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「和解の福音の使者として」

1997年8月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒21・17‐36

 パウロとその一行がエルサレムに到着しました。エルサレムの兄弟たちは彼 らを喜んで迎えます。翌日、パウロたちはヤコブを訪ねました。このヤコブは 主イエスの兄弟であって、当時のエルサレム教会において指導的な立場にあっ た人です。彼のもとには既に教会の長老たちが集まっていました。この物々し い描写を見ますときに、これが単にパウロたちを歓迎し出迎えるために集まっ たというのではないことが伺われます。つまり、このパウロのエルサレム訪問 は、ユダヤ人を中心としたエルサレム教会と、主にパウロが開拓した異邦人教 会との関係に関わる重大な会合であると、暗黙の理解があったものと思われる のです。それはこの後に彼らが語っている言葉からも分かります。彼らはパウ ロたちの報告を聞いて、彼らを通して働き給うた神を誉め讃えるのですが、そ の後、実際にはエルサレム教会と異邦人教会の間に、特にパウロとの間に、重 大な問題があることを語り始めるのであります。

 20節からの彼らの言葉をご覧ください。「兄弟よ、ご存じのように、幾万 人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちが あなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全 ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセ から離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょ うか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。(20‐22節)」 要するに、ユダヤ人キリスト者たちの間に、パウロに対する反対が起こってい るということです。もちろん誤解に基づく反対です。それはエルサレムの指導 者たちがもはや処理しきれない状況となっていたようなのです。そこで彼らは パウロに一つの提案をいたします。23節以下をご覧ください。「だから、わ たしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四 人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために 頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされている ことが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということ がみんなに分かります。(23‐24節)」

 さて、この勧めに対して、パウロはどうしたでしょうか。パウロは彼らの勧 めに従ったのです。26節に次のように書かれております。「そこで、パウロ はその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清 めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げ た。」

福音に生きる

 パウロのこの行動の意味するところを十分に理解するには、いくつかのこと に目を留める必要があります。

 第一に、パウロは彼自身の必要を満たすためにエルサレムに来たのではあり ませんでした。むしろ、この訪問の大きな目的の一つは、他ならぬエルサレム 教会へ援助金を届けることにありました。それは後にパウロ自身がフェリクス への弁明の中でも語っている通りです。「さて、私は、同胞に救援金を渡すた め、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻ってきました。(24・1 7)」そして、これは決して簡単に集めたお金ではないのです。この募金のた めにパウロ自身どれほど苦心したかは、例えばコリントの信徒への手紙(二) 9章を見れば分かります。その労苦は、パウロ自身がエルサレム教会との結び つきを考えてのことであり、精一杯の配慮の現れでもあったわけです。

 第二に、19節においてパウロは自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行わ れたことを報告しております。ここで注意すべきことは、「神がパウロの奉仕 を通して」と語られている点です。つまり、そこには、異邦人教会が純粋に神 の働きによって建てられて来たのだという彼の確信があるのです。そしてまた、 それはエルサレムの人々にとっても明らかであったのです。つまり、ここで改 めてエルサレム教会からの承認を受けなくてはならないということではないわ けで、パウロ自身もそのようなことを求めてエルサレムに来たわけではないの です。異邦人教会は既に純粋な意味で教会なのです。

 第三に、ヤコブたちの言う「幾万人」のユダヤ人キリスト者が抱いていたパ ウロに対する批判は、まったく彼の働きに対する誤解に基づいておりました。 割礼についてパウロが言及しているのは、例えばガラテヤの信徒への手紙であ りますが、そこでも問題は「異邦人キリスト者」が割礼を受けてモーセの律法 を守らなければ救われないと教えられていることが問題とされているのであっ て、ユダヤ人キリスト者については何も言われていないのです。むしろ、パウ ロ自身は「律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないの ですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている 人を得るためです(1コリント9・20)」と言っているのであって、ユダヤ 人に対する配慮を怠るようなことは決してなかったはずなのです。事実、彼自 身モーセの律法に基づいて誓願をなし髪を切ったことが18章18節には書か れておりました。それがパウロの今までしてきたことなのです。ですから、エ ルサレムのユダヤ人たちが反対をしているとするならば、問題はむしろ彼らの 無理解にあるのであって、パウロにあるとは言えないのです。

 第四に、彼らの提案はパウロにとって負担を強いるだけではなくて、彼を大 きな危険に晒すことにもなりかねないものでした。なぜなら、その提案に従う ならば、パウロは少なくとも七日間はエルサレムにいなくてはならないからで す。それだけではなく、実際パウロを憎んでやまないユダヤ人たちの密集する 神殿に日々出入りしなくてはならないのです。そして、事実、このことの故に、 後にパウロは死に瀕することになるのです。

 以上のことを一つ一つ思い巡らしてみますとき、ここでエルサレム教会の長 老たちが示した提案にパウロが従うということは、どう考えても決して妥当な ものとは思われません。常識的に考えるならば、パウロのいままでしてきたこ とで十分ではないかと思うのです。少なくとも、あれほどエルサレムは危険だ と言われながらも、援助金を携えて異邦人キリスト者の心を携えて来たことだ けで十分ではないかと思うのです。そして、その上、なぜ面倒なこの誤解に対 してわざわざ負担と危険を負うことによって申し開きをしなくてはならないの でしょうか。

 そもそも、どうしてそこまでしてエルサレム教会のユダヤ人キリスト者と関 わりを持たなくてはならないのでしょう。どうしてパウロの方がそこまで譲歩 しなくてはならないのでしょうか。一番簡単なことは、もはや一緒にいないこ とではないでしょうか。「あなたたちはあなたたち。私たちは私たち。」これ で良いではないですか。先にも言いましたように、異邦人教会は異邦人教会で、 神の建て給うた教会なのです。そして、彼らだけで十分にやっていけるのです。 むしろエルサレムと関われば関わるほど、面倒が増えるだけなのです。それは 私たちが日常経験していることからも分かるでしょう。私たちは面倒なことが あると一番良い解決は「共にいないこと」だと考えているではないかと思いま す。私たちでありましても、往々にして「関わりを持たないこと」こそ最善の 解決であると考えるではないですか。共にいるから面倒なことになるのですか ら。

 しかし、驚いたことにパウロは一言の反論もせず、あえて彼らの提案を受け 入れたのです。それがここに書かれていることであります。彼は自らが譲歩し てもなお彼らと共に歩む道を選んだのです。面倒なことが山ほど待ち受けてい る、その道を選んだのであります。なぜなのでしょうか。そのことをよく考え たいと思うのです。彼が人を恐れてこのような行動をとったのではないことは 明らかです。彼はエルサレムに来るに当たって死ぬことすら覚悟していたので すから。

 そうすると、これは単に人間的次元の必要や必然によるのではないことが分 かります。異邦人教会とユダヤ人を中心としたエルサレムの教会が一つである ということが、ただ「望ましい」ということではなくて、むしろ福音の本質に 関わることである。そのことをパウロの行動は示しているのです。

 「人が律法の実行によってではなく、ただ神の恵みにより、信仰によって義 とされ、救われる」という福音を、パウロは宣べ伝えました。しかし、これは ただ個人を罪責感から解放することに、その目的があるのではありません。そ のようなことのために、神はキリストを十字架にかけられたのではないのです。 私たちがただ神の恵みによって罪を赦され、神との和解に与ったのは、私たち が一つとせられ、共に生きる者とされるためなのであります。パウロがガラテ ヤの信徒への手紙の中で次のように書き記している通りです。「あなたがたは 皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けて キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこでは もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女 もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 (ガラテヤ3・26)」逆に言えば、どれほどキリスト者であると自らを見な し、信仰を与えられたことを喜んでいたとしても、それをあくまで個人的なこ ととしか考えられず、結局は自らを誇り、他者を裁き、切り捨てて生きている ならば、本当の意味で福音に与っているとは言えないのです。パウロは自らが 宣べ伝えていた福音に従って生きたのでした。その姿をルカは本日お読みした 箇所の中に描いているのであります。

主イエスの後を

 さて、そのようなパウロの行動はいかなる結果をもたらしたでしょうか。次 ぎにそのことを見ていきましょう。27節以下をご覧ください。

 七日の清めの期間が終わろうとしていた時でした。アジア州、恐らくエフェ ソから来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけて騒ぎ出しました。 「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視 することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内 に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。(28節)」ルカ自身が2 9節で説明している通り、これはまったく誤解に基づく叫びでした。しかし、 この言葉を聞いて、都全体は大騒ぎになってしまったのです。民衆は駆け寄っ て来てパウロを捕らえました。彼らがパウロを境内から引きずり出したところ を見ると、明らかに彼らはパウロを殺そうとしていたことが分かります。境内 から引きずり出したのは神殿を汚さないためでありました。彼らはパウロを殴 り始めます。そこに、混乱の報告を受けたローマの守備隊が駆けつけました。 彼らの到着が少しでも遅かったら、パウロは殺されていたかも知れません。守 備隊の千人隊長はパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るよう命じました。そして、 パウロが何者であって、何をしたのかと尋ねたのです。群衆はあれやこれやと 叫び立てました。結局、千人隊長は事の真相をつかむことができないので、パ ウロを兵営に護送することにしたのです。

 「パウロは福音に従って行動した。その行動は良い結果をもたらし、彼に対 する誤解は解け、不当な非難は消え去り、異邦人とユダヤ人の間の問題も解決 し、皆が一つとなった。」このような筋書きであるならば、話は分かりやすい と思います。しかし、事実はそうではありませんでした。ルカはそのことを2 7節以下に記しているのです。この騒動の時、「幾万人もの」ユダヤ人キリス ト者はいったい何をしていたのでしょうか。パウロを守ろうとする人はいなか ったのでしょうか。それとも、これが突然の出来事だったので、彼を守り得な かったということなのでしょうか。いや、どうもそのようには思われません。 彼が捕らえられて後も、エルサレムの教会がパウロのために動き出した様子は ないのです。

 結局、彼が誓願を立てた四人と共に清めの儀式に与ったことも、また頭をそ る費用を負担したことも、多くの人々が彼に対して抱いていた誤解と不当な非 難を消し去りはしなかったように思われます。結局は、すべてが無駄であった ように見えるのです。ここを見る限り、パウロが福音に従って行動したことは、 結果的にはただ単に彼自身を危険に晒しただけのように思われるのです。この ことはいったい私たちに何を語っているのでしょうか。

 そのことを考えて36節まで読みますと、私たちは一つのことに気づかされ ます。大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来た、と ルカは書いています。この民衆の言葉は見覚えがあります。そうです、ルカに よる福音書に出てきました。同じエルサレムにおいて群衆はポンテオ・ピラト に向かって叫んだのです。「その男を殺せ!」(ルカ23・18)ルカは、パ ウロのエルサレム上り、そして逮捕へと至る経過を描きましたが、ここに至っ てパウロと主イエスの姿が重なってくるのです。パウロは主イエスの後を歩ん でいるのです。十字架にかかって和解の福音をもたらしてくださった主イエス。 その和解の福音に生きることは、とりもなおさず自分の十字架を負って主イエ スの御足の跡を踏み従うことに他ならないということなのでしょう。

 そのことを考えます時に、ただ悲惨としか見えないこの場面に、一条の光が 差し込んでまいります。というのも、もしパウロが主イエスの後を歩んでいる のであるならば、一見無駄にしか見えないパウロの労苦も、決して無駄ではな いことが分かるからであります。神の御手の内にあるとき十字架は十字架で終 わらないのです。

 私たちがパウロと同じように打ちたたかれ投獄されるということはないかも 知れません。しかし、私たちが福音に生き、人々に福音をもたらす者として生 きようとする時、そこに無駄と思える労苦があり、誤解があり非難があり、引 き受けざるを得ない痛みと苦しみがあるということは、避けられないことなの かも知れません。しかし、私たちはなおも希望を持って歩むことが許されてい ます。私たちの前を主が歩まれるからです。そして、十字架は十字架で終わら ないことを知っているからです。私たちもまた主を信じて御足の跡を従ってま いりたいと思うので あります。

 
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