「喜びの歌と共に」
1997年7月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編30編
大阪のぞみ教会の礼拝堂が岡町の地に建てられ、最初の礼拝が行われたのは、 1993年7月の第一主日でありました。本日、それから丁度四年目を迎えま した。この日、私たちに与えられていますのは、先ほどお読みしました詩編3 0編の御言葉であります。その表題には次のように記されております。「賛歌。 神殿奉献の歌。ダビデの詩。」これは、イスラエルの人々が神殿奉献祭(宮潔 めの祭り)において歌ってきました賛歌であるということです。この詩の内容 そのものに入ります前に、この神殿奉献祭について、簡単に触れておきましょ う。
神殿奉献祭に個人の歌?
この祭りの背景には、ユダヤ人たちが経験してきました大きな苦難がありま した。紀元前167年、シリアの王、アンティオコス・エピファネスによって ユダヤ人に対する宗教的弾圧が始まったのです。支配当局ははユダヤ人たちが 自分の子供に割礼を施すことや安息日を守ることを禁じました。また、ユダヤ 人たちが異教祭儀に参加し、彼らにとってタブーであった豚肉を食することを 強要したのです。これに反する者たちはことごとく死刑にされたのでした。そ して、さらにはエルサレム神殿をゼウス神に奉献し、そこにおいて異教祭儀を 行うに至ったのです。まさにユダヤ人たちの民族的危機でありました。しかし、 その後、ハスモン家の一族を中心に反乱が起こります。そして、ついに彼らは 苦難を乗り越え、奇跡的な勝利により、自由を勝ち取ったのです。ユダヤ人た ちは神殿を潔め、再び主に奉献しました。その日を記念しまして、神殿奉献祭 が毎年行われることになったのです。そこで歌われたのが、詩編30編であり ました。
しかし、この詩の内容そのものを読んでみますと、そこに歌われていること は、一人の人間の極めて個人的な経験であります。重い病にかかり、死に瀕し た人が癒され、神に感謝を捧げている、そのような詩なのです。これは大変興 味深いことです。よりによって、彼らは、一民族として大変な苦難を経験し、 滅亡の危機に瀕し、そこから助け出された感謝を歌うのに、この個人の感謝の 歌を用いたのでした。これは彼らが、社会的事象における民族としての経験と 個人の経験を、決して切り離して考えなかったことを意味します。つまり個人 の事柄と世界の事柄を分離しなかったということです。このことにまず注目し なくてはなりません。
先日の残虐な殺人事件の容疑者が中学三年生であったということに、私たち は皆大きなショックを受けております。特にその動機の一つが学校に対する復 讐であったということで、現代における教育の問題が再び活発に論じられてお ります。しかし、どれほど制度が論じられ、方法論が論じられても、なお希望 の見えてこない閉息感を多くの人々が感じている。それはなぜなのかを私たち はよく考えなくてはなりません。社会の罪の問題を語っている人の多くは、自 らの内にもまた同様に深刻な罪の問題があることを必ずしも語ろうとはしませ ん。国家の滅亡を案じる人の多くは、他ならぬ自分自身もまた滅びに向かって いる現実に目を向けようとはしません。世界の終末を考える人の多くは、必ず しも「他ならぬ私が終末に向かっている存在なのだ」ということを考えようと はしないのです。しかし、そこに問題があるのではないでしょうか。自らの罪 の問題を突き抜ける希望を持たない人が、どうしてこの罪に沈んだ世界に希望 を持つことができるでしょうか。自分自身について確かな救いの望みに生きて いない人が、どうして世界の救いを望み見ることができるでしょうか。自分自 身が存立の意義を確かに持っていない者が、どうして世界の存在の意義を語る ことができるでしょう。個人の問題と社会全体の問題は、本来切り離すことが できないものなのです。
今日お読みするのは、きわめて個人的な経験です。しかし、これを民族的祝 祭において歌った人々は、一人の人間に対する神のまなざしと働きかけが、同 様に民族全体に対し、一つの国家全体に対し、さらには世界に対しての神のま なざしと働きかけであることを知っていた人々でありました。そのことを踏ま えた上で、この詩の内容に入っていきたいと思うのです。
苦難から賛美へ
まず2節から6節までをお読みしましょう。
主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ば
せることなく
わたしを引き上げてくださいました。
わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを
あなたは癒してくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ
墓穴に下ることを免れさせ
わたしに命を得させてくださいました。
主の慈しみに生きる人々よ
主に賛美の歌をうたい
聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
ひととき、お怒りになっても
命を得させることを御旨としてくださる。
泣きながら夜を過ごす人にも
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 (詩編30・2‐6)
この詩人は深刻な病を経験し、死に直面していました。彼は、その暗黒の中 から神に向かって叫びます。そして、神は彼を癒し給うたのであります。私た ちは必ずしもこの病が奇跡的な仕方で癒されたと考える必要はありません。大 切なことは、彼が苦難を乗り越えて、主を誉め讃えるに至った事実です。いや、 それだけでなく、主にある同胞にも共に主を誉め讃えることを呼びかけます。 自分がこの大きな出来事を通して知らされた恵みを伝えて喜びを分かち合い、 共に主に向かうよう勧めるのです。
このような詩人の苦難の経験は、私たちにとっても無縁のことではありませ ん。深刻な病が癒されることもあるでしょうし、様々な苦しみを乗り越えさせ ていただくこともあるでしょう。しかし、そのことを通して、主を誉め讃える に至るかどうかは人それぞれです。喉元過ぎれば熱さを忘れ、ただ「良かった ね」で終わってしまう人もないわけではありません。苦難の日々はただ無駄に 費やされた時間としかならない場合もあるでしょう。この詩人はそのような人 ではありませんでした。彼にとっては、病が癒されたことも大きな恵みであり ましたが、それ以上に彼が得たものは大きかったのです。彼自身が変えられま した。彼の人生そのものが命に満たされたものとなりました。それは、彼が苦 難の中において、ただ自分の状況を悲しんだり、呪ったりして時を過ごさなか ったからです。彼はどうしたのでしょうか。神と自分自身の関係に目を向けた のです。神と自らとの関係という大きな問題に徹底的に取り組んだのでありま す。苦しみが過ぎ去るということも大事ですが、そこで何に目を向け、どのよ うに時を過ごすかということの方が、本当はもっと大事なことなのです。では、 彼はそこで何を考え、いかにしてこの問題に取り組んだのでしょうか。その時 のことを振り返って、彼は7節以下にその経験したことを語っております。そ れではこの詩の後半をお読みしましょう。
苦難の意味
平穏なときには、申しました
「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
主よ、あなたが御旨によって
砦の山に立たせてくださったからです。
しかし、御顔を隠されると
わたしはたちまち恐怖に陥りました。
主よ、わたしはあなたを呼びます。
主に憐れみを乞います。
わたしが死んで墓に下ることに
何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ
あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
主よ、耳を傾け、憐れんでください。
主よ、わたしの助けとなってください。
あなたはわたしの嘆きを踊りに変え
粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することのないようにしてくださいました。
わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます。 (詩編30・7‐13)
彼は傲慢であった過去の自分を振り返ります。彼の家庭も、事業も安泰であ り、すべての営みが順調であったのでしょう。それは、主が御旨によって、い わば「砦の山に立たせてくださった」からでありました。しかし彼はその事実 に思いを向けることはありませんでした。彼はこう思っていたのです。「わた しはとこしえに揺らぐことがない。」平穏の中に、安定した生活の中にわなが ありました。確かに揺らぐことがないように思えたのでしょう。自分が吹き倒 されることなど、思いもよらなかったのです。彼は傲慢でした。揺らぐことが ないのは「わたし」ではなくて、立たせてくださる「主」であることを忘れて しまったのです。
大変悲しむべきことですが、実際このようなことが私たちにも起こります。 この社会全体にも起こります。安泰と繁栄の中で、すべての源であり土台であ る方から離れてしまう。主によって立たされ、歩ませていただいているのに、 それが自らの力と功績であるかのように思ってしまうのです。そして、しばし ば私たちもこう呟きます。「わたしはとこしえに揺らぐことがない。」
しかし、主はこの詩人の心が離れて行くままにはさいませんでした。彼を愛 するがゆえに、忘恩と自己過信の中に彼を置かれなかったのです。主はどうさ れたのでしょうか。御顔を隠されたのです。具体的には、これがこの詩人にと っては病気という経験だったのでしょう。主は彼に対して御顔を隠し、苦しみ を与えます。彼は恐怖に陥りました。その時、彼は気付いたのです。「とこし えに揺らぐことがない」と言っていた自分が、実はいかに弱く脆い存在である かということに気付かされたのです。主が御顔を隠され、手を引かれるならば、 すぐにでも崩れて滅び去ってしまうような者でしかないことを悟ったのであり ます。
それゆえ、彼は主の御名を呼びました。主に憐れみを乞うたのです。彼は苦 しみと恐れの中で主に立ち帰ったのでした。そして、彼は生きることを求めた のです。この地上になお存在することを求めたのであります。このことは彼の 人生にとって転機となりました。この出来事は、彼に自らの存在理由を問い直 させることになったからです。
「生きることを求めている自分はいったい何のために生きようとしているの か」。そのことを問い続けた彼は一つのことに思い至りました。今まで自分は 自分自身のために生きてきた。しかし、今は違う。もし、今なお生きることが 許されるならば、神のために生きよう。神の栄光のために生きよう。神を誉め 讃え、神のまことを宣べ伝えるために生きよう。そのように考えた彼は、神に 訴え始めるのであります。「わたしが死んで墓に下ることに 何の益があるで しょう。塵があなたに感謝を捧げ、あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。 」ここで「益」と言われているのは、もちろん神様にとっての「益」というこ とです。つまり、わたしが死んだとしても神様にとって益とならない。神様の 「益」のためにこの地上において生かされている。それが分かったのです。
ここに私たちの誰もが至るべき試練の意味があるのだと思います。すなわち、 私たちは自らの力によって立っているのではなく、神によって生かされている のだ、ということを知る。そして、生かされているのには意味があるのだ、と いうことを知ることであります。すなわち、神の栄光のために存在し、神をほ めたたえ、神のまことを告げ知らせるために生かされていることを知り、神の ために存在しているのだということを知ることであります。
かくして神は彼の嘆きを踊りに変え、喜びを帯としてくださいました。神に よって変えられたこの詩人は神に向かって叫びます。「わたしの神、主よ、と こしえにあなたに感謝をささげます。」
最後にもう一度、6節を御覧ください。「ひととき、お怒りになっても、命 を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの 歌と共に朝を迎えさせてくださる。」
彼は確信をもってこのことを語ります。確かに神は怒られた。しかし、その 底に流れているのは、真の命そのものである、好意に満ちた神の御旨なのです。 そのことを知るならば、神は、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共 に朝を迎えさせてくださる」ことが分かるのです。たとえ今が涙と共に過ごす 暗闇の夜であっても、喜びの歌と共に迎える朝が必ず来る。朝が必ず来るので す。そして、「朝が来る」と言うとき、私たちはなお一つのことを心に留める べきであろうかと思います。この世における生活で、喜びの朝を迎えることも 大きな恵みです。彼は病気の癒しを通して喜びの朝を迎えたのです。しかし、 彼もまた後には死んだわけです。この世だけを視野に入れているならば、完全 なる解決はありません。ですから、最終的に私たちが迎える喜びの朝は、永遠 の命の世界によみがえるその時であると言うことができるでしょう。この地上 においてはなお解決のつかない、理解できないことがあるかも知れません。し かし、永遠の朝が来るのです。その時、悲しみの夜の意味がもはや問うべきこ とがないほどに明らかにされることでしょう。であるならば、大切なことは、 今この時、悔い改めて主に立ち帰ることです。一人の人間としても、この社会 全体としても、主に立ち帰ることなくして、どこにも希望はありません。主に 目を向け、喜びの朝を待ち望みつつ、いかなる状況にあっても今のこの時を大 切に生きるべきなのであります。