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「語り聞かせよ」

1997年5月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 申命記6・4‐9

 五月の第二日曜日は「母の日」です。この日、私たちはそれぞれの母親に対 する感謝の思いをもって礼拝に臨みます。またこの日は、私たちが家族につい て、特に親子の関係について、神の御前において省みる良い機会でもあります。 「母の日」制定の発端は、ウェストバージニア州の小さな教会で行われたジャ ービス夫人の記念会であったと言われております。その娘アンナが亡き母親の お気に入りだった花としてカーネーションを皆に配ったのです。1908年の ことでした。実は、この母親であるジャービス夫人は、26年の長きに渡って 日曜学校の先生を務めた人でありました。そうしますと、彼女はアンナの母親 であったと同時に、多くの教会の子供たちにとって、信仰の母親でもあったと 言えるでしょう。このことを考えますときに、この日は小さな個々の家族だけ でなく、大きな神の家族である教会について考える機会としても良いのではな いかと思います。そこで、今日の礼拝おいて私たちは、それぞれの家族のあり 方教会のあり方を主の御前で省みつつ、聖書の言葉に耳を傾けたいと思うので あります。

これらの言葉を心に留めよ

 本日与えられている聖書の言葉は、申命記6章4節から9節までです。「聞 け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂 を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じる これらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道 を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家 の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」

 いつの時代でも、多くの親たちが子育ての事、教育の事で悩んでまいりまし た。今日でも、育児や教育に関する雑誌や本が年々数え切れないほど書店の店 頭に並べられていることに、世の親たちの関心の深さが伺えます。もちろん、 私自身、関心をもってそれらを手にすることもあります。しかし、最近の育児 雑誌などを見ておりますと、育児の問題は育児の方法論や育児の理念の問題で しかないように考えてられているように思えてなりません。つまり「育て方が 良いか悪いか」が事を決するのだと考えられているということです。教育に関 しても同じことが言えるでしょう。教育の問題は、教育法や教育制度の問題で しかないと考えている人が多いように見受けられます。しかし、はたしてそれ は正しい事なのでしょうか。

 親たちは誰でも子供たちの幸せを願っているものです。大人たちは次の世代 の子供たちの幸せを願っていることでしょう。そのための努力が様々な形でな されているわけです。しかし、そのような努力の中で、現代人は一様に多くの 疑問を感じております。このままで良いわけがないと思っているのです。それ は単に方法論の問題ではないでしょう。むしろ問題は、子供たちが幸いになる ために、次世代が幸いに生きるために根本的に必要なものを、親たちがもはや 持ち合わせてはいないというところにあるのだと思います。もはや次の世代の 子供たちに確信をもって手渡せるものを、世の大人たちは持っていないのです。 「私はこれをもって生きてきましたよ。これを確かにあなたに手渡しましたよ 」と死の床において子供にや孫に自信をもって言い得る親たちがこの時代にど れだけ存在するでしょうか。渡すべき「中身」を持っていないという現実を直 視せずに、様々な「器」の問題として模索を続けていくならば、そこには絶対 に答えがないのであります。

 申命記6章7節には「繰り返し教え、語り聞かせなさい」と書かれておりま す。教えなさい、と命じられているのは、教える内容があるからです。方法云 々の前に、教え、語り聞かせるべき根本的な内容があるのです。それは4節と 5節に記されております。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主で ある。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛 しなさい。」聖書は私たちが子供たちに伝えるべきことを教えてくれます。ま ず手渡すべきものの「中身」を明確にするのです。イエス様はこれを第一の掟 と言われました。(マルコ12・29)ここに私たちは子供たちに対して最終 的に手渡すべきものを見いだします。それは至って単純なことです。真理は常 に単純です。子供たちの幸いを願うならば、何を差し置いてもまず神を愛する ことを教えなくてはなりません。私たちは次の世代の人々に、神を愛すること を教えなくてはならないのです。

 しかし、教えるに当たっては、子供たちだけに目を向けていてはなりません。 多くの親たちは子供のあり方だけを問題にいたします。しかし、聖書はそのよ うには語っておりません。6節には「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に 留め」と書かれています。ここで語りかけられているのは誰でしょうか。心に 留めるべきなのは誰でしょうか。ここで語りかけられているのは親たちです。 大人たちなのです。まず親たちから始められなくてはなりません。伝えるため には自らが受け入れなくてはなりません。手渡すためには、まず自らがそれを 自分のものとしなくてはなりません。親が神を愛することなくして、子供たち に神を愛することを教えることはできません。親が神を重んじることなくして、 どうして子供が神を重んじるようになるでしょうか。親が真の礼拝者となるこ となくして、どうして子供たちに神を礼拝する者に育てることができるでしょ う。教会の今の世代が真に神を愛し、神を礼拝する者とならなくて、どうして 次の世代に神を愛することを伝えられるでしょうか。教える前に「これらの言 葉を心に留め」と書かれていることを、私たちは見落としてはなりません。

主を愛しなさい

 さて、そこでまずここにいる私たちが、ここで命じられていることの内容を しっかりと受けとめたいと思うのです。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、 力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」私たちがこの言葉に生きるた めには、その意味するところをさらに深く考えてみる必要があります。

 この言葉を理解する上で、まず第一に心に留めるべきことは、「神を愛する 」という表現が古代オリエントにおいては決して一般的ではなかったという事 実です。これは、この国においてここかしこに祭られている神々に対して「愛 する」という言葉が一般的には用いられないことを考えれば理解できるであろ うと思います。さらに言えば、ここで「愛する」と訳されている言葉は、夫婦 や親子、恋人の間についても用いられている言葉であります。むしろその用例 の方が一般的です。そのような親子や夫婦の関係に喩えられるような深い人格 的な関係を神との間に見るのが、聖書における非常にユニークな点であると言 えるでしょう。対象を問わない御利益中心の信心や、信じる心そのものが尊ば れる日本的な信心理解に対して、「主を愛しなさい」と語られる聖書の神信仰 は明確に区別されなくてはなりません。

 そして、この言葉を理解する上で第二に心に留めるべきことは、今日の聖書 箇所の置かれている場面設定であります。申命記というのは、ご存じの通り、 モーセの説教です。これは「ヨルダン川の東側にあるモアブ地方」で語られた、 モーセの遺言とも言うべき説教なのです。(1・5)イスラエルが今やヨルダ ン川を渡り、約束の地に入ろうとしている場面です。それは、この説教の背後 に、40年に渡る荒れ野の旅があったことを意味します。その時を経て、今一 度モーセを通して神の言葉が聞かされているのです。しかし、その40年とは どのような年月だったのでしょうか。私たちはその歩みの詳細を民数記の中に 見ることができます。しかし、ここではむしろ申命記においてどのように語ら れているかを見ておきましょう。9章6節以下にはこのように書かれておりま す。「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得 させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民であ る。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れて はならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背 き続けてきた。」つまり、彼らはもともと主を愛してきた民ではなかったので す。その彼らに、改めて「主を愛しなさい」と語られているのです。というこ とは、この場合、「主を愛しなさい」という呼びかけは「悔い改めて神に立ち 返りなさい」ということに他ならないのです。

 これは、申命記そのものの成立状況を考えるとさらに明らかになります。申 命記はモーセの説教ですが、申命記の主要部分が書物として成立したのはヒゼ キヤがユダ王国の王であった時代であると考えられております。紀元前八世紀 です。この王については列王記下18章以下に記されております。この王の治 世について重要なことが二つあります。第一に、この時代に北のイスラエル王 国が滅亡したということです。第二に、南のユダ王国においてヒゼキヤは宗教 改革を行った王であるということです。フォン・ラートという学者は、北王国 が滅亡した時に、北から南に逃れてきたレビ人が、申命記のもととなった伝承 を南王国にもたらしたと考えます。それは十分に考えられることです。そうし てヒゼキヤの宗教改革の中で申命記が成り立ったとしますと、それはこの書物 の背後に、神に背き続けて滅亡した北王国があり、同じように背き続けてきた 南王国があるということを意味します。そこで再び「あなたの神、主を愛しな さい」と語られたとしたら、それは何を意味するでしょうか。それは「悔い改 めて主に立ち返りなさい」ということに他ならないのであります。

 さらに、ヒゼキヤの改革から約百年後、ヨシアという王が再び宗教改革を行 いました。これはしばしば申命記改革などと呼ばれております。この次第は列 王記下22章に記されております。この改革は、列王記においては、神殿にお いて律法の書が発見されたことを発端として行われたとされております。実際 にはヨシアの即位から既に改革は進行していたのかも知れません。いずれにせ よ、ここで発見されたのが、申命記の主要部分であろうと言われております。 そうしますと、ヒゼキヤに続くマナセ、アモンの治世、人々の主に対する背信 の時代の中で忘れ去られていた申命記が、再び日の目を見たことになります。 そこで人々は「あなたの神、主を愛しなさい」という言葉を聞いたのです。そ れはいったい何を意味するでしょうか。それは「悔い改めて主に立ち返りなさ い」ということに他ならないのであります。

 このように、「主を愛しなさい」という言葉は、主に背いてきた民に対する 新たな呼びかけなのです。神はこの書を通して、繰り返し人々に語りかけてこ られたのでした。そうしますと、ここに書かれております命令の言葉は、繰り 返し主に背いてきた人々に対し、逆らってきた人間に対し、なお立ち返ること を求め給う神の愛に基づいていることが分かります。この神の愛こそが、最終 的にキリストを世に送られた愛に他ならないのであります。そして、同じ言葉 をもって、今もなお立ち返るべきことを呼びかけていてくださる。本来なら当 の昔に見捨てられ、もはや呼びかけられる資格のないものに対して、「あなた の神、主を愛しなさい」と語られているのです。ですから、私たちは、自らが どれだけ主に背き、神の愛に背を向けてきたかを徹底的に省みることなくして、 ここにある「主を愛しなさい」という言葉を聞くことはできないのです。自ら 真実に悔い改めて主に立ち返ることなくして、「あなたの神、主を愛しなさい 」という命令を聞いたことにはならないのであります。

 そして、主は「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に 付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」と言われます。敬虔 なユダヤ人たちは今でもこれを文字通り守っています。それはそれとして意味 のあることでしょう。しかし、大切なのは、この勧めが意味するところです。 なぜ、手に結び、額につけ、柱にも門にも書き記さなくてはならないのでしょ うか。それは私たちが愚かだからです。忘れるからなのです。この呼びかけが どれほど大きな神の御愛に基づくか忘れ、その愛に基づいて悔い改め、立ち返 ることを忘れ、神を愛し神と共に生きることを忘れるからなのです。だから決 して忘れてはならない、ということがここで語られていることなのです。悔い 改め、立ち返り、神を愛し、神と共に生きるというのは、毎日の事であり、さ らに言うならばその瞬間瞬間が問われることなのであります。

 以上のように、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなた の神、主を愛しなさい」という言葉を、まず私たち自身が受けとめ、心に留め て初めて、7節の言葉が意味を持ってまいります。「子供たちに繰り返し教え、 家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、こ れを語り聞かせなさい。」神との愛の関係に生きる者として、あらゆる機会を 捉えて子供たちに語るのです。神が彼らにも呼びかけておられることを語り続 けるのです。これは現在人の親である人々にのみ関係する言葉ではありません。 これから親となっていく人たちもいるでしょう。あるいは、肉において人の親 となることはなくても、教会において次の世代を育てていくという意味におい ては、やはり親なのです。これは教会全体が取り組んで行かなくてはならない 課題です。

 あるいは、この箇所を読みながら、自らの家族を思う時に、「ああ、手遅れ だ」と思っている方もおられるかも知れません。しかし、主にあっては決して 遅すぎることはないのです。今日もなお「あなたの神、主を愛しなさい」と、 まず私たちに語られているではありませんか。まず、私たちから始まるのです。 私たちが悔い改めて主に立ち返り、神を愛し、神と共に生きるところから始ま るのです。そうです、すべては御言葉が語られているこの日から始まるのであ ります。

 
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