「恵みの言葉にゆだねて」
1997年6月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒20・17‐38
ミレトスに着いたパウロは、エフェソに人をやって教会の長老たちを呼び寄 せました。ミレトスからエフェソまでは約六十キロ離れておりますから、彼ら がパウロのもとに着いたのは三日ほど後であったと思われます。長老たちが集 まってきた時、パウロは彼らに話をいたしました。その内容が、本日読みまし たところに記されております。
パウロの長い説話は使徒言行録にいくつか含まれておりますが(例えば13 ・6以下、17・22以下など)、20章に記されているものは他のものとい くつかの点で異なっております。まず、これがキリスト者に対する言葉である ということ。パウロがキリスト者の集会に対して語っている場面は今までいく つか描かれておりましたが、その内容がまとまったものとして書かれているの はこれが初めてです。そして、その内容は、当然のことながら、パウロの手紙 と類似しております。これを記したルカは、キリスト者に対するパウロの説教 の典型的な例としてここに挙げているのでしょう。しかし、それはただ過去の パウロについての記録ではありません。明らかにルカは、使徒言行録の読者に 対する語りかけという意味を、この箇所に持たせております。
そして、もう一つ心に留めるべきことは、これがエフェソの長老に対する言 葉としては明らかに最後のものとして記されている点であります。25節でパ ウロは次のように彼らに語っております。「そして今、あなたがたが皆もう二 度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」それは、パ ウロがエルサレムに向かっているからです。その前の22節以下には、次のよ うに語っておりました。「そして今、わたしは"霊"に促されてエルサレムに行 きます。そこどどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投 獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でも はっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、 また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務 を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。 (22‐24節)」そして、後に共に読むことになりますが、ここに語られて いる投獄と苦難は現実のものとなるのです。パウロは自らが語った通り、二度 とエフェソを訪れることはありませんでした。
私たちの人生にも、出会いと別れがあります。もし、二度と会えないであろ う人と別れなくてはならないとしたら、いったい私たちは何を語るでしょうか。 そのような決定的な場面というのは、多くはないかも知れません。しかし、誰 であっても最終的には、何かを言い残して世を去るわけでありますから、ここ に見るパウロの姿は、私たちすべての者に関わる姿であるとも言えるでしょう。 そして、我が身に置き換えて考えて容易に分かりますことは、そのような時に 人生そのものが露になるということであります。つまり、その人が何を考えて 生きてきたか、何を大切にして生きてきたかが明らかになるのであります。何 を願い、何を求めて生きてきたかが、どのような場合であれ決定的な場面にお いて現れてしまうのであります。繕うことができない。誤魔化しがきかないの です。そうしますと、ここで私たちが触れますのは、そのような誤魔化しがき かないところにおける、パウロの生の姿なのであります。もちろん、これを書 いたルカの筆を通して、私たちは触れるわけであります。そういう意味では間 接的にです。しかし、それでも私たちはここで、パウロが何を考え、何を願い 求め、何を大切にしてきたかということに向かい会わせられます。先にも申し ました通り、これを読んでいる私たちが、このパウロの言葉に向かい合うよう に、ルカは意図しているのであります。では、パウロはいったいここで何を語 っているのでしょうか。
悔い改めと信仰
18節以下を御覧ください。パウロは長老たちに次のように語り始めます。 「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごし てきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、 涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかって きた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残ら ず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人に もギリシア人にも力強く証ししてきたのです。(18‐21節)」
パウロは「主にお仕えしてきました」と言います。それは具体的には、人々 に語り聞かせることでした。何を語ってきたのでしょう。「役に立つことは一 つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきま した」とパウロは言います。しかし、「役に立つこと」とは何でしょうか。人 々はパウロから何を聞いたのでしょう。人生における成功の鍵でしょうか。人 間関係を良くする方法でしょうか。家庭円満の秘訣でしょうか。パウロが涙を 流しながら語ったことはそのようなことなのでしょうか。私たちでしたら、何 を「役に立つこと」と考えるでしょう。
私たちはパウロが公衆の面前で語っていた事実を知っています。エフェソに おいて、まず彼はユダヤ人の会堂で語りました。その後、ティラノの講堂にお いて、毎日語りました。聖書は何と言っているでしょうか。「パウロは…神の 国のことを大胆に論じ、人々を説得しようとした(19・8)」と書かれてい ます。そうです。パウロは神の国について語り、救いについて語ったのであり ます。ですから、ある人は先に読みました「役に立つこと」を「あなたがたの 救いに必要なこと」と訳しています。パウロが語ったのはそのことなのです。
そして、救いに関わることとして、二つのことを証ししてきたとパウロは言 います。「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、 ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。(21節)」「神に 対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」こそ、彼が語り続けてきた内容 でありました。人を罪と死と永遠の滅びから救い得るのは神のみです。人に永 遠の命を与え、神の国を受け継ぐ者とするのは神御自身です。それゆえ、神と の関係が回復されないところに真の救いはあり得ません。この世にはいわゆる 「役に立つこと」はいくらでもあるでしょう。そして、表面的にはそのような 「役に立つこと」によって、問題が解決することもあるでしょう。しかし、人 生そのものが罪によって病んでいる時に、一事逃れは通用しないのです。気休 めは根本的な解決ではないのです。なぜなら、必ず神の前に人生そのものが問 われる時が来るからです。であるならば、人が本当に聞かなくてはならないこ とは、「神に対する悔い改め」であり、「主イエスに対する信仰」なのであり ます。
「悔い改め」とは単に後悔することではありません。後悔する人はいくらで もいます。しかし、後悔そのものは救いではありません。「悔い改め」とは神 に立ち帰ることです。そして、神に立ち帰った者が必要とするのは、「主イエ スに対する信仰」なのです。なぜなら、そこに神との交わりの根拠、救いの根 拠があるからです。ここで「主イエス」と言われている時、それが意味するの は、十字架にかけられて殺され、三日目に復活されたお方であります。私たち の罪を贖うために十字架にかかってくださった方です。そして、復活して今も 生きておられ、その命の支配のもとに私たちを生かし、治めてくださるお方で す。このお方を信じて私たちは生きるのです。このお方を信じて、この世にお いて既に神の恵みの支配のもとに生き始め、来るべき世においても神の国の恵 みを受け継ぐのであります。
パウロはこの神の国を語ったのでした。そして、26節において、このよう に言います。「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わ たしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなく あなたがたに伝えたからです。」「血について」というのは、聖書にしばしば 見られる表現ですが、ここでは「永遠の滅びについて」と同義であると考えて よいでしょう。つまり、誰が救われなかったとしても、もはやパウロの責任で はないということです。既にパウロは神の救いの計画を語っているからです。 それに基づいて神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰を語っているか らです。ですから、後は聞いた者の問題なのです。このことについては、良く 考えてみてください。私たちは神に立ち帰って、主イエスにすべてをゆだねて 負っていただくか、それとも自分で責任を負っていくかのいずれかなのです。 自分で負うならば、自分の罪、咎の責任を自ら負わなくてはなりません。その ことによって永遠の滅びに至ったとしても、誰も責任を取ってはくれません。
パウロが、最後の言葉としてまずエフェソの長老たちに告げたのは、既に語 られるべきことは語られた、という事実でありました。そして、神の国の福音 は、今これを読んでいる私たちのもとにまで伝えられているのであります。語 られるべきことはここにおいても語られています。パウロの宣言を私たちもま た、厳粛に受け止めなくてはなりません。
神の教会
そしてさらに、パウロは後のことについて語り始めます。パウロの思いは教 会に向かいます。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってくださ い。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話を させるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。(28 節)」
パウロは自分が開拓伝道をして生み出した自分の教会であるから心にかけて いるのではありません。パウロは教会が何であるかを知っているのです。それ は「御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」なのです。パウロが 試練に遭いながらも主にお仕えしてきたというのは、具体的には教会に仕える ことに他なりませんでした。それは教会が「神の教会」だからです。ですから、 パウロは教会の長老たちにも、同じように仕えることを求めます。「神の教会 」として、まず「自分」と「群れ全体」に気を配らなくてはなりません。神は 彼らを「神の教会の世話」をさせるために任命されたのです。
しかし、教会において「気を配る」「世話をする」という言葉が使われる時、 それが何を意味するかをよく捉えておく必要があります。パウロが問題にして いるのは、「群れを荒らす狼」なのです。29節以下を御覧ください。「わた しが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを 荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、 邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。(29‐30節」ル カが使徒言行録を書いている時点において、これはほとんどパウロの言葉のま まに実現していたのでした。小アジアの教会に異端の嵐がいかに吹き荒れてい たかは、ヨハネの黙示録2章と3章を読んでも分かります。
どれほど耳障りがよく、受け入れやすい言葉であっても、人を神に対する悔 い改めと主イエスに対する信仰へと導かない言葉があります。むしろ神から人 を引き離してしまう言葉があるのです。人間を最終的な救いに導かず、むしろ 滅びへと導く言葉があるのです。そのような教えが入り込んでくる。教会はい つもそのような危険に曝されています。長老たちはそのような教えから守るた めに任命されているのです。いや、その長老たちの中からも邪説を唱える者た ちが出てくるかもしれません。だからパウロは「あなたがた自身」に気を配り なさいと言ったのです。
今、パウロは彼らに言います。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人 一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていな さい。」何が本来語られなくてはならない言葉であるのかということに対して 目が開かれていなくてはなりません。教会にはいつの時代であっても変わらず 伝えなくてはならないことがあるのです。教会には、最終的に持つべき他のい かなるものもありません。教会を神の教会たらしめるものは、イエス・キリス トにおいて現され、使徒たちが宣べ伝えた福音であり、今日まで伝えられてい る同じ福音なのです。それゆえ、パウロは彼らにこう言います。「そして今、 神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを 造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることがで きるのです。(32節)」人間は自らの資格や力によって、神の国の恵みを受 け継ぐことはできません。それが為し得るのは神御自身であり、神の言葉です。 「神と恵みの言葉とにあなたがたをゆだねる。」これは今日の教会である私た ちに対する言葉でもあるのです。
「受けるより与える方が幸いである。」最後に、パウロは今までそのように 生きてきたことを示して話を終えます。これは福音書に含まれていない主イエ スの言葉です。これは単なる人生訓ではないことを、パウロ自身よく知ってい ました。「受けるより与える方が幸いである」という言葉は、永遠の御国に向 かう者において真実となります。まさにパウロは天に備えられている恵みを受 け継ぐ者として終末に向かう者の生き様を、人々の間で現したのでした。そし て同じように生きるようにと語っているのです。 パウロはこのように語って皆と一緒にひざまずいて祈りました。皆激しく泣 きました。そこには別れの悲しみがあります。「自分の顔をもう二度と見るま い」とのパウロの言葉に人々は心を痛めました。次に顔を合わせるのは来るべ き世においてであるかも知れません。しかし、共に神を仰いで祈るとき、その 悲しみは悲しみに終わらないことを彼らは知っているのです。同じ福音によっ て永遠の希望を与えられている者たちが、悲しみつつも共にひざまずいて祈っ ている。その姿の中に、私たちは教会の命を見ることができるのです。