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「窓から落ちた男」

1997年6月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録20・1‐16

マケドニア州とギリシアへ

 パウロは足かけ三年に渡るエフェソにおける宣教の働きを終え、マケドニア 州へと出発いたしました。「そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人 々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三ヶ月を過ごした(2‐3節)」 と書かれております。ルカは実に簡潔に、淡々とこの旅程を描いておりますが、 実際にはここでパウロは一年以上の月日を費やしているようです。

 「この地方を巡り歩き」と書かれておりますが、パウロがマケドニアに向か う途中、立ち寄りましたのは、後にも出てきますトロアスでありました。パウ ロ自身がその時のことを次のように記しています。「わたしは、キリストの福 音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開か れていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々 に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。(2コリント2・12)」パ ウロは先にテトスをコリントに送っておりました。コリントの教会に問題があ ったからです。そして、コリントからの知らせを持ったテトスと、トロアスで 落ち合うことにしていたのでしょう。ところがテトスは来ませんでした。パウ ロはトロアスで十分な働きが出来ないまま、マケドニア州に向かったのです。 パウロは同じ手紙の中に、このようにも記しています。「マケドニア州に着い たとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。 外には戦い、うちには恐れがあったのです。(同7・5)」私たちはパウロを 何の困難も恐れも感じない超人であるかのように考えてはなりません。パウロ こそ、絶えざる不安や恐れと闘わざるを得なかった人なのです。その点に関し ては彼もごく普通の人間です。ただ確かに言えることは、彼はその恐れや不安 の中にあっても励まし支えてくださる方を知っていたということであります。 先のパウロの文章は次のように続いています。「しかし、気落ちした者を力づ けてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。 (同7・6)」

 彼はさらにギリシア(恐らくコリント)に移り、そこにおいて三ヶ月ほど過 ごした後、シリア州に船出しようといたします。彼は巡礼者たちが乗る、ケン クレアイからエルサレムに向かう舟に乗るつもりだったのでしょう。丁度時は 過ぎ越しの祭りに向かう頃であったと思われます。しかし、ここでパウロに対 する陰謀が発覚したのでした。エルサレムに向かう船には、多くのユダヤ人た ちが同船します。パウロの名を知り、かつ彼を憎んでいる者たちも、少なから ずいたものと思われます。彼らは船上においてパウロを亡き者にしよう計画し たのでしょう。彼は間一髪この危機を逃れ、マケドニアを経て旅を続けること になったのです。

 このように、パウロの旅は常に死と隣り合わせでありました。そしてエルサ レムに到着した後にも、そこには多くの危険が待ち受けていることを彼は良く 知っていたのです。このことは後の箇所を理解する上で重要です。これは来週 読む予定のところですが、20章22節以下には次のように記されております。 「そして今、わたしは"霊"に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなこ とがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待 ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっ ています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからい ただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさ えすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。(20・22‐24)」 パウロが町々を訪ねて歩いている時、彼の内には常にこれが最後の機会かも知 れないという意識が働いていたに違いありません。そのような思いを抱きつつ、 彼は再びマケドニアからトロアスに向かったのでした。そして、結果的には、 パウロにとって、これがトロアスのキリスト者たちとの最後の交わりであり最 後の語らいの時となったのであります。

窓から落ちた青年

 7節以下を御覧ください。「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために 集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜 中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし 火がついていた。(7‐8節)」

 「週の初めの日」というのは、私たちが言うところの「日曜日」に相当しま す。「パンを裂く」というのは聖餐でありますから、ここに記されているのは、 礼拝の場面であります。つまり、単に次の日パウロが旅立つので、別れを惜し んで遅くまで話し合っていたというのではないのです。あくまでも彼らは共に 礼拝をして時を過ごしていたのであります。これが礼拝の場面であるというこ とが、後に出てくる一つの事件と関係しますので、彼らが為していることにつ いて、しばらく考えて見ましょう。

 教会が古くからユダヤ人の安息日(土曜日)ではなくて、日曜日に礼拝をし ていたことを示す箇所は、聖書の中に何ヶ所かあります。ここもその一つです。 そもそも、なぜ日曜日なのでしょうか。これについて、時代的に古いところで は、例えば二世紀のキリスト者であるユスティノスという人が次のように言っ ています。「日曜日にわたしたち全体は集会を催す。この日は、神が闇と物質 を変えて世界をお造りになった最初の日であり、また、わたしたちの主イエス ・キリストがこの同じ日に、死者のうちから復活されたからである。人々は土 曜日の前日に主を十字架につけ、主は土曜日の次の日、すなわち日曜日に使徒 たちや弟子たちに現れて、わたしたちがあなたがたに考察していただくために 伝えている事柄をお教えになったのである。(第一弁証論)」

 つまり、日曜日は創造の最初を思う日であり、同時にキリストの復活を記念 する日だったのです。それはまた、いわば新しく創造される来るべき世に私た ち自身が復活する時を思う日であります。つまり礼拝は本来的に常に終末に関 わっているということです。この場面においても、パウロとトロアスの弟子た ちは、「パンを裂くため」に集まっております。それはこの世におけるしばし の交わりであります。しかし、彼らは単にこの地上の出会いと別れだけを考え て集まっているのではありません。共にキリストの復活を思い、自らの復活を 思い、共に神の国を受け継ぐ者として共にパンを裂くために、そこに集まって いるのであります。

 その集まりは夜中まで続きました。人々は夜になって集まったからです。多 くの者たちは主人に仕える身でしたから、夜にしか集まれなかったのでしょう。 そこでは皆が食物を持ち寄ったようであります。これは古代の教会においてし ばしば「愛餐」の名で呼ばれておりました食事であります。そこから取り分け られたものによって、聖餐―「パン裂き」が行われるのが常でした。ですから、 愛餐と聖餐の境目は必ずしも明確ではなかったものと思われます。しかし、パ ウロは、これがいわゆる腹を満たすだけの人間的な単なる食事に堕ちてしまわ ないように、常に気遣っておりました。このパウロの姿勢は、コリントの信徒 に対する厳しい言葉の中にも現れております。「従って、ふさわしくないまま で主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血とに対して罪 を犯すことになります。…主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自 分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(1コリント11・27‐2 9)」キリストがその身を裂き、血を流してくださった。このお方によって私 たちの罪は赦され、このお方に連なって来るべき世を受け継ぐ共同体が形作ら れるのです。ですからそのことを弁えない飲み食いにならないように、当然の ことながら、聖餐には神の言葉の解き明かしが伴うのであります。福音が語ら れ、救いが解き明かされるのです。今日お読みした場面にも、パン裂きと説教 が出てきます。これらは初めから車の両輪なのです。

 パウロの話は夜中まで続きました。語るべきことはすべて語っておかなくて はならないという思いが働いたのでしょうか。しかし、現代においてしばしば 起こることは、あの時にも起こったのでした。説教中に眠ってしまう者がいた のです。9節を御覧ください。「エウティコという青年が、窓に腰を掛けてい たが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階か ら下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。」深刻な話なので すが、ルカはわざとユーモラスに描いている風でもあります。エウティコは恐 らく明け方から日暮れまで激しい労働をしてきたのでしょう。そして、夜中ま で人々の詰めかけた部屋の中で話を聞いていたのです。窓から落ちてもらって は困りますが、このような人が居眠りをしたからといって責めることはできま せん。いずれにせよ、そのようにして窓から落ちてしまったエウティコを取り 囲んで、階下は大騒ぎになりました。そこにパウロが降りていきました。彼は 青年の上にかがみ込み、抱きかかえて言います。「騒ぐな。まだ生きている。 」そして、一同を部屋に戻して礼拝を続けたのでした。

 さて、この出来事をどのように考えたらよいのでしょうか。生き返った奇跡 そのものが特別に取りざたされているようにも思えません。実に淡々と描かれ ています。実際にはエウティコは死んではいないのに、ただ人々が誤って大騒 ぎをしていたようにも思えます。その場合、パウロは単に冷静に対処しただけ、 ということになるでしょう。そして、事実そうであったのかも知れません。し かし、ルカはあえて12節で「人々は生き返った青年を連れて帰り」と書いて おります。あくまでも、イエス様が死んだ少女を生き返らせたり(ルカ8・4 0以下)、ペトロがドルカスという婦人を生き返らせたり(使徒9・36以下) という一連の奇跡物語と同じようにこのエピソードを扱っているのです。では その意図は何なのでしょう。

 以前も申し上げましたが、奇跡そのものを救いと取り違えると、聖書は理解 出来なくなります。なぜなら、人が一時的に蘇生したとしても、いずれはやは り死ぬからです。奇跡は救いそのものではなくて、真の救いを指し示すしるし です。人が生き返ったという奇跡は、神の命のみ支配する復活の世界を指し示 すしるしなのです。ちょうど彼らが集まり礼拝している姿が神の国を示してい るように、そこで起こった一つの奇跡もまた、神の国を指し示しているのであ ります。ですから、指し示されている対象そのものが大事なのであって、ここ で起こっているのが純粋な意味での奇跡なのかどうかは、どうでもよいことな のです。

 神の国を指し示す出来事がこの事件を通して表された。このことによって私 たちは様々なことを考えさせられます。この青年は今までトロアスの弟子たち と共に礼拝をしてきた人です。しかし、もしかしたら、この礼拝が最後になっ ていたかも知れません。次週からは一人を欠いた礼拝となっていることになり ます。しかし、彼は生き返ってなおこの集まりの中に残されたのでした。一方、 パウロは次の日出発して後、ついにこの地上において彼らと再び相見え、礼拝 を共にすることはなかったのです。

 人間が共に集まるということは、一面においては極めて人間的な行為であり ます。そこには人間的な理由はいくらでも付けられるわけでありますし、また 人間の思いによってどうすることもできるように考えられるわけであります。 しかし、このような集会ひとつ取りましても、実は人間の権威のもとにはあり ません。なぜならここにいる誰一人として、自分がたとえ望んだとしても、そ こに集い得ないかも知れないからであります。この地上にはもはや存在しない かも知れないのです。人生が最終的には人間の権威のもとにはないように、神 を礼拝するこの集いもまた、人の権威のもとにはありません。いや、だからこ そ、礼拝が神の国を指し示すものとなっているのです。第一義的には人の側の 理由によるのではなく、神の主催であり、神の招きによって成り立ち、神の権 威のもとになされるものだからであります。だから、私たちは招かれているこ の時を大切にしなくてはならないのであります。

 この箇所に描かれているのは、この地上にてはもはや同じメンバーでは行い 得ない、一回限りの礼拝なのであります。礼拝とはある意味で常にそのもよう なものです。しかし、そこに復活を指し示す一つのしるしが恵みによって与え られたのでした。彼らは永遠の神の国を思いつつ、なお礼拝を続けます。彼ら はパンを共に裂き、その礼拝は夜明けまで続いたのでした。

 翌朝パウロとその一行はトロアスを発ちました。パウロだけは徒歩でアソス に向かいます。立ち寄るつもりでいる多くの集会があったのでしょう。アソス で彼は他の者と落ち合い、そこから船に乗り、ミティレネ、サモス島を経てミ レトスに到着しました。ルカは細かく航路を記します。彼自身の旅日記をもと にしているのかも知れません。

 ミレトスから約60キロほど離れたところにエフェソがあります。そこは彼 が足かけ三年にわたって伝道した地であります。数え切れないほどの労苦があ りました。人情としてはエフェソの集会を訪ねたかったことでしょう。しかし、 パウロはあえてエフェソに寄らないでエルサレムに向かいました。「できれば 五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである」と聖書 は説明します。なぜ五旬祭にそれほどこだわったのかは分かりません。しかし、 彼が人の願いや考えで行動を決していたのではないことは分かります。彼はミ レトスの港に船が碇泊している間に、エフェソの長老たちを呼び寄せます。彼 らと顔を合わせるのも、これが最後であることをパウロはよく知っていました。 (20・25)それゆえ、エフェソの指導者たちに、パウロは語るべきすべて の勧めの言葉を彼らに与えます。その内容については、次週詳しく見ていくこ とにしましょう。

 
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