「霊の戦い」
1997年6月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録19・8‐20
本日は19章20節までをお読みしました。ここにはパウロのエフェソにお ける伝道の様子が記されております。特に今までの伝道において見られなかっ た新しい事柄として目を引きますのは19節の言葉です。「また、魔術を行っ ていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を 見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。」銀貨五万枚はたいそうな額です。 だいたい銀貨一枚を通常の労働者の日当と見ますと、約137年分の給料に相 当します。この町に魔術に関する書物がそれほど存在したのは、エフェソが当 時の魔術を行う者たちにとっての中心地だったからでした。そこには夥しい数 の魔術師たちがいたのです。その中には、今日の箇所にも出てきましたユダヤ 人の祈祷師たちもおりました。ちなみに古代の魔術の世界においては、ユダヤ 人の祈祷師たちは一目置かれていたようです。彼らは非常に強力かつ有力な神 の名を持っていると見られていたからであります。ユダヤ人の祭司長スケワの 息子たちも、そのような魔術的行為を行っていた人たちなのでしょう。そのよ うな世界にパウロは入っていったのであります。ですから、エフェソにおける 伝道はこの魔術との対決を抜きにして考えることはできないのであります。
さて、「魔術」と聞きまして、多くの方々は何か縁遠いもののように感じら れるかも知れません。しかし、その本質を考えますときに、エフェソの状況は 私たちと決して無関係ではないのです。魔術的行為の根底には何があるのでし ょう。そこには、どのようなものであれ、超自然的な力、神的な力を支配し、 自由に用いたいという人間の欲望があるのです。魔術はあくまでも人間をこの 世界の中心に置こうとする行為なのであります。それは必然的に人間のエゴイ ズムを引き出すものでしかありません。それゆえ、魔術的行為を通して人が超 自然的な現象に触れたとしても、その行為そのものは決して神に対する愛と従 順へと人を導くことはないのです。むしろ、神から人を引き離すものでしかあ りません。言い換えるならば、魔術的行為の真の主体は人を神から引き離す力 に他ならないのです。それを聖書的な表現に従って悪霊と呼んでもよいでしょ う。そう考えますと、悪しき霊の働きとしての魔術的行為は、現代においても 形を変えていくらでも見られるのです。ある時には姓名判断や占いや加持祈祷 として、あるいはチャネリングなどのオカルト的行為として現れます。あるい はカルト宗教やニューエイジ・ムーブメントとして、さらには自己啓発セミナ ーなどの仮面をかぶって、私たちの身近なところにいくらでも存在するのであ ります。いや、現代において、人を恐れによって支配し、あるいは欲望によっ て支配し、罪に引きずり込み、神から引き離す悪しき霊の働きは、むしろその ような宗教的な様相を呈していないところにこそあるのかも知れません。パウ ロは後にエフェソの教会に次のように書き送りました。「わたしたちの戦いは、 血肉(すなわち人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の 支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。(エフェソ6・12) 」これは魔術の中心であったエフェソではない、現代の日本に生きる私たちに も言えることでしょう。
御言葉の宣教によって
では、パウロはこのエフェソにおいて、いかなる仕方でこの闇の力との闘い を進めていったのでしょうか。まずそのことを見ておきたいと思うのです。彼 は当時の祈祷師たちのように、悪霊払いをして回ったのでしょうか。いいえ、 そうではありません。彼のすることは、エフェソであろうが他の町であろうが、 結局どこに行っても同じです。8節以下には次のように書かれております。
「パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人 々を説得しようとした。しかし、ある者たちが、かたくなで信じようとせず、 会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退か せ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。(8‐9節)」
パウロは何よりもまず神の言葉を語り続けたのであります。そのテーマは神 の国であったとルカは伝えています。パウロは神の国、神の支配を語ったので あります。神の支配がイエスという方の到来と共に既に始まっていることを語 ったのであります。神の国は、悔い改め、イエスを信じ、罪の赦しを受けるす べての人に開かれていることを語ったのであります。終末に約束されていた神 の霊が注がれ、人は神が現臨し恵みをもって治め給う現実の中に生きることが 出来る。神の国はこのように始まり、人々は招かれ、そしてやがてキリストの 再臨において完成する。パウロはこの神の国について論じ続けたのであります。
しかし、ユダヤ人だけでなく、信じるすべての者に神の恵みの支配が開かれ ているという教説は、ユダヤ人たちの民族主義的な心情とぶつからざるを得ま せんでした。パウロは三か月にわたって論じたにもかかわらず、ある者たちは かたくなになり、「会衆の前でこの道を非難」し始めました。残念ながら他の 町々で起こったことは、やはりエフェソでも起こったのでありました。
そこでパウロは会堂から離れ、ティラノという人の講堂に場所を移します。 これは一面においては悲しむべきことですが、結果的には伝道の働きを進展さ せることになりました。安息日のみならず、毎日彼は御言葉を語る機会を得た からであります。ティラノが教師であったのか、それとも講堂の持ち主であっ たのか、はっきりしたことは分かりません。いずれにせよ、朝に夕に哲学が講 じられてきた場所であったと思われます。その場所を昼間に使うことができま した。昼の暑い時間帯には、学校に限らず公の活動が停止しているのが常であ ったからです。そこにおいて、パウロは毎日御言葉を語り伝えたのであります。
このことは、パウロにせよ他のキリスト者にせよ、神の言葉が語られ聞かれ ることを、いかに重んじていたかを表しております。パウロは早朝をテント造 りに費やし、人々が昼寝をしている昼間の暑い時間を宣教に当て、そこに全精 力を注いだのでした。他のキリスト者も、決して好ましい時間帯ではなく、ま た良い環境とは言えないところにおいて、御言葉を聞くために熱心に集まった のです。このようにして、御言葉が教えられ、学ばれ、語られ、聞かれ、そし て伝えられていったのであります。その結果どうなったでしょうか。「このよ うなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア 人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった(10節)」のであります。
「しるし」か「魔術」か
そして、さらに11節以下に次のように書かれております。「神は、パウロ の手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛 けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほど であった。(11‐12節)」
これはいったいどういうことでしょうか。手ぬぐいや前掛けに、パウロの霊 能力が移ったとでも言うのでしょうか。多分この箇所を根拠としてなのでしょ うが、以前アメリカのテレビ伝道者が、自分の手形を押したハンカチを通信販 売しているのを知って驚いたことがあります。それを買って病人のところに持 っていって触れさせると病気がいやされるのだそうです。はたして、ここに記 されているのは、そのような次元のことなのでしょうか。
私は新共同訳において、11節の前に小見出しが入れられていることを大変 残念に思います。というのも、10節までと11節以下を分けるところに誤解 が生じるからであります。神の言葉の宣教といやしの出来事は一連の事柄なの です。つまり、神の言葉の宣教に伴うしるしとして、いやしなどの奇跡が語ら れているのであります。神の国が語られるに伴い、神の国を指し示すしるしと して、恵みの支配が既に始まっている現実を神自ら現してくださった。それが ここに書かれていることなのです。パウロは、当時の祈祷師がしたように病気 のいやしや悪霊払いの行為を単独ですることはありませんでした。あくまでも 神の国を宣べ伝えることが中心だったのであります。
私は、ここに書かれているようないやしや奇跡が現代でも起こると信じてお ります。身近なところにおいて見たり聞いたり、私自身経験にも経験がないわ けではありません。現代の教会にこのようなことが見られたとしても、私たち は少しも奇異に思う必要はないのです。しかし、―ここからが大事です―神の 言葉の宣教から離れて病気のいやしなど、しるしそのものが求められる時、そ れは魔術と同じ類のものとなってしまう危険があることを忘れてはなりません。 悔い改めて神に立ち帰り、神の御支配のもとに、神と共に生きるべきことが語 られ、聞かれることなくして、ただ病気のいやしや問題の解決が求められる時、 それは魔術的な行為と同じものとなってしまうのです。そこで病気がいやされ、 問題が解決されればされるほど、人の思いは人間中心となり、神から離れてい くのです。そして、神から離れたところに本当の救いはないのです。神の言葉 を離れた奇跡の中に、人間の救いなどないのです。
神の言葉を聞くことなく、神の国を求めることなく、ただパウロの奇跡その ものに心惹かれた人々は当時にも沢山いたものと思われます。そのような人々 の中には、各地を巡回しているユダヤ人の祈祷師たちもおりました。祭司長ス ケワの七人の息子たちもそのような人々の中にいたのです。13節以下を御覧 ください。
「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取 りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣 べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。ユダヤ 人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は 彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく知って いる。だが、いったいお前たちは何者だ。』そして、悪霊に取りつかれている 男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、 彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。このことがエフェソ に住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、 主イエスの名は大いにあがめられるようになった。(13‐17節)」
ここには、主イエスの名によって神の力を自由に行使できると考えていた人 々がおります。彼らはイエスをメシアとして受け入れようとはしませんでした。 彼らは主を信じて神の国に入ろうとはしませんでした。神の御支配のもとに生 きるのでなく、ただイエスの名を通して神の力だけを利用しようとしました。 彼らは言います。「パウロの宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じ る」。ここに見ますように、主イエスとパウロとの関係は、主イエスと彼らと の関係とは明らかに異なります。ですから、いざというときにぼろが出るので す。スケワの息子たちは、ひどい目に遭いました。主はあなどられる方ではあ りません。神は絶対的な主体であって、私たちがその権威に服するとき、神は 恵みをもって私たちを治め給います。しかし、私たちが主人となって、神の力 を利用しようとするとき、神は決してそれを良しとはされないのであります。 それは自らに裁きを招くことになるのです。
そのような祈祷師たちが一方におりましたが、他方において、信仰に入った 大勢の人が来て、自分たちの悪行を告白し始めました。この「悪行」と訳され ている言葉は、原文ではただ「行為」という言葉ですので、前後の関連からす ると、自分たちが関わっていた魔術的な行為のことであろうかと思います。魔 術を行っていた者たちはその書物を皆の前で焼き捨てました。先に見たとおり、 これは莫大な金額に換算されうるものです。彼らは惜しげもなく、それらを捨 て去ったのでした。ここに神から人を引き離そうとする悪しき勢力の完全な敗 北を見ることができます。人々は、解放された者として、神と共に生き始め、 永遠の救いを得たのであります。それは、他ならぬ神の言葉の力によるもので した。それゆえ、ルカは20節にこう記します。「このようにして、主の言葉 はますます勢いよく広まり、力を増していった。」
最後にエフェソの信徒への手紙6章10節以下をもう一度読んでおきましょ う。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪 魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わ たしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界 の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日に よく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の 武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとし て着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾 として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すこと ができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を 取りなさい。(エフェソ6・10‐17)」信仰者は戦いを取り違えてはなり ません。それは人間に対するものではなく、悪しき勢力に対する霊的な戦いな のであります。これは根本においては神の戦いです。それゆえ、私たちは神の 言葉に根ざして生き、神の武具をいただき、さらに神の言葉を宣べ伝えること によってこの戦いに勝利することが出来るのです。