「闇から光へ」
1997年7月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 中島啓一神学生説教
聖書 ヨハネ3・1‐21
本日お読みしましたヨハネ3章にはニコデモという人物が登場いたします。 彼はユダヤの議員でありました。また一説によると大変高貴な家系の出身であ ったと言われています。そして彼はファリサイ派に属する人であったとありま す。ファリサイ派とは「分かたれた者」という意味があり、律法の細かい規則 を守るために普通の生活から自分たちを区別し、それを実行することこそが神 を喜ばせるのだと確信して生きている人でありました。
その彼がイエスのもとへ自分の魂の問題を語ろうとやって来たことは驚くべ きことです。「自分は富も名誉も存分に持っている、またファリサイ人として 律法を遵守することに生涯をささげ、そのことこそが神を喜ばせるのだと信じ てここまで来た、けれどもどうにも満たされないのは何故だろう?」。そうい う思いを抱きつつ彼がイエスのもとを訪ねたのは夜中のことでありました。そ れは人目に付くまいという慎重さのゆえでありましたが、同時に夜のような闇 の中でどうにかして光を見いだそうとする彼の魂の状態を象徴していたと言え るでしょう。
ニコデモはイエスのもとにやって来て、さっそく(2節)「ラビ、わたしど もは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共 におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことは できないからです」とあいさつをしました。彼はその言葉の中で、イエスのし るしや奇跡を称賛し、その背後に神の権威があることを認めています。けれど もそれに対するイエスの返答は(3節)「はっきり言っておく。人は、新たに 生まれなければ、神の国を見ることはできない」というものでした。この返答 はニコデモの最初のあいさつに対してかみ合わないものです。普通ならばニコ デモから称賛のあいさつを受けて、「そのとおりである」とか「いやそんなこ とはないですよ」など、それに対応した返事をするでしょう。けれどもいきな り、「神の国にはいるためには、人は新たに生まれなければならない」と突拍 子もないことをおっしゃったのです。見方によってはニコデモのあいさつを無 視しているようにさえ受け取れます。けれどもニコデモがこのイエスの言葉を 聞いた時に、「いきなり何をおっしゃるのですか」と面食らうのではなく、そ れを受けて(4節)「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。 もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と答えている のを見ると、ニコデモがイエスに尋ねたかったのはまさにこのことだったのだ ということが分かるのです。彼はイエスにわざわざおべんちゃらを言うために 来たのではなく、神の国について、そして新しく生まれることについてイエス に尋ねたかったのだ、そしてそのためこそ人目を忍んでやって来たのです。そ してイエス自身が彼の訪問の目的をよくご承知であったからこそ、一見突拍子 もない言葉のように思われる「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなけ れば、神の国を見ることはできない」という言葉を語られたのです。
イエスは、神の国にはいるためには「新しく生まれる」という人間の内側に おける変革こそが大切なのだとおっしゃいました。そしてニコデモが尋ねたか ったことはまさにこのことについてであったのです。
ヨハネ福音書では「神の国」という言葉が二回しか出てきません。それもこ の3章3、5節に出て来るのみです。けれども通常、ヨハネ福音書では、神と の正しい、新しい関係を「永遠の命」という言葉で表現しています。そしてこ の永遠の命を得るために、人は新しく生まれなければならないとイエスは語る のです。
けれどもイエスが「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神 の国を見ることはできない」と言われた時、ニコデモはその言葉を十分に理解 することができませんでした。イエスが「新たに生まれなければ」と言われた 時、彼はその「新たに」という言葉を「もう一度、再び」という意味に理解し ました。それ故に「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。 もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」というある意 味とんちんかんな答えをしたのであります。
けれどもニコデモがそう語る時、彼の心の中には、その文字通りの問いかけ 以上のものがありました。彼の心の中には、次のような思いがあったのです。 すなわち「あなたはもう一度生まれることについて語り、根本的な変革が必要 であるとおっしゃる。私もそれが必要であることは知っている。けれども私の 経験からいって、それは全く不可能なことだ」と。ニコデモが直面しているの は、変革されることを願いながらも、自分では変革することができない人間の 問題であったのです。
けれどもイエスが言われた「新たに」という言葉には「もう一度、再び」と いう意味に加えて、あと二つの意味がありました。それは「初めから、完全に 」という意味と、「上から、すなわち神から」という意味です。イエスが「人 は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われた時、そ こにはこれらの意味がすべて含まれていました。すなわち「新たに生まれる」 とは、新しい誕生のような魂の根本的な変革の経験であり、そしてそれは人間 によって与えられるものでも、人間の努力によって得られるものでもなく、 「上から」すなわち神から与えられるものなのであるということを意味してい たのです。
ニコデモには特にこの「上から」という視点が欠けていました。ファリサイ 派として神の律法を事細かに遵守することによって、神に喜ばれようとし、そ して神との正しい関係を保とうとしてきた彼は、いつしか自分の力、自分の努 力で「新しく生まれること」を獲得しようしていたのです。けれどもそれを得 られずに、何とかして新しく生まれるための方法を知りたいと切望してイエス のもとを訪れたのです。けれどもこの「上から」という視点が欠けていたため に彼は「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というイエス の言葉を十分に理解できなかったのです。
けれどもそんなニコデモに対し、イエスはさらにお言葉を続けます。(5節) 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に 入ることはできない」。ここでイエスは先ほどの「新たに」という言葉を「水 と霊とによって」と置き換えて語っておられます。ここで言う水とは「きよめ 」の象徴であります。それは私たちの過去の罪がゆるされ、きよめられること をあらわしています。そして霊とは「力」の象徴であります。水によって単に 過去が忘れられ、ゆるされるだけではない。それだけならば、人はもう一度同 じ失敗を繰り返すばかりでしょう。けれども霊によって私たちは、新しい力、 私たちが自分では決して為し得ないようなことをなし得る力を与えられるので す。「水と霊とによって」とは、私たちの過去を一掃し、そして未来に勝利を 与える、キリストのきよめと力をあらわしているのです。
そして続いてイエスは風のたとえを持ち出します。すなわち(8節)「風は 思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ 行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と。ギリシア語 においてもヘブル語においても、風を意味する言葉は同時に霊をも意味します。 イエスはこう言われます。「あなたは風を聞いたり、感じたりすることができ ます。けれどもその風がどこから来て、どこへ行くのかは分からないでしょう。 風そのものは目には見えません。けれども、風が確かにそこに吹いていること は、頬に当たる感触や、木々のざわめき、木の葉の揺れなどを見れば明らかで す。そして霊の働きも全く同じです。あなたはみ霊がどのように働くか知りま せん。けれどもあなたは人間の生にあらわれたみ霊の働きを見ることができま す」と。
かつて、一人の酔っぱらいがイエス・キリストを信じて回心いたしました。 すると彼の仕事仲間が彼をからかって言いました。「まさかお前は、奇跡とか、 そのようなものを信じているのではないだろうな。たとえば、イエス様が水を ぶどう酒にかえたとか、まさかそんなことを信じているんじゃなかろうな」。 それに対し、回心した男はこう答えたそうです。「イエス様がパレスチナにお られたとき、水がぶどう酒に変えられたかどうか、俺はそんなことは知らない。 俺の知っていることは、この俺のうちで、イエス様がビールを家具に変えて下 さったということだ」。
このように、私たちはみ霊がどのように働くかは分かりません。けれどもみ 霊が人々の生活に及ぼす影響は明らかです。そしてそのみ霊の働きによって人 は新しく生まれるのだとイエスは語るのであります。
けれどもニコデモは(9節)「どうして、そんなことがありえましょうか」 と言いました。彼はまだ分からなかったのです。ここに一つの警告があります。 キリスト教を知的に捉えようとするだけでは救いを得ることはできません。も ちろんキリスト教の真理の輪郭を知的に把握しておくことは大切です。けれど も、最も重要なことは、「力」を体験することなのです。イエス・キリストの 力が生き生きとあらわされている様子を、この目で見、この耳で聞くことのほ うがはるかに重要なことなのです。
イエスはニコデモを次のように叱責しました。すなわち(10~11節) 「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことも分からないのか。は っきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証しして いるのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」と。風が目に見え なくても、木の葉の揺れを見ればそこに風が吹いていることは明らかなように、 聖書を読めば、教会に来れば、そしてみ霊によって変えられて、生き生きとし ている人を見、またその証しを聞けば、み霊も目に見えなくても、その働きは 私たちにとって明らかです。そして大切なのは、それを第三者的に傍観してい るのではなく、他人事として見るのでもなく、それを自分のこととして捉え、 自分をその中において、そして、その風を感じてみることなのです。
16節は聖書の中の聖書と言われる箇所です。「神は、その独り子をお与え になったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永 遠の命を得るためである」。私はよくこの聖句に自分の名前を入れて読んでご らんなさいと教えられてきました。イエス・キリストの力を体験すること、そ れを自分のこととして捉え、自分をそこにおくとはまさにこのことであります。 「神はその独り子をお与えになったほどにニコデモを愛された。独り子を信じ るニコデモが滅びないで、永遠の命を得るためである」。そしてニコデモに必 要とされたのは、傍観者の姿勢ではなく、自分をそこにおくというこの姿勢だ ったのです。
神は滅びに至るべき私たち、いや私に永遠の命を与えるために行動を起こし て下さいました。すなわち私を愛するゆえに、独り子イエスをお与えになった のです。このことは机上の理論ではなく、また、こうあったらいいなあという 理想でもなく、歴史において実際に行われた、そしてすでに成し遂げられた事 実なのです。
そしてこの「御子を信じる」ことこそが、人を裁くのだと記されています。 (18節)「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。 神の独り子の名を信じていないからである」。御子を信じる者には永遠の命が、 信じない者には永遠の滅びが、それぞれ与えられ、そして中間はないのであり ます。光と闇とが相容れないように、光に背を向ける者の前にはただ陰のみが 広がるように、御子を信じるか信じないかで、その人の「永遠」が決まるので す。
(19~21節)「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光より も闇のほうを好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行うものは皆、光 を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからであ る。しかし、真理を行う者は光のほうに来る。その行いが神に導かれてなされ たということが、明らかになるために」。
ニコデモは光を求めて、真夜中にイエスのもとを訪れました。けれども彼は なかなかイエスの語ることを理解できない者でありました。この後イエスと彼 との対話がどのように続いたのかは分かりません。けれども、彼の後の姿が、 イエスの十字架の後に同じヨハネ福音書に記されています。ヨハネ18章38 節~42節までをお読みいたします。「その後、イエスの弟子でありながら、 そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろし たいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り 降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、 没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受 け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエス が十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことの ない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かっ たので、そこにイエスを納めた」。
彼はユダヤ人を恐れて、わざわざ夜中にイエスを訪問した者でありました。 けれども、イエスが十字架によって処刑されて、その弟子たちでさえユダヤ人 たちを恐れて逃亡し、姿を隠しているこの時に、彼は堂々と、イエスの埋葬の ために没薬と沈香を携えてやってきたのであります。
彼は夜の来訪者から白昼を歩む者へと変えられました。彼はまさに暗闇の中、 光を求めつつ、光なるイエスのもとにやってきて、そして光を見いだし、闇か ら光へと移されたのです。今日私たちも、己の力により頼む者から上からの力 を待ち望む者に変えられ、またみ霊の働きを傍観する者からその風の中に自ら を置く者とされて、新しく生まれる者、闇の中でなく光の中を歩む者とさせて いただきましょう。お祈りをいたします。