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「あなたがたは証人である」

1997年4月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ24・36‐53

 エルサレムのとある家の一室に十一人の弟子たちとその仲間が集まっており ました。時は真夜中であったろうと思われます。そこにイエス様が現れて彼ら の真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。すると 「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」というのです。大変奇 妙です。いや、イエス様が現れたとことではありません。彼らが「恐れおのの いた」ことです。

 少し遡ってみましょう。彼らは既にその朝、婦人たちから「イエスは生きて おられる」というメッセージを受けております。(9節)。そこに到着したば かりの二人も、イエス様にお会いした次第を報告しております。(35節)ペ トロもそこにおりました。彼もまた復活のキリストに既にお会いしています。 (34節)つまり、人々はそこで既にキリストの復活について聞き、経験し、 話し合っていたはずなのです。ところが、そこにはまったく喜びや感動が溢れ ているようには見えません。むしろ依然として恐れと不安に捕らわれている人 々を見るのです。なぜなのでしょうか。イエス様が彼らの前に現れると彼らは 恐れおのきました。よりによって、既にイエス様にお会いしているはずのペト ロやクレオパたちまでが恐れおののいて、亡霊を見ているのだと思ったという のです。なぜなのでしょうか。

 まず考えられることは、キリストの復活がそれほど信じ難いことだったとい うことでしょう。キリストの復活を信じることは古代の迷信的な人々にとって は容易だったのであって、現代人には非常に難しいのだと、私たちはともする と考えてしまいます。しかし、現実にはそうではありません。当時の弟子たち にとっても、キリスト復活を信ずることは難しかったのだ、と福音書は伝える のです。現実にキリストを見た人でも信じられなかったのです。

 しかし、そこに喜びと感動がなかったのは、単に「信じ難かった」からでは ありません。もっと大きな理由があります。それはキリストの復活が意味する ところを理解していなかったということです。つまり、キリストの復活の出来 事が、彼らの希望とは結びついていないのです。彼らの救いとの関わりで捉え られていないのです。「不思議なことだ。そんなことあり得るだろうか」とい う次元でしか話し合われていなかったということであります。

 ところが、24章の終わりに至りますと彼らの姿はまったく変わってしまっ ております。52節にはなんと書いてあるでしょうか。「彼らはイエスを伏し 拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめた たえていた。」そこに至るまでの出来事を記しているのが今日お読みした箇所 です。もっとも、この箇所は随分圧縮されておりまして、すべての事が一日で 起こったかのように記されております。実際はそうではありません。ルカによ る福音書の続編である使徒言行録を読むと分かります。最初の顕現からイエス 様の昇天までは40日間あるのです。しかし、大事なのはその期間の長短では ありません。その間に起こった出来事の内容であり本質です。さて、いったい 何が起こったのでしょうか。何が弟子たちを変えたのでしょうか。

亡霊ではない

 この場面をもう少し読み進んでいきましょう。38節以下を御覧ください。 「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑 いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく 見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしには それがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びの あまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ 物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそ れを取って、彼らの前で食べられた。(38‐43節)」

 キリストの復活に関する記事には、理解や説明の不可能な点が実に多いこと を認めざるを得ません。31節にはキリストの姿は「見えなくなった」と書か れておりますし、またヨハネによる福音書のおいてはキリストが鍵のかかって いる部屋の中に突然現れます。(ヨハネ20・19)」ですから、キリストの 復活は単なる肉体の蘇生とは明らかに違います。かといって亡霊や幻のようで もない。今日の箇所では魚を食べたりしております。「骨や肉がある」などと 主は言われます。こうなるとお手上げです。いったいどういうことなのか。こ の点に関して、福音書は細かい説明をしておりません。現象としてどのような ことが起こっていたかということには、ルカはどうも関心がないようです。で は、ルカはこの出来事をもって何を伝えたかったのでしょうか。

 そうしますと、私たちに与えられている第二巻目である使徒言行録が助けに なります。1章3節に次のように書かれております。「イエスは苦難を受けた 後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40 日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。(使徒1・3)」

 体をもってイエス様が現れたということでルカが伝えたかったことは、少な くとも二つあると思われます。その第一は、キリストが「生きておられる」と いうことであります。しかし、それは先にも申しましたように、単に蘇生した ということではありません。ルカが「生きている」と言うとき、それは、一時 的に命は延びたということではないのです。いつかは死んで朽ちていくという ことではないのです。また、ユダヤ人たちの間には、死者の霊が三日間漂うと いうような俗信があったようでが、ここに現れたのは、死に属する死霊の類で はありません。それは肉体は滅びたけれども霊魂は不滅であったというのでも ありません。

 弟子たちの前に現れたお方は、死を打ち破って、体も含めて完全な形で「生 きておられる方」であります。永遠の命の世界に属する方として現れたのです。 パウロの言葉を借りて言うならば「朽ちないものに復活(1コリント15・4 2)」したのであり、神の国における栄光の御姿で現れたのです。その状態が どのような状態であるか、細かいことは分かりません。しかし、体をもって現 れたということは重要です。なぜなら、キリストの復活の姿は、人間の救いが 完成され、本当の意味で「生きている」姿を指し示しているからです。人間の 救いは、体を失った亡霊のような状態にあるのではありません。永遠の命に与 って、いわば「まるごとの人間」として完成するのです。それが人間のゴール です。それをキリストは見せてくださったのであります。

 体に関わるこのような終末的な希望は、旧約聖書にも現れております。例え ば、イザヤ書35章を御覧ください。「そのとき、見えない人の目が開き、聞 こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。(イザヤ35・5‐6)」私たちはこの朽ち るべき肉体をもっていかに苦しんできたことでしょう。そして、最後まで苦し みを負わざるを得ないものであります。しかし、私たちが完全なる姿で存在し 得る、全き癒しの世界がここに語られているのです。それが終末における希望 です。イエス様の癒しの奇跡は、まさにその終末の希望を指し示しているので す。そして、同様に復活の体を伴う栄光の御姿は、もはや死の支配することの ない永遠の命の世界を指し示しているのです。

まさしくわたしだ

 しかし、キリストの復活顕現が弟子たちの希望に単純に結びついたと考えて はなりません。これはすぐに分かります。確かにキリストの復活の体は、人間 の救いが完成した姿を指し示しております。しかし、そのことは具体的に「わ たしが」「あなたが」あるいは「弟子たちが」救われるということを意味する わけではないからです。キリストと私たちとは違うからです。キリストには罪 がありませんでした。弟子たちには罪があります。私たちにも罪があります。 であるならば、キリストがたとえ栄光の御姿をもって現れたとしても、それが 私たちの行き着くべき姿であるとどうして言えるでしょう。キリストが復活し たからと言って、どうして私たちが復活して永遠の命に与れると言えるでしょ う。むしろ、私たちが行き着くところは、当然受けるべき裁きと滅びでしかな いのではないでしょうか。考えて見てください。弟子たちは皆、キリストを捨 てて逃げたのです。いざとなったら皆、エゴイストの醜態を晒したのです。人 はそういうものです。そのような彼らがキリストの復活の姿を見て、そこに自 らの復活の希望を見いだせたとは思えないのです。

 しかし、実はそこにこそ、キリストが体をもって現れた、もう一つの大切な 意味があるのです。注目すべき言葉が39節にあります。「わたしの手や足を 見なさい。まさしくわたしだ。」これはおかしな言葉です。普通は、「顔をよ く見なさい。まさしくわたしだ」と言うものです。手や足は皆似ているからで す。しかし、主は「手や足を見なさい」と言われました。なぜでしょう。キリ ストの手は分かるからです。釘の跡があるからです。そのキリストが「まさし くわたしだ」と言われた。それは「まさしく十字架にかかって死んだわたしだ 」ということであります。「手足を釘打たれ、血を流して死んだあの同じわた しだ」ということなのです。そのことが明らかにされた。そこに、主が体を持 つ方として現れたことの、もう一つの意味があるのです。

 このことをもう少し考えてみましょう。復活した栄光の体と十字架の傷跡。 これらは本来調和しない二つのものです。完全なる癒しの世界に属しながら、 その姿で現れながら、なおあの方の手の傷は癒されていない。あの方は永遠に 傷を負う方となられました。そのお方を弟子たちは見たのです。そして、その お方がこう言われたのです。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩 編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一 緒にいたころ、言っておいたことである。(44節)」そして、聖書を悟らせ るために彼らの心の目を開かれて言われました。「次のように書いてある。 『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを 得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。 エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(46‐4 8節)」

 彼らはイエス様の復活の姿に触れるだけでは十分ではありませんでした。む しろ大切なことは、「苦しんで死なれた方が復活した」ということだったので す。それは聖書から解き明かされなくてはなりませんでした。私たちはここで 少なくとも一箇所、預言者の書を開いてみる必要があると思います。イザヤ書 53章をお開きください。主が言われるように、メシアの苦難が記されている ところです。

 5節だけをお読みします。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのた めであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受け た懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、 わたしたちはいやされた。」

 この少し前の52章12節には「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く 上げられ、あがめられる」と書かれています。そこに栄光の姿があります。し かし、その方は同時に、私たちのために苦しまれた方であったと聖書は告げる のです。あの方は永遠に傷を負う者となられた。その傷は単なる傷ではありま せん。贖いの御業のしるしです。私たちが平和を与えられ、癒されるための傷 なのです。そして、そこに宣べ伝えられるべき「罪の赦しを得させる悔い改め 」の根拠があるのです。

復活の希望に生きる

 以上、見てきましたように、彼らが喜びに溢れて神をほめたたえる者となっ たのは、単にキリストに再会出来たからではありません。魚を食べるのを見て、 「本当に復活したのだ」ということが分かったからでもありません。(彼らは 34節ですでに「本当に主は復活して、シモンに現れた」と言っています。) 彼らが喜びに溢れて神をほめたたえる者となったのは、キリストの復活が彼ら の希望となったからです。キリストの復活が彼らの復活の希望になったのは、 キリストの苦難が罪の贖いのために他ならなかったことを知ったからです。彼 らが向かっているのは、最終的な裁きと滅びではないことが分かったからです。 罪を赦された者として、彼らはキリストの栄光の姿の中に、彼らのゴールを見 たからです。それゆえ、後に書かれたペトロの手紙には次のように記されてお ります。

 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますよ うに。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中か らのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あ なたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受 け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように 準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られてい ます。(1ペトロ1・3‐5)」

 私たちは朽ちゆく体を持つ朽ちゆく存在としてこの世に生きている限り、様 々な悲しみと痛み、苦しみを経験いたします。思いがけないことも起こります。 罪の故に苦しみます。しかし、ゴールさえ見えているならば、人は生きていけ ます。喜びをもって神をほめたたえて生きていけるのです。ゴールが見えてい ない人は、今いかに恵まれた環境にいようとも、不安から解放されることはあ りません。

 主は、彼らを復活の証人としました。代々の教会は、彼らの証言を担ってま いりました。そして、永遠の希望をもたらす復活の証言が、私たちのところに まで伝えられました。そして、私たちもまた、復活の希望に生きる者として、 さらにキリストの苦難と復活を伝えていく者とされているのです。

 
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