「主イエスの名による洗礼」                        使徒19・1‐10  19章にはパウロのエフェソにおける働きが記されております。第二回目の 宣教旅行の際に彼がエフェソに立ち寄った時は、「神の御心ならば、また戻っ てきます(18・21)」と言ってそこを後にしたのでした。そのパウロが神 の御心により、再びエフェソの地を踏むに至ったのです。そこで彼は何人かの 弟子たちに出会いました。7節を読みますと、その数は十二人ほどであったよ うです。しかし、「出会い」と書かれているところを見ると、明らかにパウロ によって信仰に導かれた人々ではありません。彼らはいったいどのようにして 「弟子」となったのでしょうか。  パウロが来る前にエフェソにいたのはアポロという人物です。話の流れから すると、この十二人は直接アポロによってか、あるいは彼の影響のもとに、導 かれた人々のようです。彼はどのような人だったでしょうか。18章の24節 以下を思い起こしてください。「彼は主の道を受け入れており、イエスのこと について熱心に語り、正確に教えていた(25節)」と書かれております。し かし、アポロは「ヨハネの洗礼」しか知らなかった人でありました。彼が語っ ていたことは、基本的には洗礼者ヨハネのメッセージと軌を一にするものであ ったと思われます。つまり、イエス・キリストの福音に本質的にはまだ触れて いなかったのです。ですから、アポロに対しては、プリスキラとアキラが「も っと正確に神の道を説明」しなくてはなりませんでした。そのようなアポロと の関わりの中で導かれた人々であるならば、当然アポロと同じ問題を持ってい るはずです。はたして、パウロが十二人の弟子たちに対して「どんな洗礼を受 けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネの洗礼です」と答えたのでした。 この事情はアポロとの関わりから理解することができるでしょう。 ヨハネの洗礼  さて、この「弟子」たちに本質的に欠けているものを見たパウロは、「信仰 に入ったとき、聖霊を受けましたか」と彼らに尋ねました。すると彼らは次の ように答えたのです。「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありませ ん。」このように答えた十二人の弟子たちがいかなる状態にあったかを知るに は、先に触れました洗礼者ヨハネのメッセージを振り返ってみる必要がありま す。遡って、ルカがヨハネのメッセージをどのように書き記しているかを見て みましょう。ルカによる福音書3章をお開きください。そして、しばらく開い たままにしておいてください。  洗礼者ヨハネはキリストの先駆者です。「そこでヨハネはヨルダン川沿いの 地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた (ルカ3・3)」と書かれております。そして、7節以下にはヨハネの言葉が 具体的に記されております。「そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして 出て来た群衆に言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれ が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」 などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブ ラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれて いる。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』そこで 群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、 『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っ ている者も同じようにせよ』と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、 『先生、わたしたちはどうすればよいのですか』と言った。ヨハネは、『規定 以上のものは取り立てるな』と言った。兵士も、『このわたしたちはどうすれ ばよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『だれからも金をゆすり取ったり、だ まし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言った。(7‐14節)」  非常に具体的です。悔い改めと生活の変革が語られていたわけです。そして 来るべきメシアを迎える備えをするようにというのがヨハネのメッセージであ りました。この時にヨハネから洗礼を受けた人々は、その弟子の群れを形成し ていたものと思われます。アポロがヨハネのメッセージに触れたのは、その流 れにおいてであるに違いありません。アポロもまた悔い改めて、ヨハネの洗礼 を受けた人であったからです。そして、使徒言行録19章に出てくる十二人も また、悔い改めて、このヨハネの洗礼を受けた人々なのであります。  しかし、どうも解せないのは、その先です。ヨハネは人々に向かってこう言 うのです。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた 方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、 聖霊を火であなたたちに洗礼をお授けになる。(ルカ3・16)」ここにおい てヨハネは「聖霊」について語っているではありませんか。ヨハネの洗礼を受 けたはずのあの十二人は、どうして「聖霊があるかどうか、聞いたこともあり ません」などと言ったのでしょうか。このヨハネの言葉は彼らに伝えられてい なかったのでしょうか。  そこで私たちは洗礼者ヨハネの言葉を注意深く読む必要があります。私たち が使徒信条などで告白する三位一体の神の第三位格である聖霊について、ヨハ ネが本当に語っているかどうかをまず検証しなくてはなりません。そうします とすぐ気がつくのは、ヨハネの言葉は16節で終わっていないということです。 17節があるのです。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいに し、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ここで イメージされているのは脱穀の様子です。農夫が箕をもって麦を空中に放ると 風がもみ殻を吹き分けるのです。そして麦は倉に入れられ、殻は焼き払われる。 つまり、これは最終的な神の裁きであります。するとヨハネが語っている「聖 霊と火のバプテスマ」における「火」とは裁きの象徴であることが分かります。 では、聖霊はどうでしょう。実は、ヨハネが使っていたであろうアラム語にし ても、福音書に用いられているギリシャ語にしても、「霊」と「風」とは同じ 単語なのです。ですから、ここで言われているのは「聖なる風」ということで もあるわけです。そうしますと、脱穀のイメージからすると、こちらももみ殻 と麦を吹き分ける裁きの象徴であることが分かります。要するに、ヨハネはあ くまでも、最後の裁きをなさる方としてのメシアを語っているのです。ですか ら、そのメッセージを受けてヨハネの洗礼を受けた彼らにとって、「聖霊を受 けましたか」という問いは、まったく意味をなさなかったはずなのです。  このように考えてきますと、パウロがこの十二人ほどの弟子たちに出会った 時、彼らの信仰生活がいかなるものであったか、だいたい想像することができ るでしょう。彼らは自らの罪を示され、神に立ち帰り、悔い改めた人々である には違いありません。そして、ヨハネの洗礼を受け、悔い改めにふさわしい実 を具体的に結ぶために努力もしていただろうと思います。ヨハネの言葉はそれ ほどに具体的であったからです。そして、ヨハネの言っていたように、メシア を信じたのだろうと思います。そのメシアとナザレのイエスというお方がどれ ほど彼らの内で一致していたかは分かりません。というのも、4節でパウロが 彼らに改めて「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるように と、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」と言っているからです。い ずれにせよ、彼らの信仰生活において意識の中心は、来るべき神の怒りと裁き から逃れることであったに違いありません。つまり、もみ殻のほうではなくて、 倉に取り入れられる実の方となることに、信仰生活の目的が置かれていたに違 いないのです。  このような信仰生活のあり方は、現代においても、決して珍しいものではあ りません。終末へ備えるということは、もちろん無視することの出来ない信仰 生活における大切な要素でありますが、終末における裁きが殊更に強調されま すと、信仰生活は不健全なものとなりかねません。実は、私自身そのような思 いでいた時がありました。ただ神の怒りを免れるために悔い改めをし、ただひ たすら裁かれないために努力し、悔い改めの実を結ぶことを努め、なんとか堕 落しないで人生を終えることだけを求める信仰生活。神の国に入るための引き 替えとしての義務でしかない教会生活。それは真面目な営みであることには違 いないと思いますが、やはり信仰生活としてはダイナミックな真の命を欠いて いると言わざるを得ないでしょう。パウロは十二人の弟子たちの中にそのよう な問題を見たのだと思います。それゆえ、彼らに「信仰に入ったとき、聖霊を 受けましたか」と問わざるを得なかったのです。 イエスの名による洗礼  そして、彼らの受けたヨハネの洗礼の意味を語り聞かせたのでした。パウロ は言います。「ヨハネは自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、 民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。(4節)」悔い改めて裁きを免 れることが信仰生活のすべてではないのです。悔い改めにはその先があるので す。それは「イエスを信じる」ということであります。既に来られたメシアで あるイエスを信じるのです。十字架にかかって私たちの罪の贖いをしてくださ った苦難のメシアであるイエスを信じるのです。神と人との完全なる和解をも たらしてくださったイエスを信じるのです。神と人との命の交わりをもたらし てくださったイエスを信じるのです。復活して今も生きておられ、私たちの主 となってくださったイエスを信じるのです。そして、聖霊を豊かに注ぎ、聖霊 を満たし給うイエスを信じるのです。聖霊によって私たちの内に神の現臨をも たらし、聖霊を通して今も働いておられるイエスを信じるのです。実に、この お方は、洗礼者ヨハネがはからずして語った「聖霊によって洗礼を授ける方」 となられました。それゆえ、イエスを信じて受ける、イエスの名による洗礼に は聖霊の約束が伴うのです。かつてあのペンテコステの日に、ペトロは人々に 言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗 礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けま す。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべて の人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにで も、与えられているものなのです。(使徒2・38‐39)」この約束はもち ろん、私たちにも与えられているのです。  エフェソの弟子たちはパウロの言葉を聞いて、主イエスを信じ、主イエスの 名によって洗礼を受けました。そして「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊 が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした」と書かれておりま す。ここで大切なことは、異言や預言などの超自然的な現れではありません。 もちろん、それらを否定する必要はありません。しかし、それらは数ある聖霊 の賜物の一つ一つに過ぎないのです。必ずしもすべての人が経験するものでは ないでしょうから、それらを「聖霊が降ったしるし」と見なす必要もありませ ん。ルカがこの二つの現れをあえて書き記すことによって表現しようとしてい るのは、彼らの内に確かに神が臨まれた、現臨されたという事実なのです。今 まで悔い改めと決心と努力によって生きていたであろう彼らに、聖霊が降り、 彼らの内に主が臨まれ、彼らを真の礼拝者となし、かつ彼らを通して主が働き 始められたという出来事を、ルカは書き表そうとしているのです。  これは私たちに聖霊が臨む場合でも同じです。私たちにとって大切なことは、 どのような経験をしたか、ではありません。どのような感情的な変化があった か、あるいはどのような超自然的な現れがあったかが本質的に重要なことでは ないのです。経験というものは人それぞれ異なります。尊いのは、主が私たち の内に臨まれ、私たちを通して働き給うという事実そのものです。土の器に過 ぎない私たちを清めて用いられ、共に神を礼拝するものとなし、また人々の救 いのために用いられるという事実こそ本質的に重要なことなのです。  では、聖霊に満たされたという「しるし」は必要ないのでしょうか。聖霊が 与えられているという確証は必要ないのでしょうか。感覚的に捉えられる「し るし」を求めるのは人情として理解できます。多くの人々が今日もそのような 「しるし」を求めているに違いありません。しかし、このことに関しても私た ちは信仰によって歩むべきなのでしょう。聖霊は神なるお方でありますから、 コップの水のように人間の手で自由にできるものではありません。自由は聖霊 の側にあるのです。私たちには聖霊の約束を伴う主イエスの名による洗礼が与 えられております。それで十分なのであります。そしてまた主イエス御自身も、 ただ信頼して求めるべきことを語られました。「あなたがたの中に、魚を欲し がる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しが るのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い 者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして 天の父は求める物に聖霊を与えてくださる。(ルカ11・11‐13)」であ るならば、私たちはただ信頼して祈り求めたらそれで良いのです。  かくしてこの十二人ほどの弟子たちはエフェソの教会を形作っていきました。 パウロのしたことは、終末の裁きだけを見ていた彼らの信仰に、聖霊の働き給 う「教会の時代」を位置づける働きでもあったと言えるでしょう。その終末に 至る教会の時代における教会の働き、特にエフェソにおける教会の働きが、そ の後の8節以下に記されているわけです。細かくは次回以降に読んでいきます が、大切なことは教会の時代に属するという意味では、パウロの働きも私たち の働きも同じだと言うことです。二千年ほどの開きはありますが、それでも同 じ「時」に属するのであります。そこにおいて神は聖霊によって、パウロを通 し、代々の教会を通し、そして私たちを通して働き給い、救いの御業をなして おられるのであります。