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「新たな展開」

1997年5月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録18・18‐28

 今日は18章の最後までお読みしました。ここには第二回目の宣教旅行の終 わりと、その後の教会における新たな展開が記されております。しかし、ここ にはいくつかの奇妙な点が見られます。まず第一に、パウロがケンクレアイで 髪を切ったという記述です。ここでルカは、パウロがコリントを去ってからシ リアのアンティオキアに帰るまでを一気に書き上げております。そしてほとん ど間を空けることなく第三回目の宣教旅行の話に入っているのです。かなり話 を端折っています。にもかかわらず、パウロが髪を切ったという、一見どうで もよいようなことをルカは書き記しております。なぜなのでしょうか。奇妙な 点はまだあります。パウロがエフェソに留まることなく、そこを後にしている ことです。第二回目の宣教旅行において、当初パウロはアジア州に向かってい たことを思い出してください。当然のことながらアジア州の首都であるエフェ ソがその目的地だったと考えられます。しかし、あの時には「聖霊から禁じら れた(16・6)」ので、エフェソにおいて御言葉を語ることができませんで した。それが長い遠回りを経て今や実現したのです。しかも、人々はパウロを 引き止めているのです。なぜパウロは去らなくてはならなかったのでしょう。

 聖書において、私たちが単純に読み過ごせないところ、引っかかるところは、 往々にして大事な箇所であることが多いようです。私たちは、これらのことを 書き記したルカがいったい何を言わんとしていたのか、よく考えながら読み進 んでいきたいと思います。そしてこの書物を通して神が私たちに告げようとし ておられるメッセージをしっかりと受け止めたいと思うのです。

アンティオキアへ

 誓願の期間が満ちてパウロが髪を切ったことについては、しばしばルカの弁 証的な意図から説明がなされてきました。パウロを無律法主義者や律法破壊者 であるとする誤解に対して、ルカが正しい説明を試みていると解釈するのです。 それはさらにパウロが教会に挨拶するためにエルサレムに上ったこととも関連 づけられます。パウロはユダヤの伝統を重んじるエルサレムの教会に対立する 異邦人の教会を作ったのではない、ということが強調されていると見られるの です。決して分派主義者ではなかったということです。確かに、そのようなル カの意図は考えられることです。

 しかし、それが理由の全てであったかというと、必ずしもそうとは思えない 節があります。原文には「エルサレム」という言葉はないからです。もちろん 「上った」という言葉は当然エルサレム上りを意味していると思われるので、 この訳が誤りであるというわけではありません。しかし、もしパウロが反律法 的な分派主義者ではないということを言いたいのなら、どうして「エルサレム の教会に挨拶するために訪ねた」と明記しなかったのか理解できません。そう 考えますとルカの意図はむしろ「パウロが誓願をした」という事実そのものに あると言えるでしょう。つまり、「コリントにおける実り豊かな働きの間、彼 は誓願を立てていたのだ」という事実を伝えることにより、ルカは何かを私た ちに語ろうとしているのです。さて、それはいったい何なのでしょう。

 そこで、誓願の期間の終わりに「髪を切った」という記述が注目されます。 これは明らかに期限付きのナジル人の誓願であります。「ナジル人」という言 葉に馴染みがない方もおられるでしょう。どうぞ民数記6章をお開きください。 そこに記されている通り、誓願を立てて「ナジル人」になることは、すなわち 主への献身を意味しました。パウロはこの誓願をコリントにおいて立てたと思 われます。それはいつだったのでしょうか。聖書に明記されてはおりませんが、 恐らく主の幻を見てからであろうと思われます。すなわち、主がパウロに対し て「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。… (18・9‐10)」と語られた時です。主が「わたしはあなたと共にいる」 と言われたことに対して、パウロが「わたしはあなたのものです」と答えた。 そして特別な守りを願い求めた。それがここに言われている「ナジル人の誓願 」なのだと思います。

 しかし、ここでナジル人の誓願について、もう少し注意深く見ておかなくて はなりません。献身の意味を持つ「誓願」に対して何が求められているでしょ うか。民数記6章によりますと、大きく三つあります。まず、ぶどう酒などぶ どうの木からできるものは食べない。第二は髪の毛を切らない。第三は死体に 触れない。考えてみれば奇妙な義務です。献身の誓願なのですから、もう少し 難しい難行苦行を義務づけられても良さそうではないですか。ところがここで は難しいことは何も言われておりません。そうしますと、何かを特別に為すこ とに重点があるのではなさそうです。

 まず、死体に触れないというのは、献身した者が身を汚さずに保つというこ とでありそうです。そうすると、むしろ神との関係を意識することに重点があ るわけです。では、ぶどう酒を飲まないというのは何なのでしょう。これはカ ナン人から入ってきた農耕生活を拒否するという元来の意味が考えられます。 しかし、食べ物の問題は日常の事柄です。毎日意識しなくてはなりません。考 えて見れば、髪の毛も同じです。髪の毛に一日まったく触れないということは あり得ません。つまり延びてきた髪の毛を毎日意識せざるを得ない。そうしま すと、結局、毎日主を意識する、そして自分が主のものであることを常に意識 することに重点があるように思えます。死体に触れない、ぶどう酒を飲まない、 髪の毛を切らないという「行為」そのものが重要なのではないのです。

 パウロのコリントにおける宣教は、他に見られないほど実り豊かな働きとな りました。しかし、パウロはもともと恐れの中にいたのです。その実りは純粋 にパウロと共にいてくださった主の働きによるのであり、パウロの力や熱情に よるのではありませんでした。彼はただひたすら主を見上げ、主に依り頼み、 主のものとして生きたのです。彼がコリントにおいてナジル人の誓願を立てた ことの中に、そのような彼の姿勢を見ることができるでしょう。

 このことがまた、パウロのエフェソにおける行動にも関連していると思われ ます。彼はエフェソに留まりませんでした。すぐにそこを去るのです。先にも 申しましたように、エフェソは当初パウロが目的としていた場所です。しかも、 人々は彼を必要としている。引き止めているのです。もし、ここで引き止めて いるのが、会堂で出会ったユダヤ人たちであるならば、なおさら彼はエフェソ に残る理由があります。願ってもない宣教の機会だからです。もし、彼にエフ ェソを救うのは自分であるという自負があったら、彼はきっとエフェソに留ま ったでしょう。もし、エフェソを拠点としてアジア州一帯に救いをもたらすの は自分であると考えていたならば、彼はきっと残ったでしょう。しかし、彼は 残らなかった。彼にとって大切なのは、神の御心だけだったからです。自分は 神のものであり、時に応じて神に用いられる器に過ぎないことを知っていたか らです。彼はまずアンティオキアに帰ることが神の御心であると信じました。 それが彼の行動を決するすべての理由でありました。ですから、彼はこう言い 残すのです。「神の御心ならば、また戻ってきます。」まさに、この第二回伝 道旅行のすべての行程において、そしてここから始まる新しい展開において、 生きて働いているのはパウロではなく、神御自身なのであり、その御心なので す。その事実が、この簡単な叙述の中に表されているのであります。そして、 このことは、次のアポロの登場に関係してまいります。それでは、後半を読ん でまいりましょう。

ヨハネの洗礼しか知らないアポロ

 「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという 雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことにつ いて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。この アポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を 招いて、もっと正確に神の道を説明した。(24‐26節)」

 「彼は主の道を受け入れており」と書かれています。これは「主の道を教え られていた」と訳し得ます。しかし、このアポロに対してプリスキラとアキラ が「もっと正確に神の道を説明した」と言うのです。「主の道」と「神の道」 が逆だったらよかったのに、と思います。そうすると分かりやすくなります。 つまり、アポロは神のことは知っていたけれど「主」すなわちキリストは知ら なかった。けれどもプリスキラとアキラは「主の道」を説明した。そうすると 話は通じます。しかし、そうなっていないのです。アポロは「主の道」を既に 知っていたのです。しかし、彼には大切な何かが欠けていたというのです。

 そうしますと、ここに書かれている「主の道」とは単に「キリスト教」とい うことと同義ではないということが考えられます。実は「主の道(単数)」と いう表現は新約聖書にはほとんど出てきません。五回だけです。他の四回は福 音書に出てきます。例えば、ルカによる福音書では3章4節に出てきます。 「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させる ために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてある とおりである。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をま っすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道は まっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」』 (ルカ3・3‐6)」他の三回もすべて平行記事におけるこのイザヤ書の引用 においてです。

 つまり、「主の道」とキリストの福音は同じではないのです。むしろ「主の 道」とは、洗礼者ヨハネのメッセージにおける言葉なのです。ヨハネのメッセ ージにおいて「主の道を整える」ことは、すなわち悔い改めることに他なりま せんでした。悔い改めて罪の赦しを得、救い主を迎えるのです。そのために、 ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を宣べ伝えていたので す。アポロはこのヨハネのメッセージを受け入れていたのです。悔い改めて立 ち帰り、ナザレのイエスこそメシアであるということも受け入れていたのです。 しかし、そこまででした。「ヨハネの洗礼しか知らなかった」とはそういうこ とです。

 では何が欠けていたのでしょうか。プリスキラとアキラはアポロに何を伝え たのでしょうか。ここには何も記されておりません。しかし、19章において、 やはり「ヨハネの洗礼」と「主イエスの名による洗礼」が出てきます。そうし ますと、ここでも問題になるのは、この二つの洗礼であることが分かります。 では「主イエスの名による洗礼」はどこが違うのでしょうか。

 この件に関しては、使徒言行録において「主イエスの名による洗礼」が初め て出てきた箇所が参考になるでしょう。使徒言行録2章38節以下を御覧くだ さい。ペトロは説教をした後、次のように勧めております。「するとペトロは 彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって 洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受け ます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべ ての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれに でも、与えられているものなのです。』(使徒2・38‐39)」つまり、主 イエスの名による洗礼は、聖霊が与えられる約束を伴うのです。悔い改めと罪 の赦しに留まらないのです。アポロはヨハネの洗礼を受けました。彼は確かに 悔い改めたでしょう。罪の赦しを喜んだでしょう。彼は主イエスをメシアとし て受け入れていたでしょう。しかし、彼は復活し、天に上げられた主が、聖霊 を豊かに注ぎ、聖霊に満たし、聖霊を通して今も生きて働き給うということを 知りませんでした。ですから、彼の宣教も自らの知識と雄弁に頼るものでしか ありませんでした。ルカがことさらに「聖書に詳しいアポロという雄弁家」と 語っているのは、その意味合いであろうかと思います。必要なすべては整って いるのに、最も重要な一事が欠けているのです。

 今日、多くのキリスト者が、なおアポロのような信仰生活をしています。そ の人は真面目であるかも知れません。確かに悔い改め、主に立ち帰った人であ るかも知れません。罪の赦しを受けたことを喜び、主を愛する者であるかも知 れません。しかし、なお自分の力によって悔い改めの道を歩み、自らの力によ って必死で良いキリスト者になるために奮闘しているのです。罪とも戦ってい ます。努力もしています。しかし、失敗し、挫折します。また改めて決心しま す。しかし挫折を繰り返します。いつしか諦めに支配されていきます。あるい はその人は一生懸命奉仕をする人であるかも知れません。一生懸命伝道もしま す。しかし、疲れてきます。苦しくなってきます。そんな自分を責め立てます。 さらに他人まで責め立てるようになります。そうしている内に、主のもとから 離れてしまう。そしてなお干涸らびていくのです。

 どこかが間違っています。そうです。神は、悔い改めた者たちが奮闘努力し て神のために何かをすることを求めているのではないのです。そうではなくて、 神は私たちを占領し、満たし、用いようとしておられるのです。私たちは器に なればよいのです。神との命の交わりの中に生き、神の霊に満たされることを 求めたらよいのです。主の名による洗礼が与えられているのですから。「私が、 私が」と言って生きることを止め、思いを自分の手から引き離し、主御自身に 向けるべきなのであります。丁度、パウロがしていたようにです。

 アポロを教えたのは、パウロではありませんでした。エフェソに移ってきた ばかりのテント作りの夫妻でありました。聖霊に満たされることを知っていた この夫妻が主の目的のために用いられたのです。そして、アポロはアカイア州 に移ります。彼はコリントに滞在するにいたります。こうしてエフェソにおい て、コリントにおいて宣教の新しい展開が始まりました。パウロの力によるの でなく、アポロの力によるのでなく、プリスキラとアキラの力によるのでもな く、ただ聖霊の働きによって、神の御業は確実に進んでいったのであります。

 
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