「わたしだ。恐れることはない」
1997年6月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ14・22‐33
今日の聖書箇所はキリストの奇跡物語の一つです。キリストが水の上を歩か れたという物語です。そして、さらにはペトロまでが水の上を歩いたという話 であります。私たちはこれをどのように理解したらよいのでしょうか。もし誰 かが「彼らはどのようにして水の上を歩いたのですか」と問うならば、「分か りません」と答えるしかありません。恐らくこれを書いたマタイも「分かりま せん」と答えるしかなかったでしょう。しかし、それでもマタイがこの奇跡物 語を書き記しているのは、それをもって伝えたいことがあったからであります。 私たちは、奇跡そのものについてあれこれと詮索するよりも、むしろこの出来 事が語っているメッセージを受け止めなくてはなりません。
この物語を理解するために
この物語を理解する上で助けになることがいくつかあります。まずマタイに よる福音書そのものの構成です。この福音書を読みますと、最初にイエス様の 誕生物語があります。毎年クリスマスに読む箇所です。そして最後には十字架 と復活の物語があります。実は、その間の部分は五つに分かれまして、それぞ れの部分にイエス様の長い説話が出てきます。有名なのは5章から7章の「山 上の説教」でしょう。ほかに四つ出てきますので、マタイによる福音書を全部 読んで探しててみてください。これらの五つの説話を中心に福音書を記してい るマタイの念頭にあったのは、モーセの五書であろうと言われます。(モーセ 五書とは創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。)これ は言い換えるならば、イエス様をある意味で第二のモーセであるかのように書 いていることを意味します。今日はこの点に関してこれ以上細かいことを申し 上げることはできませんが、結論だけを申し上げますと、そこに教会について の一つの理解があるのです。つまり、モーセによって荒れ野を導かれ、約束の 地であるカナンに入れられたのがイスラエルの民であるように、キリストによ ってこの歴史の中を導かれ、終末の向こう側にある約束の地、天の御国に向か っているのが教会である。そのような書き方がなされているのです。ですから、 当然、今日お読みしました物語の中にも、そのような教会理解が反映している ものと考えられます。
そして、マタイがそのような書き方をしているのは理由があるのです。とい うのも、マタイがこの福音書を書きました頃には、既に帝国レベルの迫害が始 まっているのです。教会はうれしい楽しい集まりである、という次元では成り 立っていかないのです。共に集まって礼拝をするということは、大きな犠牲を 伴う、時には命の犠牲を伴ったわけであります。なぜ共に集まり、共に礼拝す る共同体を形成していくのか。その答えは、もはや「信仰の助けになるから」 とか、「集まると楽しいから」というところには無いのです。そこでどうして も明らかにされなくてはならなかったのは、この共同体がどこに向かっている のか、ということだったのであります。信仰者の共同体はキリストによって導 かれ、天の御国に向かっているのだ。そのことが明確に語られなくてはならな い状況があったのであります。
そしてさらに言いますならば、この福音書が書かれた時には、ペトロなど第 一世代において指導的だった人々は既に死んでしまっております。この福音書 は内容的に見て紀元70年以降に書かれたと思われるからです。(伝承により ますと、ペトロは60年代に皇帝ネロのもとで殉教しました。)先ほど読んだ 物語では、ペトロは溺れないで助かっております。しかし、この福音書を読ん だ読者は知っているのです。実際には、ペトロは死んでしまった。あの時は助 かったけれども、結局は嵐の中で海の藻屑となってしまうかのように、迫害の 中で彼は死んでしまった。他の多くの使徒たちも死んでしまった。彼らはその ことを知っているのです。この物語は、そのような読者にまず語りかけていた のだということを私たちは理解しなくてはなりません。
以上のことを踏まえた上で、この物語を読みますと、なるほどここには教会 の事が書かれており、そして個々の信仰者に対する問いかけがあることが分か ってまいります。それでは、物語に入っていきましょう。
向こう岸へ向かう舟
22節から27節までをもう一度お読みいたしましょう。「それからすぐ、 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を 解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになっ た。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から 何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明ける ころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イ エスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあ まり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。 わたしだ。恐れることはない。』(22‐27節)」
マタイはここで弟子たちが経験した出来事を書き記すことによって、教会に ついて大切なことを語っております。教会は、向こう岸に向かう舟であり、そ こに乗っている弟子の群れであるという理解がこの物語に重ねられているので す。
彼らはキリストによって、強制的に舟に乗せられ、湖の上に送り出された者 たちです。キリストの周りには大勢の群衆もおりました。しかし、教会はキリ ストの周りにいた群衆と同じではありません。この前にはパンの奇跡が記され ております。人々は満腹しました。またキリストの力を見ました。それゆえ彼 らは、このイエス様を彼らの王にしようとしました。この方こそ政治的な解放 者となってくれると考えていたのです。彼らはこの世におけるパンを求め、こ の世における解放を求めました。そして、確かにキリストは人々を憐れまれ、 パンを与えられました。しかし、キリストが求めておられるのは御自身の周り に群がる群衆ではありません。キリストは弟子となる者を求めておられるので す。それゆえキリストは群衆を解散させます。キリストは退かれます。弟子た ちを群衆から分かたれます。そして、舟に乗せて送り出されるのです。嵐の待 ち受ける湖へと送りだされるのであります。それは向こう岸へ行かせるためで あります。教会は歴史の彼岸である天の御国へと向かわせられる舟であり、そ の舟にあって運命を共にする弟子たちの群れなのです。
舟は逆風に遭い、波に翻弄されます。岸にいるならば、嵐は関係ありません。 向こう岸へ向かう舟であるゆえに、風に悩まされ、波にもまれます。そして、 そのような夜を過ごすのです。25節には「夜が明けるころ」と書かれており ます。これは正確ではありません。ここには直訳すると「夜回りの第四時」と 書かれております。ローマの時の数え方は夜を四つに分けるのです。その「第 四時」です。ですから、あくまでもここで言われているのは「夜明け前」のこ とです。夜明けはまだ先のことなのです。舟は夜明けまでの時を悩みつつ過ご すのです。その中で、弟子たちは恐怖に襲われます。当然のことでしょう。イ エス様が近づいて来られました。「幽霊だ」と言って叫びます。彼らがどれほ ど逆風と大波の中で過ごす夜に苦しみ、悩み、恐れに捕らわれていたかが分か ります。しかし、そのような彼らに主は言われるのです。「安心しなさい。わ たしだ。恐れることはない。」
古代の人々にとって海(もしくは湖)は混沌の勢力の象徴でありました。し かし、旧約聖書には、その海をも神は支配しておられるという信仰が言い表さ れております。神は、人間を滅ぼす混沌の力、闇の勢力を支配しておられるの です。ですから、ここでキリストが水の上を歩いて来られたということもまた、 キリストが神の権威をもって混沌の力を治めておられることを象徴しているの です。海を踏みしだいてキリストは来られるのです。そして言われるのです。 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
これがマタイの伝えようとしているキリストの姿です。そしてこの語りかけ を聴くのが教会なのです。しかし、この物語によって読者はまず問いかけられ なくてはならないでしょう。あなたはこの舟の中にいるか。あなたは本当に向 こう岸へと向かっているのか。もし向こう岸へと向かっている者であるならば、 風と波に悩むことはあるでしょうけれども、必ず向こう岸へ着くのです。夜が 明けるまでどれほど闇の中に恐れおののきつつ長い時を過ごそうとも、必ず夜 は明けるのです。いや、本来恐れる必要もないのだ、と聖書は語るのです。な ぜなら、混沌の勢力を治めておられる方が、「安心しなさい。わたしだ。恐れ ることはない」と言ってくださるからであります。それゆえ、私たちは目先の ことに捕らわれていてはなりません。私たちにとって本当に重要ななことは、 昨日や今日、嵐の中にあるか否かではないのです。私たちが常に心に留めるべ き決定的に重要な問いは、「私はキリストの弟子であり、舟の中にいる者であ り、向こう岸へと向かっている者であるのか、それともそうではないのか」と いうことなのです。
信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか
さらに物語はペトロに焦点を絞りつつなお続きます。「すると、ペトロが答 えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに 行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から 降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖く なり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに 手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。(2 8‐31節)」
ここには舟の中にいる一人の信仰者の姿があります。キリストと弟子との関 わりが描かれているのです。ペトロは「来なさい」とのキリストの言葉を聞き ました。彼は水の上をキリストのもとへ歩みます。ここで強調されているのは、 ペトロの勇気ではありません。キリストの言葉とその力であります。キリスト の言葉を聞き、従うとき、彼は水を足の下に踏んでいるのです。キリストと共 に水の上にいるのです。混沌の勢力は信仰者の下にあるのであって、もはや信 仰者を滅ぼすものとはなっておりません。彼はキリストと共に治める者となっ ているのです。
しかし、この場面の中心は、ペトロが水の上を歩いたところにはないようで す。むしろ、ペトロが沈んだところにある。そして、沈みつつあった時、キリ ストがどうされたかにあるのです。しばらく行くとペトロは強い風が吹いてい ることに気付きます。恐れに捕らわれます。そして水に沈み始めます。キリス トはそのようなペトロの心の動きを「疑い」と呼ばれました。「なぜ疑ったの か」とキリストは言われるのです。「疑い」とは何でしょうか。これはもとも と二つの方向に進んでいくことを意味する言葉です。「二心」という言葉に近 いでしょうか。ペトロの心は分かれてしまったのです。一方において、キリス トとその御言葉のほうに向かいます。しかし、もう一方で彼の心は、風が吹い ている中で水の上にいるという現実に向かうのです。そうすると沈み始めるの です。
しかし、沈み始めることは、決して悪いことであるとは言い切れません。な ぜなら、ペトロは沈みながら二心ではいられないからです。彼はキリストに向 かって叫びます。「主よ、助けてください。」これは字義通りでは「主よ、お 救いください」という言葉です。沈み行くとき、なおキリストを求めることが できる人は幸いです。キリストなくしては沈むばかりであると知ることのでき た人は幸いなのです。キリストは御手を伸ばし給います。何と書いてあります でしょうか。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ」と書かれています。「す ぐに」です。そして、キリストがペトロを捕らえたのであって、ペトロが伸ば された手を掴んだのではないのであります。
これは、迫害の中にあった初代教会の人々にとって、大きな意味を持つ言葉 であったと思われます。先ほども申しましたように、マタイがこの物語を書き 記しました時には、既にペトロは死んでおりました。迫害の中で殉教してしま ったので、もうペトロはおりません。次々と他の指導者たちも死んでいきます。 その時、やはり疑いがやってきたことでしょう。結局は迫害の嵐の中で、混沌 の力に飲み込まれて、滅びてしまったのではないか。闇の力の勝ちではないか。 死の勝利ではないか。しかし、マタイはこの物語を通して答えているのです。 「いいや、そうではないのだ。あの時、ペトロの手を捕らえたキリストは、今 もペトロを放してはおられない。この世のいかなる力も、闇の勢力も、死でさ えも、弟子をキリストの愛からから引き離すことはできないのだ。」
確かに、キリストはペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われ ました。しかし、いったい誰がペトロのようではないと言えるでしょうか。私 たちも繰り返し「信仰の薄い者よ」という言葉を聞かなくてはならない者であ るに違いありません。確かに教会は信仰の薄い者たちの集まりでしかないかも 知れません。「主よお救いください」を繰り返さなくてはならない者たちの群 れでしかないかも知れない。事実そうなのでしょう。しかし、たとえそうであ っても、キリストは手放すことはないのです。共に舟に乗って向こう岸へ向か う者ならば、やがて向こう岸に着くのです。やがて私たちは共に天の御国を受 け継ぐのであります。
先に申し上げたことを繰り返します。私たちにとって本当に重要ななことは、 昨日や今日、嵐の中にあるか否かではないのです。また、嵐の中でどのように たち振る舞うべきであるか、ということでもありません。私たちが自らに問い かけるべき決定的に重要な問いは、「私はキリストの弟子であり、舟の中にい る者であり、向こう岸へと向かっている者であるのか、それともそうではない のか」ということなのです。向こう岸を思わない者には、舟の中にいることの 意味も分かりません。