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「神の霊に満たされて」 

1997年5月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソ5・6‐20

むなしい言葉に惑わされてはならない

 今日お読みしましたエフェソの信徒への手紙5章6節には「むなしい言葉に 惑わされてはなりません」と書かれております。これを書いたパウロが「むな しい言葉」で意味しているのは、罪を美化し正当化する言葉のことです。パウ ロが言っていることは、その前の部分に関係しています。今日はお読みしませ んでしたが、そこには具体的にいくつかの事が記されております。例えば、 「みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なこと(4節)」そし て、「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談」などにもパウロは触れておりま す。

 ここで若干説明をしておきますと、「みだらなこと」とか「汚れたこと」が 意味するのは、性的な罪の事であります。具体的には結婚関係以外の性的な関 係の事であります。もちろん、性そのものが悪なのではありません。神は良き ものとして性の交わりを造られました。しかし、それは完全な責任を伴った関 係のもとにあって、初めて良きものとなるのです。だから結婚関係が前提とな るのです。無責任な性的な関係は、神の造られた美しいものを台無しにするば かりでなく、自分をも他人をも傷つけ苦しめることになります。無責任な性的 な関係のために、どれだけの若者が苦しみを刈り取っていることでしょう。ど れだけの家庭が傷つき、親が傷つき、子が傷つき、夫が妻が傷ついていること でしょうか。 また、「貪欲」が意味するところは「あれもほしい、これもほ しい」という抑制されない際限のない欲望のことです。もちろん「欲」そのも のが悪なのではありません。様々な欲が無ければ人間は死んでしまいます。し かし、その欲が野放しにされ、あるいは人の思いと生活を支配するようになる と、それは貪欲となります。これも多くの苦しみの根であるに違いありません。

 しかし、これらのことは、いくらでも美化され、正当化され得るのです。教 会の中にさえ、そのような「むなしい言葉」が出回っていたようなのです。そ れには二つの源が考えられます。一つは福音についての誤解です。例えば、ロ ーマの信徒への手紙6章1節には「では、どういうことになるのか。恵みが増 すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と書かれています。そのような ことを言う人たちがいたのです。「どうせ罪は赦されるのだから…」と安易に 考える者がいたのです。これに対してパウロは「断じてそうではない」と言い ます。私たちの罪が赦されるのは、罪の奴隷になるためではないのです。

 そして、もう一つの源は当時のギリシャ的な考え方であります。霊肉二元論 です。霊は良いものであり永遠であるが、肉は悪いものであり滅ぶべきもので あるという思想です。肉は霊を虜にしている牢獄のようなものと考えるわけで す。そうするとここから二つの生き方が生まれてきます。一つは極端な禁欲主 義です。肉体は悪いものだから苦しめるわけです。もう一つは放縦です。この 悪い肉に対して人間が何をしようと霊には無関係であると考えるのです。そう してみだらなこと汚れたことを正当化するのです。肉体はどうせ滅びるのだか ら何をしても良いというわけです。今日の聖書箇所に関係しているのは後者で す。

 さて、現代においてはどうでしょうか。罪を正当化するためにギリシャ思想 まで持ち出す人はいないでしょう。しかし、様々な仕方で罪が美化されている ことは現代においても見られます。例えば、男女の不倫と心中を描いた渡辺淳 一の「失楽園」が何百万部と売れることに、多くの人々は何の疑問も抱きませ ん。そして、渡辺氏はこれを「絶対愛の世界」と呼ぶわけです。彼は自分の妻 や家族の誰かが不倫をし心中をしても、それを絶対愛と呼ぶのでしょうか。こ んな馬鹿げた形において、いくらでも罪の行為が美化され、正当化されるので す。

 パウロは「むなしい言葉に惑わされてはなりません」と言います。なぜでし ょうか。ただ単にこの地上の生活で苦しみを刈り取るからではありません。永 遠の救いに関わるからであります。5節にこのように書かれております。「す べてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと 神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」こ れは「罪を犯した者は神の国に入れない」と言っているのではありません。そ うではなくて、罪を犯してもそれを正当化し、美化し、悔い改めようとしない 者について語られているのです。そのような人たちは「偶像礼拝者」だとパウ ロは言います。なぜでしょうか。それは本当の意味で神を神として愛し、敬い、 畏れていないからであります。罪を正当化しているかぎり、偶像礼拝者と同じ だということです。そして、神を神としていないならば、神の国に入り、これ を受け継ぐことはできません。この世で神を神として畏れない者が、来るべき 世において神の支配する神の国を受け継ぐ者となるはずがありません。少々考 えれば誰でも分かる当たり前の話です。ですから、むなしい言葉に惑わされて はならないのです。罪に陥っているならば、悔い改めて真実に神に立ち帰らな くてはなりません。

光の子として歩みなさい

 しかし、パウロはただ「これをしたら神の国に入れない。これをしたら神の 怒りが下る」という消極的な生き方を勧めているわけではありません。8節に はこう書かれています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結 ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」信仰者の生活は、本 来、神の怒りに恐怖を覚えながら戦々恐々として生きるようなものではありま せん。むしろ積極的に光の子として生きることを求めるべきなのであります。

 このことが意味するところを理解するためには「あなたがたは、以前には闇 でした」という言葉が重要です。「あなたは以前は闇の中に生きていた可哀想 な人でした」と言っていないのです。「あなたが闇そのものだったのだ」と言 っているのです。私たちは被害者意識と自己憐憫に陥りやすい者です。自分が 闇の中にいると感じる時、それは周りの人々の責任だと思っているものです。 しかし、人は自分が闇そのものとなっていることに気付きません。実にしばし ば、人を傷つけ、苦しめ、混乱させ、闇をもたらしているのは私たち自身なの です。悔い改めることなく、自らの罪を正当化して生きている時、その人は単 に「闇の中にいる」のではなく、「闇そのもの」となっているのです。

 そのように闇そのものであった者が「今は主に結ばれて、光となっています 」とパウロは言っているのです。あくまでも「主に結ばれて」です。光の源は 私たちのもとにありません。主の内にあるのです。私たちは月の表面のような ものに過ぎません。ごつごつとしてそれ自体は醜いものです。しかし、主イエ スの光を受ける時、私たちは光となり得る。当然のことながら、その光は主イ エスを離れれば失われます。「主に結ばれて」が意味するのは、主との人格的 な関係です。主から愛され、主を愛する。だから「何が主に喜ばれるか吟味し なさい(10節)」という言葉がその後に来るのです。主に喜ばれることが何 かを考えない主との交わりなどあり得ないことでしょう。

 そして、「光の中にある」ではなくて「光となっている」と書かれているこ とも重要です。光となっているならば、光を周りにもたらすことができるはず です。それは単に周りの雰囲気を明るくするということではありません。11 節にこう書いてあります。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、 それを明るみに出しなさい。」しかし、これは本来、罪を暴き立て、責め立て なさいということではありません。そんなことは言われなくても多くの人がし ていることです。そうでなくても、私たちは他人の罪ばかりを問題にし、責め 立てる傾向にあるのですから。ここで言われているのは、あくまでもキリスト の光をもたらすことです。

 そこで14節において、パウロは当時の賛美歌を引用いたします。「眠りに ついているもの、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストは あなたを照らされる。(14節)」罪の中にあって死んだようになっている者 に対して、神の呼びかけがここにあります。神はキリストの贖いによって人の 罪を赦し、永遠の命に生かそうとしておられるのです。そして、主に結ばれて 光とされた者を通して、キリストの光をもたらそうとしておられるのです。そ の恵みの光のもとで、罪が罪として明らかにされます。それまでは罪が罪とし て認識されないのです。みだらなことであっても、汚れたことであっても、そ れが罪とは認識されません。しかし、キリストの光がもたらされる時、罪が罪 であると分かり始めるのです。それがいかに深い闇の業であるかが分かってく るのです。そうして、「明らかにされるものはみな、光となる(14節)」。 つまり、そこで罪からの救いが起こるのです。

 パウロは「光の子として歩みなさい」と言いました。これは自らが光の内を 歩むだけではなく、キリストの光をもたらし、罪からの救いをもたらす者とな るということを意味するのです。

聖霊に満たされなさい

 そのようにキリストに結ばれ、光とされ、光の子として歩むにはどうしたら よいのでしょうか。どのようなことを考えて生活していったらよいのでしょう か。

 ここでまず15節でパウロはこう言っています。「愚かな者としてではなく、 賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」一般の道を歩く時であっても、 自分の足下が悪いことを知っており、転んだら怪我をすることを知っている人 は、注意深く歩くものです。それが賢い人です。同じように、自分がいかに罪 に陥りやすく、また罪を正当化するむなしい言葉に惑わされやすいかを知って いる人は、注意深くなるものです。そのように賢い者として歩みなさい、と勧 められているのです。

 それは「時をよく用いる」ことでもあります。ここで「時」と訳されている 言葉は、単なる時間のことではなくて、むしろ「機会」と訳され得る言葉であ ります。神様が与えてくださる時、神様が与えてくださる機会があるのです。 光の子として生き、主の御心を行う機会が与えられているのです。私たちの存 在の意義、人生の意味が確かにされるような機会が与えられているのです。も ちろん、時の与えられ方は人それぞれ違うでしょう。青年期と熟年期でも違い ます。しかし、とにかく与えられているのです。人生の意義を求めて自己実現 にあくせくしなくても、自分が本当に生かされる機会というのは与えられてい るものなのです。

 しかし、そのような「時」は、私たちが愚かに生きていれば、確実に失われ ていきます。愚にもつかぬものに捕らわれて、あるいはみだらなこと、汚れた ことに捕らわれているうちに、失われていくのです。そうしているうちに一生 は終わりです。そのような一生であるならばなんと惨めなことでしょう。それ ゆえ、神が与えてくださる「時」を生かして用いなくてはなりません。これは 原文においては、「時を買う」という表現が用いられております。そのような 時が失われてしまわないために、多少犠牲を払っても、それを自分のものにし なくてはならないのです。そして、パウロは「無分別な者とならず、主の御心 が何であるかを悟りなさい(17節)」と勧めます。私たちは主の御心が何で あるかを悟らなくてはなりません。御心を知ることを求めることなくして、主 の与えてくださる時を生かして用いることはできないのです。

 そして、さらに18節以下には次のように記されております。「酒に酔いし れてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩 編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの 名により、父である神に感謝しなさい。(18‐20節)」パウロの一連の勧 めは、ここで礼拝の事柄に至ります。しかし、その前に「酒に酔いしれてはな りません。それは身を持ち崩すもとです」と書かれております。なぜ酒の話が 出てくるのでしょうか。これは単なる禁酒の勧めではないことはすぐに分かり ます。そんなことは何も聖書が語るほどのことでもありません。むしろ、これ はその後の言葉に関連していると思われます。その後には「むしろ、霊に満た され」と書かれているのです。これは神の霊、聖霊に満たされるということで あります。そうすると、本来、聖霊が満たすべきところを他のものが満たして いるというところに問題があるということでしょう。

 パウロの言葉の背後には、酒の神ディオニュソスの祭儀に伴う乱痴気騒ぎが あったと思われますが、そのようなものは現代にも見られることであります。 虚しさを何かで満たそうとする。孤独感を何かで満たそうとする。欲求不満を 何かで満たそうとする。それは酒ばかりではなかろうと思います。もろもろの ものが誤魔化しの代替物となり得ます。しかし、そのようなものではなく、神 の霊に満たされなさいとパウロは言っているのです。そして、心からの賛美を 捧げ、感謝を捧げなさいと言っているのです。神の霊に満たされて、心から主 を誉め讃えて生きる者となること、これこそまず私たちの求めるべき姿なので あります。光の子とされている者のあるべき姿なのであります。

 さて、以上見てきたように、ここでは二つの生き方が対比されております。 むなしい言葉に惑わされ、みだらなこと汚れたことに時を用い、貪欲を正当化 して生き、虚しさや孤独を酒の類で誤魔化し、闇そのものとなって周りにも闇 をもたらし、そのような一生を経て結局は神の国を受け継ぐこともない。人は そのような者として生きることも可能です。しかし、そうではなくて、キリス トに結ばれて、キリストの光を受け、キリストの命を与えられ、聖霊に満たさ れ、神を誉め讃え、神に感謝して生き、光の子として周りにも光をもたらし、 そのような一生を経て神の国を嗣ぐ―そのような者として生きることも可能な のです。私たちは後者のような者として生きることを求めていきたいものです。 そのような者となるべく、ここに招かれているのですから。

 
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