「生けるキリスト」
1997年3月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ24・13‐35
本日の聖書箇所には「二人の弟子」が出てきます。「ちょうどこの日」と書 かれていますが、それはキリストが十字架にかけられて三日目に当たります。 つまり、主は既に死んで葬られているということです。いわばここでは師亡き 後の弟子たちについて語られているわけです。恐らくルカによる福音書は紀元 70年代に書かれたものと思われます。十字架の出来事から40年近く経って から書かれたということです。そして、その福音書にキリストが死なれた後の 「弟子たち」について書かれていることは、十字架から40年後になお主の弟 子たちが存在することと関係があります。それはさらに言いますならば、ここ に書かれていますのは、十字架の出来事から二千年近く経ってなおこの世に 「弟子たち」が存在していることに深く関わっている物語なのです。「弟子」 とは、私たちのもっと馴染みの深い言葉で言いますならば、「キリスト者」あ るいは「クリスチャン」ということです。さて、キリストの死より二千年近く 経ってしまった今日、なお彼の「弟子」であるとは、いったい何を意味するの でしょうか。20世紀も終わりに近づいている今日、なお洗礼を受けてキリス ト者として生きるとは、いったい何を意味するのでしょうか。その問いに対し、 福音書はいかなる答えを与えてくれるのでしょうか。
過去のイエスを語る人々
13節以下を御覧ください。「ちょどこの日、二人の弟子が、エルサレムか ら六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の 出来事について話し合っていた。(13‐14節)」
「一切の出来事」とは、ナザレのイエスという方が十字架にかけられ、殺さ れ、葬られて、その死体が無くなってしまうに至るまでの諸々の出来事です。 彼らは、恐らく誰かが死体を盗んだのではないかと考えていたのでしょう。い ずれにせよ、彼らが話し合い論じ合っていたのは過去に属するイエスについて でした。今や彼らの思い出の中にしか存在しないナザレのイエスというお方に ついてだったのです。
そのような彼らに一人の人が近づいてきました。そして、「歩きながら、や り取りしているその話は何のことですか」と尋ねたのです。「二人は暗い顔を して立ち止まった(17節)」と書かれています。そして、その人がさらに尋 ねることに対して、彼らは答えました。「ナザレのイエスのことです。この方 は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、 わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架 につけてしまったのです。(19‐20節)」
彼らの思い出の中には「行いにも言葉にも力ある預言者」がおりました。預 言者というのは神の言葉を語る人です。そうしますと、預言者自身が過去の人 となっても、言葉そのものは残っているわけです。旧約聖書における預言者と はそのような存在であります。そして、彼らは「行いにも力ある預言者」と言 っております。その行為は彼らの心に残っているわけです。さらに言いますな らば、その人の「生き様」が残っているということでしょう。あるいはその生 き方そのものによる人格的感化は残っているということであります。この二人 の弟子たちは、確かにそのような人と共に生きたのであって、その言葉と行為 は確かに彼らの心の内に残っているのです。
しかし、彼らは暗い顔をしていたのです。それは単に彼らの師と仰ぐ人が殺 されてしまった、その別離の悲しみによるのではないことは明らかです。なぜ なら、その次にこう書かれているからです。「わたしたちは、あの方こそイス ラエルを解放してくださると望みをかけていました。(21節)」「望みをか けていました」ということは、望みが「過去」になってしまったことを意味し ます。彼らが暗い顔をしていたのは、単に愛する先生との別れの悲しみによる のではありません。希望が過去のものとなってしまったからです。つまり、彼 らがどれほど偉大なる預言者を知っていようと、その言葉や行いが記憶の中に 残っていようと、その生き様による感化が残っていようと、それは「現在の希 望」には繋がらなかったということであります。彼らがどんなに過去の人イエ スについて語り、論じ合っても、そこには救いはなかった、ということであり ます。
では、これが「行いにも言葉にも力のある預言者」でなかったらどうなので しょう。歴史を通じて、ナザレのイエスというお方については様々なことが言 われてきました。ある人は、この方を人類の歴史において類い希なる偉大な教 師と考えます。また、ある人にとっては、このお方は社会的弱者のために身を 捧げた活動家であり、さらに言えば革命家であるかも知れません。遠藤周作は、 無力な男であるけれども、徹底して苦しむ者や病める者に寄り添う愛の同伴者 としてのイエスを描きます。今日に至るまで、歴史学的な手法によってイエス 像を再構成する試みが数多くなされてきました。
しかし、どのようなイエス理解であっても、もしその方が単に過去に属する のであるならば、ここに出てくるクレオパたちと少しも変わらないのです。彼 らは完全に希望を失っているのであって、そのような過去に属するイエスによ っては、弟子であり続けることは出来なかったのです。過去のイエスによって は、十字架の後の教会、十字架の後のキリスト者は存在し得なかったのだ、と いうことがここで語られているのです。なぜなら、彼らは預言者イエスは知っ ているけれども、エルサレムからは離れて行っているからです。弟子の群れか ら離れつつあるのです。これはすなわち、今日生きる私たちも、単に過去の人 イエスの言葉や行い、人格的感化の回想によっては、キリスト者であり得ない ということを意味します。では、何をもってキリスト者であり得るのでしょうか。
現在の主イエスと共に歩む人々
そこで私たちは15節において次のような言葉に出会うのであります。「話 し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ た。」復活されたキリストが彼らと共に歩まれたというのです。しかし、彼ら はそれがイエス様であることに気付きません。なぜでしょうか。はっきりした ことは分かりません。ただ聖書は「二人の目は遮られて」と説明しています。 これは31節に関係します。そこで「二人の目が開け、イエスだと分かった」 と書かれているのです。共に歩まれる復活のキリストは、目が開かれて初めて 認識されるのだ、ということです。
しかし、二人には分かっていないのですけれど、ここには復活のキリストが なされた一連の働きかけが記されております。彼らが知る前に、既にキリスト の働きかけは始まっているのです。キリストは何をされましたでしょうか。キ リストはまず近づいて来られます。一緒に歩き始められます。彼らに問いかけ られます。そして、大切なことが25節以下に書かれています。「『ああ、物 分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そ して、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分につい て書かれていることを説明された。(25‐27節)」キリストが聖書の言葉 を解き明かされるのです。
この二人はもちろんキリストの受けた苦難を知っています。十字架にかけら れた事実も知っています。そして、仲間の婦人たちを通して、「イエスは生き ておられる」というメッセージも聞いてはいます。23節に書かれている通り です。しかし、キリストの受難の意味も、復活のメッセージもまだ悟ってはい ません。それは聖書から解き明かされなくてはならないからです。その解き明 かしを誰がしてくれたかというと、復活のキリスト御自身なのです。
そして、二人はイエス様と共に家に入ります。彼らは一緒の食事の席に着き ます。ところが興味深いことに、キリストは家の主人であるかのように振る舞 います。つまり、ここでも主はお客さんではなくて主人として事を為されるの です。そこでキリストがパンを割き、賛美の祈りを唱え、パンを割いて渡され たのです。
その一連のキリストの働きかけを経て、彼らの目が開かれました。「すると 二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった(31節) 」と書かれております。これは大変奇妙なことです。「目が開けて見えるよう になった」というのなら話は分かります。しかし、ここでは逆なのです。見え なくなったというのです。そうしますと、結局、キリストが目に見えるか見え ないかは、実は大して重要ではないということのようです。大切なことは、今 まで共にイエス様が歩んでくださったし、これからも共に歩んでくださること が分かるということだからです。それが信じられるということこそ大切なこと なのです。
そして、それが信じられた時、彼らは振り返ってこう言います。「道で話し ておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃え ていたではないか。(32節)」失望していた彼らの内に命の火が灯りました。 まさに死んでいたような彼らの心の内に命の火が灯りました。そして、その炎 が大きく燃え上がり始めたのです。彼らがかつて抱いていた望みはどうなった のでしょうか。相変わらずイスラエルは解放されてはおりません。相変わらず ローマ帝国の支配のもとにあります。見えるところは何一つ変わってはおりま せん。しかし、彼らは希望を失って暗い顔をして歩いている者ではありません。 もはや失意の中に死んでいるような者ではありません。復活のキリストが伴っ てくださったこと、これからも伴ってくださることを知った人だからです。キ リストによって命の炎を内に頂いた人だからです。
そして、彼らはエルサレムに引き返します。弟子たちの仲間のもとに戻って いくのです。そこでキリストの弟子として生き始めるのです。キリストの御業 を証ししつつキリストの弟子として生き始めるのです。
主よ共に宿りませ
最初の問いに戻ります。キリストの死より二千年近く経ってしまった今日、 なお彼の「弟子」であるとは、いったい何を意味するのでしょうか。20世紀 も終わりに近づいている今日、なお洗礼を受けてキリスト者として生きるとは いったい何を意味するのでしょうか。その問いに、今日の聖書箇所は明確に答 えています。キリスト者とは過去の人イエスを回想しながら生きる者ではあり ません。単に過去の人イエスの生き様を模範にし、あるいはその教えを実践し て生きるという人ではありません。そうではなくて、キリスト者とは復活のキ リストと共に生きる人を言うのです。主は単に「過去の人」として回想の中に 生きることを望まれません。弟子たちの現実の中に共に生きることを望んでお られるのです。
ここに書かれていることは、単にあのクレオパたちの特殊な経験ではありま せん。教会において主の弟子たちに今も与えられている賜物なのです。ここに は今日もなお教会の内において起こっている事、起こり得る事が記されている のです。聖書の解き明かされ十字架と復活の意味が明らかにされることも、聖 餐において復活のキリストの臨在が啓き示されることも、またそこに伴って湧 き上がる喜びも賛美も、悲しみと失望によって沈んだ心に命の炎が燃えあがる ことも、その一切は復活のキリストの働きであり、キリストの賜物なのです。
言い換えるならば、教会とは今なお復活のキリストが働いておられる場であ ると言えるでしょう。教会に連なる者として、キリスト者は復活のキリストの 働きかけを受けつつキリストと共に生きるのです。そして、キリストと共に生 きると言います時、先にも申しましたように、彼らのよう復活のキリストを見 たかどうかということは、大して重要ではありません。「見える」という事よ りも、キリストのお働きそのものの方が重要だからです。そして、キリストが 私たちと共に、その人生の道のりを歩んでくださることについて目が開かれ、 信じられるようになることの方が重要だからです。
では、どうしたら常に、私たちと共に歩んでくださる主に対して目が開かれ ている者として生きることができるのでしょうか。そこで見落としてはならな いことが一つあります。28節以下に次のように書かれています。「一行は目 指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、 『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていま すから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入ら れた。(28‐29節)」
彼らの内に起こった全ての良きことは、イエス様の一方的な御業でありまし た。しかし、それが主の御業であることに目が開かれるに至るには、彼ら自身 の為したことがありました。それは復活のキリストを引き止めるということで あります。「一緒にお泊まりください。」これは復活のキリストに対する祈り です。祈りを強調するルカがその福音書の最後に記したキリストへの祈りです。
この祈りは、「主よ、ともに宿りませ」という言葉が繰り返される賛美歌3 9番に美しく歌い上げられております。あの復活の日の夕、弟子たちが主に語 ったように、私たちもこの復活祭の日、主に向かって共に祈りたいと思います。 「主よ、ともに宿りませ」と。そして、私たちは終わりの日に至るまで、もは や暮れることのない終わりの日に至るまで、私たちは祈り続けるのです。「主 よ、共に宿りませ。