説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「知られざる神に」

1997年4月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録17・16‐34

おびただしい数の偶像を見て

 ベレアを去ったパウロはアテネに着きました。もともとパウロはアテネで伝 道するつもりはなかったようです。彼の滞在はテモテとシラスを待つためであ って、次なる目的地はアカイア州の首都であったコリントだったからです。

 しかし、彼が町を見て回っている内に、その心が動かされました。16節に は、「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像が あるのを見て憤慨した」と書かれています。なぜ憤慨したのでしょうか。彼が ユダヤ人だからでしょうか。それゆえに十戒に反する偶像礼拝を見て怒ったの でしょうか。いいえ、そうではありません。通常のユダヤ人は、異邦人が十戒 に反することをしているとしても憤慨したりはいたしません。なぜなら、本来 十戒はイスラエルに与えられたものであることを知っているからです。ではな ぜ憤ったのでしょうか。それは人々が偶像に支配されている、実に悲しむべき 姿を見たからです。

 アテネの町は神々の偶像に満ちていました。人の数よりも神々の数の方が多 いとさえ言われるほどでありました。しかし、そもそも祭られる神々が夥しい 数になるのはなぜなのでしょうか。その事情をよく表しているが後に出てくる 「知られざる神に」と刻まれている祭壇です。「知られざる神」に関しては、 歴史的資料から再構成された次のような一つのエピソードがあります。

 紀元前六世紀に疫病が流行りました。そこで人々は、神々のうちの一人を怒 らせたことが原因だと考えます。指導者たちはどの神を怒らせたのかを一生懸 命調べました。しかし、どの神が怒っているのか分かりません。そこにキプロ ス出身のエピメニデスという詩人が現れます。彼は、怒っているのが、未だア テネにおいては「知られていない神」であると結論し、一つの提案をするので す。まず何頭もの羊を選んで餌を与えず飢えさせる。そして、草のあるところ に放してやる。すると当然羊は草を食べるでしょう。ところが、もしそこで草 を食べずに横になるものがいたら、そこに祭壇を建てる。こうして、「知られ ざる神」のために祭壇が建てられますと疫病の勢いが失われていったという話 です。

 この話から、祭られる神々が増えていくその背後には人間の持っている根本 的な「恐れ」があることが分かります。超自然的な力をもった存在、諸霊、 「神々」を怒らせないために祭るのです。祭っておかないと何か悪さをすると いけないから祭るのです。それはこの国に住む私たちにもよく分かるでしょう。 同じように何かを――それが先祖であれ何であれ――祭らなかったために祟ら れたのだというような話をいかにしばしば耳にすることでしょう。また、偶像 礼拝に纏わるしきたりだけが、迷信的な恐れと相まって一人歩きし始め、人々 の生活を縛り付けている現実を見るのです。そのようにして人は偶像に支配さ れ、迷信に支配され、恐れに支配されるようになるのです。偶像に関わるゆえ の不必要な重荷を人は代々背負いながら生きることになる。パウロが見たのは そのようなアテネの人々のまことに悲しむべき姿でありました。彼の内に偶像 の支配に対しての憤りが起こったのです。

 それゆえ彼はアテネにおいても福音を伝え始めました。安息日には会堂で、 他の日には広場で福音を語りました。広場はギリシャの哲学者たちの活動の場 でもあります。パウロは彼らとも論じ合いました。ここではアテネに中心を置 いていた様々な学派のうち、エピクロス派とストア派が挙げられております。 「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言ったのは、恐らくエピク ロス派の人々であったことでしょう。彼らは来世の現実を認めないので、パウ ロの語ることはまったくもって理解し難いことだったろうと思います。また、 「彼は外国の神々を宣伝する者らしい」と言ったのは本質的には汎神論である ストア派の人々であろうかと思います。18節に「パウロが、イエスと復活に ついて福音を告げ知らせていたからである」と書かれていますが、パウロは 「イエス」という神と「復活」という神を伝えていると、ストア派の人々は理 解したのかも知れません。

 このような哲学者たちとの討論が、さらにパウロに道を開きました。19節 以下を御覧ください。「そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、 こう言った。『あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせて もらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味 なのか知りたいのだ。』(19‐20節)」アレオパゴス(アレスの丘)はア クロポリスの西にある丘の名前ですが、ここで言われているのは、そこにあっ たアテネ最古の裁判と会議の場所です。そこにパウロは連れて行かれたのでし た。それは単なる興味のゆえでなく、パウロの教えについて審議するためであ ったと思われます。彼に今後教えを続けさせるかどうかを判断するのは議員の 責任だったからです。しかし、ルカはあえて、彼らが連れていった理由を、 「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞 いたりすることだけで、時を過ごしていたのである」と説明しています。これ は幾分極端な見方ですが、実は後に30節に記されている「無知な時代」とい うことと対応しているのです。これについては後に触れます。いずれにせよ、 このようないきさつで、パウロは22節以下の説教を語ることになったのでし た。それでは次に、彼の語っている内容を見ていきましょう。

アレオパゴスでの説教

 パウロは次のように切り出します。「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立 って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつ い方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むい ろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つ けたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたし はお知らせしましょう。(22節)」

 アテネの人々は確かに信心深い人々でした。しかし、彼らの信心深さのあり 方を「知られざる神に」という祭壇は象徴的に表しております。つまり、礼拝 の対象である方が誰であるかを問題にしていないということです。先ほどのエ ピソードが真実であるならば、祭壇を建てた理由は「疫病がおさまるように」 ということなので、怒っていたのが結局は誰であっても良いのです。それは、 恐らく他の偶像が祭られているところでも同じでしょう。結局はそれが何とい う名前の神であってもよいのです。人々の関心はそこで某かが祭られることに よって利益が得られることであったり、恐怖から一時的にでも解放されること にあるのです。似たようなことは私たちの周りにも見られます。例えば、受験 前に天満宮に行く人は別に菅原道真に関心があるわけではありません。また、 お地蔵さんに手を合わせる人にとって地蔵菩薩が何者であるかはどうでもよい ことなのです。礼拝していながら、相手は誰でもよいというのは、考えてみれ ば、大変おかしな話です。

 そこでパウロは彼は町で見た「知られざる神に」という祭壇を足がかりにし、 「礼拝されるべき方が誰であるか」について話し始めます。24節以下を御覧 ください。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天 地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足 りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありませ ん。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この 神だからです。(24‐25節)」

 真に礼拝されるべき方は、「世界とその中の万物とを造られた」創造者なる 方であって、天地の主なるお方です。人間であろうと霊的な存在であろうと、 たとえ超自然的な力を持つ何者であろうと、創造者以外は被造物ですから、礼 拝の対象ではあり得ません。様々な恐れに捕らわれて被造物を拝み始めるのは、 本当に畏れるべき創造者なる方を礼拝しないからです。そして、「天地の主な る方は神殿などに住まない」とパウロは言い、さらに「何か足りないことでも あるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」と彼は続け ます。それは祭儀が基本的には「神々の世話」と考えられていたアテネの状況 を反映しています。神はそのようなお世話を必要とはしていない。私たちの周 りにも見られる、いわゆる煩雑な「おつとめ」なるものも必要としないという ことです。むしろ、「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてく ださるのは、この神だからです」とパウロは言います。問題は、すべてが神の 贈り物だということを理解していない点にあります。そもそも命の息そのもの が神からの贈り物なのです。創造者によって生かされている存在なのです。そ のことを認識していないから、不必要な恐れにとらわれて迷信の虜になり、あ るいは御利益のための駆け引きが行われるようになるのです。

 彼はさらに続けます。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地 上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになり ました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえ すれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわ たしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人た ちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、 言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、 人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。 (26‐29節)」

 この最初の部分は、18節の、「彼は外国の神々を宣伝をする者らしい」と いう言葉に対応しているようです。彼が伝えているのは、ユダヤ人の神ではあ りません。神が創造者であるかぎり、それはすべての民族の創造者でもあるわ けです。そして人間を混沌の中ではなく、秩序の中に生活をさせてくださって いる。それはいったい何のためなのか。それは「人に神を求めさせるためだ」 と言うのです。それは神が私たちとの関わりを求めていてくださるということ でもあります。そして、求めさえすれば、神を見出し、神と共に生きることが 出来るようにしてくださったのです。

 創造者であられる方は、実に私たちの近くにいてくださる。パウロはそのこ とを、旧約聖書を引用するのではなくて、アテネの人たちに馴染みのある異教 の詩人たちの言葉を引用して語ります。これらはもともとゼウスについて語ら れたものです。しかし、パウロは創造者についてそれらを用いるのです。そし て、「わたしたちは神の子孫なのですから」とまで言う。もちろん彼は汎神論 的な考えに同意しているのではありません。創造者と被造物との関係において 「神の子孫」と言っているのです。いずれにせよポイントは、「神が親である ならば、その神を子孫である人間が造ったもの、すなわち人間以下のものと一 緒にしてはならない」ということです。

 そして、パウロの説教は結論へと向かいます。それは「悔い改め」への呼び かけです。創造者に立ち帰ることへの呼びかけであります。30節以下を御覧 ください。「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいました が、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、 先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになっ たからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの 確証をお与えになったのです。(30‐31節)」

 パウロは人々の「無知」を問題にいたします。この「無知」という言葉は大 変不愉快な言葉でもあります。人を「無知」呼ばわりすることは、非常に傲慢 なことであるように思えるからです。しかし、私たちは聖書を通して神が今日 語りかける言葉として、やはりこの言葉に耳を傾けなくてはならないのだろう と思います。先にも触れましたように、この言葉は先の21節に対応していま す。人々は新しいことを聞くことには熱心だったのです。しかし、本当に知る べきことに関しては無知であったと聖書は語るのです。

 今日、私たちの周りには様々な情報が溢れています。インターネットを通じ ていくらでも最新の情報を地球の反対側からリアルタイムで得ることができま す。今日、人々の知識欲は旺盛です。話題の新刊本は競って買い求められ、各 地の文化講演会には人が詰めかける。しかし、人生の大事な曲がり角において、 あるいは生きるか死ぬかという危機的な状況において、存亡に関わる重大時に おいて、依然として人は確固たる基盤のないまま恐れに支配され、迷信に振り 回されるようなことが起こるのです。一体なぜなのでしょうか。本当に知るべ き事柄について「無知」であると聖書が言う時、そこには確かに真理があるの ではないでしょうか。

 パウロは「無知の時代は終わったのだ」と言います。イエス・キリストにお いて、無知の時代は終わったのだ、ということです。神がキリストを復活させ、 全世界の主として立てられた時点で無知の時代は終わったのです。人間が知る べき事柄は、この方の存在と言葉において完全に現されたのです。キリストは 人類に対する神の最後の語りかけです。ですから、神が最終的に正しい裁きを なさる時には、この語りかけをどう受けとめたかが問われます。キリストが最 後の裁き主となるのです。無知の時代は過ぎ去りました。それゆえ神は悔い改 めるようにと命じておられます。私たちが立ち帰ることを求めておられるので す。イエス・キリストにおいて御自身を啓示された天地の主なる神、いと近く おられる私たちたちの父のもとに帰り、この方を畏れ敬い、この方を礼拝して 生きるようにと、私たちは呼びかけられているのであります。

 パウロの説教に対する反応は三つに分かれました。ある人々はあざ笑いまし た。彼の語ることはまったく愚かなことのように聞こえたのです。ある人は 「いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言いました。判断を先送りにし ました。これは決断をしなかったように見えますが、実際には人生の貴重な時 をなおしばらくそのままで過ごすという重大なる決断をしているのです。第三 の人々は信仰に入りました。天地の主なる神に立ち帰って生き始めたのです。 その人たちは決して多くはなかったようです。パウロの責任でしょうか。いい え、そうではありません。パウロは語るべきことを語りました。神の言葉が語 られる時、その後どう生きるかについては聴いた者の責任なのです。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡