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「手作りの神」

1997年6月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒19・21‐40

 「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通り エルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマも見なくて はならない』と言った。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラ ストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっ ていた(19・21‐22)」

 パウロは次のことを考えておりました。第二回目の宣教旅行によって生まれ たマケドニア州やアカイア州の教会は、パウロの働きを切実に必要としていた ようです。テサロニケの教会、コリントの教会などには多くの問題がありまし た。そのことを私たちはパウロの手紙を通して知ることができます。また、そ の後、彼はエルサレムに向かおうとしておりました。その目的の一つは、貧し いエルサレムの教会に援助金を届けることであります。パウロは、エフェソ滞 在中、コリントの教会に宛てて次のように書き送っています。「聖なる者たち のための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あな たがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われるこ とのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつで も手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された 人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。 わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでし ょう。(1コリント16・1‐4)」そして、彼はさらにローマに向かうつも りでいたのです。ここで初めてローマ行きについて言及されることにより、使 徒言行録の物語は新しい方向に展開していきます。21節の「ローマも見なく てはならない」という言葉は、パウロの願いというよりも、神の御心であるこ とを表しています。そして、神の御心は実現へと向かいます。それは人が考え るような方法によってではありませんでした。私たちはここから、どのように して神がパウロをローマに導かれるかを見ていくことになります。

 しかし、パウロはこの時点では、まだしばらくエフェソに滞在するつもりで いたようです。先に挙げたコリントの信徒への手紙には、次のように書かれて おります。「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのた めに大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。 (1コリント16・8)」「反対者がたくさんいるからそこに滞在する」とパ ウロは言います。不思議な言葉ですが、大切なことが語られています。反対者 がいたとしても、福音を伝えてなお多くの人がそれを受け入れないとしても、 それは絶望的な状況でもなければ、失望し落胆するべきことでもありません。 教会のなすべき事は門が開かれるに従って、与えられた場において、ただひた すら福音を宣べ伝えていくことなのです。諦めたり投げ出したりしないで、福 音を語り続けていくことなのです。

 さて、今日の箇所にはエフェソの反対者たちによって起こった騒動の様子が 記されております。もちろん、ここでルカが取り上げているのは一例に過ぎな いでしょう。20節には「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広ま り、力を増していった」と書かれておりましたが、御言葉が語られますときに 起こってくる典型的な反応を、私たちはここに見ることができます。実に人間 の姿は二千年前と今日と少しも変わりません。

デメトリオの演説

 デメトリオという人がいました。彼は銀細工職人たちを雇う事業家であった ようです。彼らはアルテミスの神殿の模型を作っていたのでした。エフェソに あったアルテミスの神殿は世界の七不思議に数えられる巨大な建築物でありま す。そこには多くの巡礼者が訪れました。それゆえ銀細工が売れるのです。あ る者は神殿に奉納するために、ある者は土産やお守りとして、これを買い求め たのでした。しかし、パウロの宣教を通して、彼らの商売が不利益を被るよう になったのです。それゆえ、デメトリオは同業者たちを集めて次のように演説 したのでした。

 「彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。 『諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸 君が見聞きしているとおり、あのパウロは「手で造ったものなどは神ではない 」と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を 説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしま うおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにさ れ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまう だろう。』(25‐27節)」

 これを書き記してルカは何を言いたいのでしょうか。彼はこのデメトリオの 演説において、福音に対して起こってきた様々な反対や拒絶がどのようなもの であったかを語っているのです。ルカはこの演説の中で、いくつかの特徴を明 らかにしています。

 まず第一に、デメトリオの関心の中心は真理問題にありません。宗教の事柄 ですらありません。彼らの利益の問題が中心であり、彼らの直面している不都 合が反対と拒絶の源であるということであります。いみじくも彼は先に「我々 の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがある」と言っています。その後の 「偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界が あがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう」という言葉は付け足 しに過ぎません。これは民衆の宗教的な感情を煽るための方便でしかないので す。

 教会はキリストによる救いのメッセージを語り続けてまいりました。しかし、 それは必ずしも受け入れられるわけではなく、むしろ多くの拒絶や反対を経験 してきたのであります。それは多くの場合、真理問題として拒絶されてきたの ではありません。伝えられている内容が思索と検討を経、真理ではない判断さ れて、反対を受けてきたのではないのです。むしろ福音に対する障害となって きたのは、様々な不利益や不都合でありました。このデメトリオの場合と同じ です。デメトリオは少なくともパウロの説教の一面を的確に捕らえております。 「手で造ったものなどは神ではない」。彼は直接パウロの言葉を聞いたのでし ょうか。それは分かりません。しかし、少なくとも、パウロの説教の一つの論 点は神観の問題であることは理解しております。礼拝されるべき方はいかなる 方であるか、ということです。しかし、彼の頭の中は「私の不利益になる」と いうことで一杯だったのであります。

 それは彼にとって大変不幸なことでありました。キリスト教はアクセサリー ではありません。神との関係は、人間の存在の基盤であり、永遠の運命に関わ る重大事であるということを、聖書は明確に示しています。救いか滅びかとい うことに関わるのです。信仰の事柄は、人生の意味を決定する重大な真理に関 わるのです。それが問いかけられている時に、目先の利益しか考えられないと いうのは、なんと不幸なことでしょうか。人生の重大事が目先の不都合によっ て決定されてしまうとは、なんと悲しむべきことでしょうか。しかし、それが 事実、今日に至るまで、なお多くの場合に見られるのであります。

 第二にデメトリオの演説はまったく理に適っておりません。先ほど、パウロ の説教の論点の一つは神観の問題だと言いました。これは既にアテネのアレオ パゴスにおける説教の中で見てまいりました。(使徒17章)確かにデメトリ オの言うように、「手で造ったものなどは神ではない」と表現することもでき るでしょう。しかし、パウロはおかしなことは何も言っていないのです。「手 で造ったものなどは神ではない」というのは、当たり前のことなのです。もっ とも、これは乱暴な表現であるには違いありません。古代においても、多くの 場合、像そのものが神と同一視されていたわけではなく、むしろ神々の霊が宿 るところと考えられていたようです。しかし、結局は同じことです。パウロは 礼拝を受けるべき神と呼ばれるに相応しい方は、天地万物の創造者以外の何者 でもないことを明らかにしているのです。ですから、人が造ったものは神であ り得ないのは当たり前ですし、仮に人の手による像や宮や神棚の類に何者かが 住んでいたとしましても、創造者以外は人間と同じ被造物なのですから、礼拝 の対象ではあり得ないのです。それが何者であれ、最終的な裁きをもたらすこ ともできなければ、最終的な救いを与えることもできません。それが出来るの は創造者であり、万物の主である方以外にはおられない。これは至極当然のこ とであります。そもそも、パウロごとき人間の働きによって「この女神の御威 光さえも失われてしまうだろう」と言われるアルテミスなるものはいったい何 者だというのでしょう。人間が一生懸命守らなくてはならない存在であること を語ることによって、デメトリオははからずも偶像が神ではあり得ないことを 示しているのであります。そして、パウロに反対する自らの言葉が理に適って いないことを暴露しているのであります。

宗教的群衆の熱狂

 このようにルカはデメトリオの演説を書き記すことによって、福音の宣教に 対する反対がしばしばいかに理不尽なものであるかを明らかにしております。 そうする一方で、教会の伝えてきた言葉そのものは、決して反社会的なもので も反理性的なものでもないことを示しているのであります。実際、ここに今日 の信仰者をも取り巻いている多くの誤解があろうかと思います。キリスト者に なることは、本来なら信じがたい何かを、理性を犠牲にして「信じ込む」こと であると、多くの人が考えているようです。あるいは通常の思索を為し得ない、 何かに「取りつかれた」人間になることであると考えられています。しかし、 これは大変な誤解なのであって、教会の伝えてきたメッセージは決して思索を 伴わないものでも、思索に耐え得ないものでもありません。むしろ、真剣な思 索を伴わない一般的な「宗教心」や「信心」なるものの方がよっぽど問題を孕 んでいるのです。事実、ルカはここで、そのような「宗教心」を持った群衆が、 いざというときにいかに非理性的な行動を取るかという一例を書き記している のであります。

 28節以下を御覧ください。ここで人々はひどく腹を立て、「エフェソ人の アルテミスは偉い方」と叫びだします。町中が混乱し、人々は野外劇場になだ れ込みます。32節でルカは人々の様子を実にユーモラスに描いております。 「さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数 の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。」その時、ユダヤ人がア レクサンドロという男を押し出しました。彼は手で制し、群衆に向かって弁明 しようといたします。何を弁明しようとしたのでしょうか。恐らく、この熱狂 の中で自分たちにも攻撃が向けられかねないと危ぶんだユダヤ人たちが、「我 々とパウロとは無関係である」と主張しようとしたのでしょう。しかし、アレ クサンドロがユダヤ人であると知ると、群衆は「エフェソ人のアルテミスは偉 い方」と二時間ほども叫び続けた、と言うのです。

 ついに町の書記官が登場し、群衆を静めます。彼は語ったのは要するに次の 三点です。第一に、エフェソの町が偉大なアルテミスの神殿と御神体との守り 役であることは否定できない事実なのだから、叫んだり無謀なことをする必要 はないということ。第二に、訴えたり要求したりすることがあるならば、正規 の手続きを踏むべきであるということ。第三に、この事態に関しては暴動の罪 に問われる恐れがあるということ。この書記官が語っていることは、何ら宗教 的な本質に触れるものではありません。彼はもともと、アルテミスの威光なる ものには関心がないのでしょう。ローマ帝国における自由都市の当局者たちの 多くがそうであったように、彼の求めるところもただ一つ「平和であること」 のみであったのだろうと思います。いずれにせよ、そのような書記官の言葉に よって、結局人々は帰っていったわけであります。しかし、これだけのことで 帰っていくほどの集会であるならば、もともと集まる意味などなかったのです 彼らのしたことはいったい何だったのでしょう。ルカはこれら一連の事件を書 き記すことによって、彼らの行動がいかに愚かなことであるかを表しているの であります。それにしても、このようなことは、実に規模の大小はあれ、どこ にでも起こりそうなことではありませんか。いや、教会も例外ではありません。 教会が神の言葉を離れ、真理を求める姿勢を失い、そこにあるのが単なる信心 や宗教心の類でしかなくなった時、同じような愚かなことを様々な形において 繰り返してきたのです。それは私たちの日々の信仰生活でも起こり得ることな のです。

 さて、このようにして、パウロのエフェソにおける働きは終わりを告げます。 彼は弟子たちに別れを告げ、マケドニア州に向かいました。デメトリオによっ て起こった騒動を含め、アジア州において経験してきたことについて、パウロ は後に次のように書き記しております。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが 被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほど ひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては 死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復 活させてくださる神を頼りにするようになりました。(2コリント1・8‐9) 」エフェソにおける苦難は、ルカが書き記している以上に深刻であったことが 窺われます。その苦難の中にあってパウロを支えたのは、手作りの神ではあり ませんでした。また信じる心そのものでもありませんでした。パウロが寄り頼 んだのは、天地の造り主なる方であり、イエス・キリストにおいて御自分を啓 示された神、人の生も死も支配している神でありました。私たちが御言葉を通 して知り、信じ、仰ぐべき神も、手作りの神ならぬこのお方に他ならないので あります。

 
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