(東京神学大学4年中島啓一神学生説教)

  「水をくむしもべ」      
              ヨハネ2・1‐11

 お読みいたしましたヨハネ2章にはガリラヤのカ
ナという町で行われた結婚式の様子が記されていま
す。その結婚式にはイエスがその弟子とともに招待
されており、またイエスの母マリヤがその接待のお
世話に携わっておりました。このことからイエスと
その母マリヤとが、このたび晴れて結婚式を行う家
族のことをよく知っており、また親しくしていたで
あろうことが想像できます。
 結婚式とは昔も今も人生の晴れ舞台であり、まさ
に新しい門出であります。そこにイエス様が出席し
ておってくださるとは何とすばらしいことでしょう。
そのようなすばらしい祝福の中、新郎新婦は新しい
人生を今まさに始めようとしていたのです。
 ところが宴もたけなわのその時、予期せぬ出来事
が起こりました。どうしたわけかぶどう酒がなくな
ってしまったのです。私たちの人生においても、え
てしてアクシデントというものは順風満帆の時に突
然足もとをすくうかのごとくに起こるものです。
 この時代の結婚式においては、主人はお祝いに集
まった来客にぶどう酒を振るまい、こころゆくまで
楽しんでもらうのが習わしでした。そのために、主
人はぶどう酒をゆとりをもって用意しておくべきで
した。けれども来賓客が予想外に多かったのでしょ
うか、それとも用意する量の見積もりを誤ったので
しょうか。いずれにしても、結婚式で客にだすぶど
う酒がなくなってしまうということは、来客にとっ
ては大変興ざめなことであり、主人にとっては大き
な恥であり、また新郎新婦にとっては新しい人生の
門出に大きなけちがつきかねない事件であります。
 さてイエスの母マリヤはぶどう酒がなくなりとま
どっている主人に気が付きました。その時マリヤは
どうしたでしょうか。親しい者が窮地に陥っていま
す。「何とか手助けをしてあげたい」、そのような
状況の中で、彼女は他の誰にでもなくイエスのもと
にその問題を持っていきます。私たちは自らの身に、
また周囲の親しい者の上に突然のアクシデントが襲
った時、どうするでしょうか。その時、その問題を
イエスのもとに持ってくる者は幸いであります。マ
リヤはぶどう酒が無くなったとき、イエスのもとへ
とやってきました。そして包み隠さず、簡潔に事実
のみを伝えたのです。すなわち3節にあるように「
ぶどう酒がなくなりました」と。だからどうして下
さいとまでは言いませんでした。そこにはイエスな
らば、求める前から必要を知り、最善の方策をもっ
て対処してくれるはずだという信仰、信頼を見るこ
とができます。
 それに対しイエスは4節にあるように「婦人よ、
わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時は
まだ来ていません」と答えます。自分の母親に対し
てよそよそしい返答をしているように感じますが、
ギリシヤ語の「婦人よ」という言葉には、無礼もし
くは粗野な含みはありません。ただ、イエスはこの
時意識して「母」という言葉を使用しなかったよう
であります。つまり、イエスの働きは、それがたと
え自らの母の頼みであったとしても、人間の要求に
従ってなされるのではなく、他ならぬ神の計画に従
ってなされるのだ、と言うことをあらわしています。
「わたしの時はまだきていません」とは、他のいか
なる人の指示に促されるのでもなく、ただ神の時に
従って、即ちただ神の計画にのみ従って、イエスは
みわざを遂行されるのだということを意味するので
す。
 けれどもふつうの親子関係において、愛するわが
息子からこのような返答を受けたならば、母は気を
落とし、意気消沈してしまうことでしょう。しかし
母マリヤは、召し使いたちに「この人が何か言いつ
けたら、その通りにしてください」と言いました。
そこにはイエスに対するさらなる信頼を見ることが
できます。
 さて、この場面でマリヤがその家の召し使いたち
に指図をできたことは、彼女がその家庭とかなり親
密であったことを表しています。召し使いたちにと
っては主人の友達であるマリヤは主人に等しい立場
の者であり、マリヤの指図は主人からの命令にも等
しいものだったことでしょう。
 ところで、ルカ福音書(7章)に、ローマの百人
隊長がイエスに対して病気の部下をいやしてもらい
たいと願い出る記事があります。その時、百人隊長
は「主よ、ご足労には及びません、ひと言おっしゃ
ってください。そしてわたしのしもべをいやしてく
ださい」と願います。そこで百人隊長は自分と部下
との例を引き合いに出します。即ち「わたしも権威
の下に置かれているものですが、わたしの下には兵
隊がおり、ひとりに『来い』と言えば来ます。また
部下に『これをしろ』と言えばその通りにします」
と語り、わたしの部下でさえ、わたしの言葉一つで、
その通りに行うのであるから、まして主の言葉一つ
でわたしの部下の病がいやされないことがありまし
ょうか、とその信仰を表明したのです。これに対し
イエスは、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、
わたしはこれほどの信仰を見たことはない」と絶賛
されました。
 さてこの百人隊長の言葉にあったように、しもべ
と言うものは、主人の命令に服従することが期待さ
れています。結婚式のこの場面で、主人に等しいマ
リヤから「この人が何か言いつけたら、そのとおり
にしてください」と委託を受けたイエスは、召し使
いにとって、これもまた主人に等しい立場にある者
です。兵隊と召し使いの違いはあるものの、この場
面で彼らがイエスの指示に従うことは当然と言えば
当然のことでしょう。
 しかし私たちは、人に対しても神に対しても、従
うことに日々困難を覚える者です。指示されたこと
が道理にかなっており、その意図、目的が私たちに
理解できるときには、従うこともそれほど困難では
ないかもしれません。しかし「それをせよ」と言わ
れても、その目的がわからない時に、それでもその
命令に従うことは容易なことでしょうか。仮に従っ
たとしても、そこに疑問を抱き、「何のためにこの
ようなことをしなくてはならないのですか」と問わ
ずにはおれないことがしばしなのではないでしょう
か。
 イエスの命令は「水がめに水をいっぱい入れなさ
い」と言うものでした。必要なものはぶどう酒であ
り、水ではありません。なぜ水をくまなければなら
ないのか、という疑問が生じても不思議はありませ
ん。またこの作業自体が、一見すると何でもないこ
とのように思えますが、よく考えてみると、これは
かなりの重労働であることがわかるのです。まず石
がめですから、当然石でできています。プラスチッ
クのバケツに水を汲むのとはわけがちがうのです。
しかもその石がめの大きさが並大抵ではありません。
2ないし3メトレトスの石がめと書かれていますが、
新共同訳聖書の付録の度量衡表を見ますと、一メト
レトスは約39リットルと書かれています。すなわ
ち、一つの石がめはそれぞれ約80~120リット
ル入りで、中身だけで実に100キログラム以上に
もなるのです。これに石でできたかめ自体の重さも
加えたらいったいどれほどの重さになることでしょ
う。そしてその石がめが六つもあったのです。さら
に加えて、水を汲むという作業自体がたやすいこと
ではありません。水道の蛇口をひねれば水が出ると
いう時代ではなかったのです。井戸から汲んだのか、
泉から汲んだのかはわかりませんが、相当の重労働
であったにちがいありません。
 しかし召し使いたちは、黙してイエスの命令に従
いました。主人に等しいイエスの言葉であるゆえに
従ったのです。しかも、「水をいっぱいに入れなさ
い」と言うイエスの言葉に対し、手を抜くことなく、
「かめの縁まで」水を満たしたのです。
 彼らの心の中に「なぜこんなことをしなくてはい
けないのか」という疑問は湧かなかったのでしょう
か?  しかし彼らの仕事ぶりを見るときに、すなわ
ちお言葉通りに「かめの縁まで」水を満たしたその
働きぶりを見るときに、彼らは心からイエスに従っ
ていたと見ることはできないでしょうか。
 かつて、漁師であったシモン・ペトロは、一晩中
網をおろしても一匹の魚も捕れなかったことがあり
ました。まだイエスの弟子になる前の話です。その
ペトロに対しイエスは「沖へこぎ出し、網をおろし
て漁をしてみなさい」と言われました。ペトロはプ
ロの漁師です。漁に関しては素人といってよいイエ
スからそのようなことを言われても、すぐに従うこ
とができるでしょうか。ペトロは言いました。「先
生、わたしたちは夜通し働きましたが、何もとれま
せんでした」。しかし彼は従ったのです。半信半疑
ながらも「しかし、お言葉ですから、網をおろして
みましょう」と従ったのです。結果は、大漁となり、
ペトロがイエスに弟子として従って行くきっかけと
なりました。
 さて私たちはなすべきことを主から示された時に、
それに速やかに従っているでしょうか。時には、自
分の思い、願いに反することを主から示されること
もあるでしょう。しかし自分の思いを主の意志に優
先させることなく神に従うことができるでしょうか。
 時には、主の意図するところが分からず、「なぜ
このようなことがわたしの身に起こるのか?」、「
主は何のためにこのようなことをわたしにさせるの
か?」、また他人と自分とを見比べて「わたしはと
んでもない回り道をさせられているのではないか?
」「私は損な貧乏くじを引かされているのではない
か?」と言う気持ちが起こることもあるかもしれま
せん。
 しかし私たちはイエスを主と告白する者でありま
す。ならば主人の言葉に従いお言葉通りに忠実な働
きをしたしもべたちのように、またお言葉ですから
と主に従い網をおろしたペトロのように、私たちも
他でもない主のお言葉であるという理由によって、
主に従い行動を起こすことを求められているのでは
ないでしょうか。
 さて、水を汲んだ召し使いたちに対しイエスは、
「それを汲んで宴会の世話役のところに持って行き
なさい」と命じられました。召し使いたちはこの命
令にも従いました。そこに大いなるみわざが起こっ
たのです。すなわち水がぶどう酒に変えられるとい
うみわざです。
 イエスがそのみわざのために用いられたのは、何
の変哲もない水でした。そして名もない召し使いた
ちでした。
 このことから分かるように、私たちは主に用いて
いただくために、いかなる資格も能力も必要ないの
です。この召し使いたちのように名もない小さな者
でよいのです。ただ求められているのは、お言葉に
従うこと、すなわち服従です。
 宴会の世話役はそのぶどう酒がどこから来たのか
知らず、ただそのぶどう酒のすばらしさをほめまし
た。結婚式の参列者たちも、ぶどう酒がなくなった
ことすら知らずに最後までこの宴を楽しんだことで
しょう。この家の主人も、結婚式の途中でぶどう酒
がなくなるという大きな恥から救われたばかりか、
かえって後になるまで最高のぶどう酒を取っておい
たということで、大いに面目を施すことができたで
しょう。
 けれども、ごく一部の者をのぞいては、この召し
使いたちの忠実な働きぶりを知りませんでした。彼
らの働きは人の目には留まらなかったのです。
 しかしその働きは主の目には留まりました。そし
て彼らはまたとないご褒美を主からいただくことが
できたのです。
 すなわちそれは、「このぶどう酒がどこから来た
のか、水を汲んだ召し使いたちは知っていた」とい
うことです。そうです、彼らはよく知っていました。
自らの手で、額に汗してくんだ、紛れもないただの
水なのです。そのことは彼ら自身がよく知っており
ました。けれども、今そこにあるのは、最高のぶど
う酒なのであります。「水くむしもべは知れり」。
彼らはこの起こり得ないすばらしい出来事、そこに
神が働かれたのでなければ起こり得ないすばらしい
みわざの一部始終を目の当たりにすることができた
のです。そして、彼らはそれを目撃したばかりか、
イエスが栄光を現されたそのみわざの担い手として
用いていただくというこの上ない栄誉に与ったので
す。しかもこのみわざはイエスの公の生涯における
記念すべき最初のしるしでありました。
 彼らは名もなき者でありますが、彼らの働きは永
遠に記念され、2000年を経ても古びることなく、
語り継がれているのです。
 しばしば私たちは名を追い求める者ではないでし
ょうか? 自らの面目や、体裁、立場を求めるあまり、
主の栄光があらわされる妨げとなっていないでしょ
うか? ただ主の栄光のみがあらわされ、自らは名
もなき者であることが私たちの喜びとなれば、何と
すばらしいことでしょう。
 また私たちはしばしば理由を追い求める者ではな
いでしょうか? 人間的な考えが優先し、主に従えず
にいることはないでしょうか? 主は文字通り私た
ちの主人であります。私たちはイエスを主と仰ぐと
き、私たちは主のしもべなのです。しもべであるゆ
えに主人の言葉は絶対であり、それがたとえどんな
に道理に合わないことであっても従うのであります。
 けれども主は私たちのために命までお与えになる
ほどに私たちを愛して下さる主人であります。その
主が私たちに道理に合わないことをお命じになるで
しょうか。私たちのこれまでの人生を振り返り、主
が私たちに為してくださった数々の恵みを思い起こ
すときに、主が私たちに最善以外のことをなさらな
かったと言えないでしょうか。私たちの失敗や過ち
さえ、私たちが悔い改めて従うときに、主はそれを
益と変えてくださったという経験を誰しもお持ちで
はないでしょうか? そして主が私たちのために最
善以外のことはなさらないという信仰が、主の言葉
に従うに十分な理由とはならないでしょうか。
 確かに主に従う道は、楽なことばかりではありま
せん。私たちは教会奉仕においても、また日々の生
活においても、時には苦しいこと、つらいこと、人
に分かってもらえないこと、正当に評価してもらえ
ないこともあるでしょう。けれども主に従うことを
やめないで下さい。主はあなたの働きを知っていて
下さいます。そして水をくむしもべに格別の恵みを
もってお報いになられたように、主は私たちをもね
ぎらって下さり、主に従って労苦した者にしか知る
ことのできない特別の恵みをもって応えて下さいま
す。
 今日、私たちも、名も無き水くむしもべとされて、
忠実に主に従う者とさせていただきましょう。「水
くむしもべは知れり」という特別の恵みをもって主
は私たちに応えて下さいます。