説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「その日が来れば」

1997年7月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ミカ書4・1‐8

 本日の礼拝において与えられていますのは、ミカ書4章1節から8節までで す。その内、1節から3節までは、ほどんどそっくりそのままイザヤ書2章2 節以下に出てきます。いったいこれは何を意味しているのでしょうか。今日は そのことを考えながら、この箇所が私たちに語りかけているメッセージを受け 止めたいと思うのであります。

かつて語られた希望の言葉

 先にイザヤ書2章をお開きいただきたいと思います。翻訳聖書でも分かりま す通り、ミカ書の対応箇所と完全に同じ文章ではありません。ほとんど逐語的 に一致していますが数語において語順の変化や書き加えが見られます。今日は ここで細かい議論はいたしません。結論だけ申しますとミカ書の方が詩文とし ては韻律的にも若干整った形となっております。と言うことは、ミカ書のこの 箇所の方が時代的には後であると考えられるわけです。

 そこで、イザヤ書2章2節から4節なのですが、この部分については、アモ ツの子、預言者イザヤによる終末預言の一つとして理解してよいのではないか と思っております。イザヤの終末預言としては、9章や11章のメシア預言が 有名ですが、ここもまた、同じ思想的な流れの内にあると考えられるわけです。

 例えば、9章1節から6節などにも同じ主題が見られます。「… 地を踏み鳴 らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くさ れた。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわ たしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、 力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権 威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそ してとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。 (9・4‐6)」ここではメシアである王の即位が語られているわけですが、 現実にはユダ王国の王が既に存在しているわけです。ということは、現在の王 国をイザヤは否定しているということです。なぜ否定せざるを得ないかという と、もはやそこでは神の御心がなされていないからです。王を通して神が治め ておられると言い得ない現実が、ユダ王国の中にあったからです。支配してい るのは人間の罪でしかない。

 このように、イザヤの終末預言の背後には現実の王国への失望があると考え られます。しかし、彼はただ諦めの中に生きてはいません。世の中には、現実 に対する失望から一歩も外に出ようとしない人も大勢います。しかし、イザヤ はそうではなかった。彼は失望の中から、神の御業を仰ぎ望むのです。正義と 恵みの業が支配する世界を他ならぬ神が実現し給うことを待ち望むのです。

 イザヤ書2章においても、やはり、神の御業に対する待望が描かれておりま す。その内容は「終わりの日に」という言葉で始まります。終末預言における 「終わりの日」は、私たちが言うところの「世の終わり」というのとは随分意 味合いが異なります。それは新しい時代の始まりを意味する言葉であります。 その時に、エルサレムの神殿のある山がそびえ立ち、イスラエルに敵対してい た国々の民は大河のようにエルサレムに向かってくると言うのです。争いのた めではありません。主を求めて来るのです。「主の山に登り、ヤコブの神の家 に行こう。主はわたしたちに道をしめされる。わたしたちはその道を歩もう」 と言って上ってくるのです。そこで人々は神の言葉を聞き、主の教えに従いま す。主が正しい裁きをなし、秩序を回復される。その時、本当の平和が実現す るのです。神が完全に治められるところにおいて、真の平和が実現するのです。 その希望を「終わりの日」に見るのであります。彼は希望を捨てることはあり ませんでした。その希望の言葉は後の時代まで伝えられたのであります。

再び語られた希望の言葉

 先ほども言いましたように、ほとんど同じ言葉がミカ書に見られます。どう ぞミカ書4章をもう一度お開きください。そして、先にも申し上げましたよう に、ミカ書の相当箇所の方が時代的には後であると考えられます。要するにイ ザヤの預言から取られた言葉が後に再び語られ、ミカ書に取り入れられたとい うことになります。それはいつの時代なのでしょうか。6節以下には次のよう に書かれています。「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた 者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。し かし、わたしは足の萎えた者を残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者 を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに、主が彼らの上に王となら れる。(6‐7節)」ここで「追いやられた者」「遠く連れ去られた者」とい う言葉が出てきます。ということは、この言葉の背後に「追いやられた者」 「遠く連れ去られた者」がいるということです。つまり、時代的に言いますな らば、捕囚期であるということです。イザヤが語ったのはユダ王国が滅びる前 でありました。エルサレムの神殿も存在していました。しかし、その言葉が取 り入れられているこの箇所は、既に王国が滅び、神殿も破壊されてしまった後 である、ということであります。時代的には二百年近くの隔たりがあるのです。

 さて、ここで預言書そのものについて一言申し上げておく方が良いかも知れ ません。既にお話ししてきたことからも明かなように、預言書というものは、 いわゆる預言者が本を書くように書き記したものではありません。イザヤ書に せよ、ミカ書にせよ、現在の形に至るまでには、数百年に渡る編集が繰り返さ れているのです。預言者イザヤや預言者ミカの言葉を核として、それに既に存 在している詩や物語、あるいは後の時代の預言が加えられて、現在の形になっ ているのです。それゆえ、一つの預言書の中に、異なる時代背景を持つ言葉が 現れてくるのです。神はただ単にイザヤやミカによって語られただけではなく、 そこから始まったそれぞれの流れの中で、その後何百年にわたって神が繰り返 しイスラエルに対して語り続けてきたのでした。預言書編集のプロセスは、そ の記録であり証しでもあると言うことができるでしょう。

 以上のことを踏まえた上で、二百年近く後に、イザヤ書にあるのとほとんど 同じ預言の言葉がミカ書4章に加えられたことの意味を御一緒に考えてみたい と思います。そのためには、少なくとも二つのことを心に留めておく必要があ ります。

 第一に、直前のミカ書3章までにおいては、エルサレムに対する裁きの預言 が中心であるという事実です。これらは主にイザヤと同時代人であったミカの 言葉です。まだエルサレムはユダの都であり、神殿が存在している時代の言葉 です。そのエルサレムにおける政治的宗教的指導者層の堕落が糾弾されている のであります。確かに祭儀は行われております。宗教そのものが無くなったわ けではありません。エルサレムを中心とした政治的宗教的体制は厳として存在 するのです。しかし、これらの人々は主によって立てられているにもかかわら ず、もはや主の御心に対して関心を持ってはいない。自らの利益にしか思いを 馳せてないのです。ですから、ミカは彼らの罪を明らかにするのです。「聞け、 このことを。ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌 み嫌い、まっすぐなものを曲げ、流血をもってシオンを、不正をもってエルサ レムを建てる者たちよ。頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取 って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。 『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』と。 (3・9‐11)」これがかつてのエルサレムの現実だったのであります。主 の栄光とはほど遠い姿だったのであります。

 そして第二に心に留めるべきことは、先ほども申しましたように、4章1節 から3節がここに加えられたのは捕囚期であるということです。ミカは「それ ゆえ、お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変 わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」と預言しました。それが実 現してしまったのです。「主の神殿の山に諸国民はこぞって主の言葉を求めて 集う」。イザヤの語った希望の言葉は、彼らの現実において、どれほど虚しく 響いたことでしょうか。「神殿の山は高くそびえる」どころか、その当の神殿 ももはや無いのです。破壊されてしまっているのです。神殿の山は廃墟なので す。そして、諸国民が集まってくるということが語られていました。「もろも ろの民は大河のようにそこに向かう」はずだったのです。ところが、現実はど うかと言えば、むしろイスラエルの方が捕囚として散らされてしまっているの です。

 以上の二つのことを考えます時、かつてイザヤが語り、ここで再び語り直さ れているこの言葉はいかにもナンセンスです。目の前の現実だけを見るならば、 「神殿の山は高くそびえ」などという言葉は、愚か者の戯言にしか聞こえませ ん。しかし、そのナンセンスとも思える言葉をなお捨てなかった人々がいたの です。同じ希望の言葉を再び語り直し、ミカ書に書き記そうとした人々がいた のです。その事実を私たちは驚きをもって受け止めなくてはなりません。信仰 によって生きるとはいかなることかを彼らから学ばなくてはならないのであり ます。

 彼らが掴んで離さなかったのは、「終わりの日に」という言葉でありました。 その言葉は、漠然と遥か彼方を見るようなものではありません。そうではなく て、神の完全なる支配が「必ず来る、きっと来る」と信じ、待ち望むことを意 味したのです。もちろん、彼らは自らを誤魔化しませんでした。自らの罪のゆ えに裁きが臨んだのだという事実をしっかりと捕らえておりました。ミカ書3 章までに書かれていることから目を逸らすことはありませんでした。ですから、 単なる楽観主義ではありません。しかし、そこに留まらないのです。彼らは3 章の裁きの預言とその実現した事実を踏まえた上で、なお「終わりの日に」と いう言葉を続けたのです。それは現実をしっかりと見据えた上で、なお現実を 越える希望なのです。それが終末に向かう信仰なのです。

 そして、終末に向かう信仰と希望こそが、今ここにおいていかに生きたら良 いかを明らかにするのです。5節には次のように書かれております。「どの民 もおのおの、自分の神の名によって歩む。」これが彼らの目に映っているこの 世の事実です。神の完全なる支配はまだ来ていません。彼らは捕囚の民なので すから、実際には主に向かうことのない異国の民の中に散らされているわけで す。しかし、周りの状況によって支配されてはならないのです。彼らはそのこ とを良く知っております。それゆえ、彼らはこう続けます。「我々は、とこし えに、我らの神、主の御名によって歩む。」終末に向かう民は、現在を自らの 責任として受け止めます。終末の希望を持たない者は、見える現実に振り回さ れます。そして、自らの状態を周りの責任にして生きることになる。しかし、 本当は周りがどうこうではないのです。自分自身が今、主の御名によって歩む かどうかが問われているのです。神との関係こそが最も大切なこととして問わ れているのであります。

 そして、周りがいかなる状況であれ、主の御名によって希望をもって歩もう とする人々にこそ、神はさらなる希望を語られるのであります。「その日が来 れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び 寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、わたしは足の萎えた者を残 りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、 今よりとこしえに、主が彼らの上に王となられる。羊の群れを見張る塔よ、娘 シオンの砦よ、かつてあった主権が、娘エルサレムの王権が、お前のもとに再 び返って来る。(6‐8節)」「その日が来れば。その日が来れば!」その言 葉の中に、彼らは捕囚の惨めな現実を突き抜けて、エルサレムが回復された姿 を見ていたのです。神の完全なる支配のもとに、あるべき姿に回復されたその 姿を見ていたのであります。

 さて、私たちはどうでしょうか。教会は今なお罪と死が支配しているように 見える世界の中に置かれております。私たち自身にも、教会にも、罪の現実と 深刻な破れがあります。悩みと苦しみと痛みを負いつつ、なおバビロンの捕囚 民のように耐え忍ばなくてはならないことがあるでしょう。神が与えてくださ った希望の言葉など、ナンセンスなものとして投げ出したくなることもあるか も知れません。しかし、希望の言葉を繰り返し語り直し、「我々は、とこしえ に、我らの神、主と御名によって歩む」と宣言した彼らが仰ぎ臨んだ神は、ま た私たちの神でもあられるのです。彼らに伴いなお希望を語り続けてくださっ た神は、私たちにも伴い、美しい夢と幻を見せてくださるお方なのです。「そ の日が来れば!」そうです、神の御支配が完成する時が来るのです。私たちは 永遠の命を与えられている者として、神の全き支配のもとに生きる時が来るの です。神はキリストの十字架と復活を通し、最終的に決定的に、この希望の言 葉を私たちに与えてくださいました。神の約束の言葉を投げ捨ててはいけませ ん。私たちは、今たとえどのような状況にあろうとも、主を礼拝し、主の御名 によって歩み続ける者でありたいと思うのであります。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡