ、という意味でもあろうかと思います。例えば、今日の聖書 箇所にも関係しますが、不当な苦しみを受けている人の場合はどうでしょう。 そのような境遇が、自らの罪の行為を正当化するために用いられることもあり 得るでしょう。「私が少々の誤魔化しをすることぐらい許されるはずだ。私だ って人に騙されてこんなに酷い目に遭ってきたのだから。」「少しぐらいサボ ったって許されるはずだ。私は不当に酷使されているのだから。」「私があの 人を憎んで苦しめたとしても当然ではないか。私はあの人に随分苦しめられて きたのだから」などなど。案外私たちは色々な場面において「道に獅子が、広 場に雄獅子が」と言っているのではないでしょうか。
不当な苦しみを受けるている人々
今日の聖書箇所をご覧下さい。ここにおいてペトロが語りかけているのは 「召し使いたち」です。「召し使いたち」というのは、一般家庭の下働きをし ている奴隷たちです。当時のギリシャ・ローマ世界には六千万人もの奴隷がい たと言われます。当然のことながら、教会にもそのような境遇に生きてきた人 が多かったと思われます。そして、奴隷はいつでも良い主人に恵まれ、幸福に 暮らしているとは限りません。むしろ、そのような例は希でしょう。今日の箇 所にも「無慈悲な主人」という言葉が出てまいります。別の訳では「気難しい 主人」となっています。そのような主人のもとにいる奴隷は大変です。多くの 場合、「召し使いたち」はそのような主人のもとにあって不当な扱いを受け、 理不尽な苦しみをなめていたに違いありません。
すると当然、そのような主人のもとで忠実に仕えたり真面目に働いたりする ことは馬鹿馬鹿しくなってまいります。どうしても反抗的になります。あるい は主人に対して不正を働くことすらあるかも知れません。事実、奴隷による不 正行為は決して珍しくはなかったのです。その一例が聖書の中にも出てきます。 オネシモという奴隷です。新約聖書の中の「フィレモンへの手紙」に出てきま す。彼は主人のフィレモンの金を盗んで逃亡したのです。多くの召し使いたち がそこまでしなかったとしても、類する不正は常に起こり得ることであったに 違いありません。そして、不正を行った時、召し使いたちは自分の行為に様々 な理由付けすることは出来ただろうと思うのです。「悪いのは主人の方だ。私 は不当に扱われてきたのだ。だから私がこのことをしても当然なのだ。」その ような言い訳はいくらでも可能であったことでしょう。
さて、似たようなことは私たちの日常にも見られます。彼らの姿は他人事で はありません。もちろん、私たちと当時の奴隷たちの境遇は随分異なります。 しかし、程度の差はあれ私たちも様々な場面において不当な苦しみを経験する ことはあるでしょう。また、その時にその苦しみの中で考えたり、苦しめる者 に反応する仕方は、当時の奴隷たちと私たちとに大きな差異はなかろうと思う のです。先にも申しましたように、彼らと同様、私たちもまた、いつでも諸々 の罪を正当化する誘惑に晒されているのです。怠惰の言い訳でなくても、「道 に獅子が、広場に雄獅子が」と言たくなるのです。そうしますと、ペトロがこ こで語っていることは、決して私たちと無関係ではないのです。
心からおそれ敬って主人に従いなさい
ペトロは、彼らに次のように勧めます。「召し使いたち、心からおそれ敬っ て主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそう しなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきま えて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたた かれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦 しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことなのです。 (18‐20節)」
ペトロは、召し使いたちに対して、無慈悲な主人に対して反抗したり、不正 を働いたり、罪を犯すことを正当化するのではなくて、むしろ「心からおそれ 敬って主人に従いなさい」と勧めますたとえ主人の行為の内に悪があったとし ても、悪をもって報いるのではなく、むしろ「善をもって悪に勝つ(ローマ1 2・21)」ことを彼らに求めているのです。「耐え忍ぶ」と訳されている言 葉は、単に「しかたがないから我慢する」という消極的な意味の言葉ではあり ません。むしろ、「あえて苦難のもとに留まる」という意味合いの積極的な言 葉です。逃げないで留まるのです。善を行いつつ、そこに留まる。それこそ、 神の御心に適うことなのだ、と言うのです。
なるほど、良いことをペトロは言っています。悪をもって悪に報いるならば、 必ず悪の連鎖を生み出します。それは決して問題の解決にはなりません。神が そのようなことを望んでおられるはずがありません。少し冷静に考えれば分か ります。ですから、やはり善をもって悪に勝つことは正しいのです。 しかし、正しいことは必ずしも容易なことではありません。ここに勧められ ていることも、決して簡単なことではないでしょう。むしろ、これを読んで、 「大変良い教えだ」などと言う人は、御言葉を自分に語られている言葉として 聞こうとしない人です。現実に、私たちが身近なところで経験する様々な場面 に当てはめてみたらどうでしょう。これを聞いた「召し使いたち」にとっても、 「言っていることは理解できるけれど、それは非常に難しい」というのが実感 であろうと思うのです。さらには、「あなたは現実を見ていないから言えるの だ。あなたの言うことは理想ではあるけれど非現実的な言葉だ」と、ペトロの 勧めに対して反感さえ覚える。それが当然の反応であろうと思うのです。
ペトロもそれは分かっているのです。決して簡単ではない。反感を呼び起こ したとしても無理はない。彼は分かっているのです。ですから、ペトロは20 節で終わりにしないのです。続けてキリストのことを語り始めるのです。共に キリストに目を向けるようにと招くのです。キリストこそ、この勧めの言葉の 根拠であるからです。そして、キリストに目を向けることによってこそ、本当 の意味でこの勧めの言葉が実現へと向かうからであります。それは私たちにと っても同じなのです。キリストに思いを向けることなくしては、聖書の中の多 くの言葉も、また毎週なされる聖書の解き明かしも、「理想ではあるけれども 非現実的な良いお話」に過ぎなくなってしまうのです。
キリストは模範を残された
ペトロは言います。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、 キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範 を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りが なかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正 しくお裁きになる方にお任せになりました。(21‐23節)」
キリストは模範を残されたのだ、と言います。不当な苦しみを受けたと言う ならば、あの方こそまさにそのような苦しみに遭われた方です。しかし、あの 方はののしられてもののしり返さなかった。苦しめられても人を脅かすことは しなかった。正しく裁かれる神にすべてを任せられた。そのようなキリストの お姿が私たちにとって模範であるというのは理解できます。そして、模範があ るということは大きな助けであるに違いありません。
しかし、私たちはペトロが書いている大切な言葉を見落としてはなりません。 それは「あなたがたのために苦しみを受け」という言葉です。キリストは自ら 教えられたことを身をもって見せてくれたという意味での単なる模範ではない ということです。例えばマルチン・ルーサー・キング牧師の生き方や、ガンジ ーの生き方に感動して、それを模範として生きるのとは、意味合いがまったく 違うのです。ガンジーは「あなたがために苦しみを受け」てはいないからです。 しかし、実際、多くの人がキリストを、愛の行いや善い行いの模範としか考え ていないのです。そのような人に限って、軽々しく「キリスト教は愛の教えだ 」などと言うのです。そして、キリストの真似をすることがキリスト教のすべ てであるかのように考えるのです。
ペトロはそうは言っていません。キリストの苦しみが模範として本当の力を 持つのは、ただあの方が立派だったからではありません。ののしられてものの しり返さなかったからではありません。「他ならぬあなたがたのために苦しみ を受けられたからだ」と言うのです。「私は不当に苦しめられている」と言っ て呟いているあなたがたのために、「あんな主人に従えるか」と言っているあ なたがたのために、キリストは苦しまれたのだ、とペトロは言っているのです。
あなたがたのために苦しみを受け
なぜ、「あなたがたのために苦しみを受け」られたのか。24節にキリスト の受難の意味が記されております。この部分は、イザヤ書53章をもとにした 賛美歌であろうと言われます。信仰を言い表した賛美歌です。ですから、召し 使いたちにしても、繰り返し耳にしてきた歌であるに違いありません。それを あえてペトロは書き記しています。つまり、ペトロは繰り返し語られ、歌われ てきたことをもう一度確認しようとしているのです。それが何を意味するのか を語り直しているのです。丁度、私たちが毎週の礼拝でしているようにです。 なぜキリストは苦しみを受けられたのか。
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださ いました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるた めです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(2 4節)」
キリストが十字架にかかられたゆえに「いやされた」と言います。彼らは 「いやされた者」として主を礼拝してきたのです。そして今も礼拝している者 なのです。しかし、「いやされた」とは何を意味するのでしょう。「私は昔か ら病気もしていませんし、怪我もしていません」と言う人もあるでしょう。し かし、その次を見てください。ペトロはこう続けるのです。
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、 監督者である方のところへ戻って来たのです。(25節)」
「あなたがたは羊のようにさまよっていた」と言います。これも当然、イザ ヤ書53章から来た言葉です。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれ の方角に向かって行った。(イザヤ53・6)」確かに肉体は健康であったか もしれない。怪我や病気がいやされたのではないかも知れない。しかし、人が 魂の牧者である方のもとにいないということこそ、実は最も病んだ状態なので あります。自分勝手な方向に向かい、さまよいながら生きていることこそ、実 は真の命を失って滅びに瀕している状態なのです。しかし、多くの人はそのこ とに気付かない。私たちはしばしば自分だけが不当な苦しみを背負っているか のように騒ぎます。そしてそれが人生最大の問題であるかのように思っている ものです。しかし、実際は魂の牧者を離れて、監督を離れて、我儘勝手に生き ていること、さまよって生きていることこそ、最大の問題なのです。それこそ が、私たちの諸々の苦しみの根に他ならないのであります。
キリストはそのような私たちをいやすために苦しんでくださったのではない か。私たちが罪を赦されて、本来いるべきところに帰れるようにと、「十字架 にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」のではないか。 そうペトロは語りかけているのです。そして、今や、魂の牧者であり、監督者 である方のもとにいる。そのような自分であることを彼らに思い起こさせてい るのです。その牧者のもとにある者として、再び自分が置かれている現実を見 ることが出来るようにしているのであります。そうして初めて、キリストの苦 難は本当の意味で模範としての力を持つからであります。
さて、今日から受難週に入ります。キリストの御苦しみを偲ぶこの時、私た ちが為すべきことも同じです。まず私たちは、今や魂の牧者、監督者のもとに ある自分を見出さなくてはなりません。不当な苦しみは相変わらず存在するか も知れません。しかし、私たちは、もはや迷いながら傷つきながら滅びへと向 かう者ではありません。羊飼いのもとにいてその命の養いを受けて生きる者な のです。そして、今私たちがこうしてあるために、羊飼い自身が苦難を負って くださった。それゆえに私たちはあのお方の苦難を思い、苦難を耐え忍ばれた あのお姿に思いを馳せるのです。その時、キリストの苦難の姿は、もはや私た ちと無関係なところでなされた立派な行いではありません。私たちが真似すべ き単なる模範ではありません。そうではなくて、私たちはそこに、私たちを愛 し、私たちのために苦しんでくださった方を見るのです。その御足の跡を見る のです。牧者であり監督者であるお方のもとにあって一歩一歩踏み従うべき、 愛するそのお方の御足の跡を見るのであります。
その足跡に続くということは、私たちの現実の生活においていかなることを 意味するのでしょうか。そのことを尋ね求めつつ、この受難週を過ごしたいと 思います。