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「生きるとはキリスト」 

1997年8月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピ1・19‐26

働けなくなったら?

 宗教思想史に造詣のの深いある学者が次のようなことを書いていました。  「話は転ずるが、いつであったか東北のある山村で、八十を過ぎた老婆があ る日突然、納屋で首をくくって死んだ。ある日突然、といったのは、そのお婆 さんはどこからみても健康そのもので、前日まで野良にでて働いていたからで ある。だがその日の夕刻、かの女は軽い発作を起こして倒れ、医師から当分の あいだ、静養を命じられた。発端といえば、それが発端であった。かの女はそ の診断を聞くと、まさに間髪を入れず、日ごろの信念をそのまま実行に移した のである。日ごろの信念というのは、働けなくなったら自分は死ぬまで、とい う覚悟のことであった。…

 この壮絶といえばいえる終焉のドラマがどれほどの事実を伝えているのか、 あるいはそこに多少の虚構が混ぜられているのかどうか、それは私にはわから ない。しかし虚実の詮索はさておき、その話を聞いたとき、私は感動した。そ してできることなら、私もかくありたい、と思った。」

 以上がその文章の引用です。私も、このお婆さんの話の中にどれほどの事実 があるかは分からないと思います。しかし、この文章を読んだ時、とても心に ひっかかったのは、そのお婆さんの物語そのものではなくて、その後にこの人 が書いている言葉なのです。「虚実の詮索はさておき、その話を聞いたとき、 私は感動した。そしてできることなら、私もかくありたい、と思った」という、 この人のコメントが問題だと思うのです。

 「働けなくなったら自分は死ぬまで…」という覚悟を実行に移した老婦人。 その気持ちは理解不可能ではありません。分かります。しかし、変な言い方を しますが、この物語に「感動」してはならないと思うのです。「私もかくあり たい」と言ってはならないと思うのです。なぜなら、それは「働けなくなった 人間、他者の役に立たなくなった人間は生きているべきではない」という思想 を肯定することに他ならないからです。動けなくなった人は早く死になさい、 と言っていることに他ならないからです。この物語に「感動した」と書いてい るこの文章を読んで、私は怒りさえ覚えました。それなら、生まれながらに働 くことのできない人は死ぬべきなのか。その人が自殺したら、やはりこの人は 感動するのだろうか。人が生き、存在するということは、その程度の意味しか ないのだろうか。そのようなわけで、私は非常に心が暗くなりました。

これまでのように今も

 私がなぜこんなことを冒頭で申し上げたかと言いますと、これが今日の聖書 箇所に関係があると思ったからであります。今日、お読みしました箇所はパウ ロという人が書いた手紙の一部でありますが、一見すると先ほどの首をくくっ た老婆の思想と似ているのです。もちろん、パウロは自殺などを考えているわ けではありません。しかし、23節では、「この世を去って、キリストと共に いたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と言っています。つまり、 死を望んでいるわけです。また、彼はこのように書いています。「だが他方で は、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」だからまだ生 きているのだ、と言わんばかりです。つまり「あなたがたのためにならないよ うだったら、いつ死んでも良いのです。働けなくなったら、いつでも喜んでこ の世を去りましょう」と言っているかのようです。パウロは、人の役に立たな くなった人は、世にいる必要はないのだ、と考えているのでしょうか。そのよ うなことを言っているのでしょうか。

 さて、先ほどわたしは「一見、似ている」と言いました。似て非なるものが あることは世の常です。パウロの言葉もまた同じです。私たちはこれを部分的 に取り出して読んではなりません。話の流れの中で読まなくてはならないので す。パウロはただ自分がだれかのためにどれだけ役に立つかどうか。生きてい る価値があるかどうか。そのようなレベルで人生を考えていたのではないので す。パウロの心からの願いは何だったのでしょうか。パウロは20節でこう言 っています。

 「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも 死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願 い、希望しています。(1・20)」

 初めに細かいことを申し上げますが、ここに言う「恥をかかず」という言葉 は、「人前で恥ずかしい思いをしない」ということではありません。パウロは そんなことを気にしているのではないのです。聖書において「恥をかかない」 という言葉は「希望が失望に終わらない」ということを意味するのです。つま り、ここでパウロが言っていることは、「願ってきたこと、希望してきたこと が失望に終わらない」ということなのです。どんなことにおいても願い、望ん できたことが失望に終わらないで、どのようになることをパウロは切に願って いるのでしょうか。それは「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わ たしの身によってキリストが公然とあがめられるように」ということなのであ ります。これこそが、パウロの切なる願いであり、彼の人生を方向付けていた のであります。

 そこで大切な言葉は「これまでのように今も」という言葉であります。パウ ロはこれまで、各地を駆けめぐって御言葉を宣べ伝えて来たのです。人々を救 いに導き、教会を建て上げ、牧会者を指導し、見える形において人々に仕えて きたのです。いわば、目に見える様々な働きによって人々の役に立ってきたの です。それがパウロの「これまで」でした。しかし、「今」は違うのです。パ ウロは捕らえられて牢獄にいるのです。今までにように各地を駆けめぐること はできないのです。もちろん、その獄中からこのような手紙を書くことは出来 るのですが、それとて、今までの働きに比べるならば、規模的には相当小さな ものになってしまったと言って良いでしょう。いや、それどころか、獄中にお けるパウロの必要を満たすために、様々な形で諸教会の兄弟姉妹が仕えていた のです。彼は物質的にも人々から支えていたのです。そのような「今」なので す。そして、彼は獄中にあって判決を待つ身でありました。もしかしたらその まま死ななくてはならないかも知れないのです。あと何かを成し遂げるかどう かなど、思いもよらないような「今」なのです。

 どうでしょうか。私たちはパウロとは生きている境遇はまったく違いますが、 それぞれにこのような「これまで」と「今」があるのではないでしょうか。激 しく動き、働くことの出来るときもあれば、何かに束縛されて動きようのない 時があります。明らかに人々の役に立っていて、人々から賞賛され、喜ばれて いる時もあれば、見える形では何も人々に貢献できないような時もあります。 人々の重荷を一心に担える時もあれば、人々の重荷になってしまう時さえあり ます。

 しかし、パウロはそのような「これまで」だけでなく、「今」も「わたしの 身によってキリストが公然とあがめられるように」と切に願っているのです。 生きることによってのみならず「死ぬにも、わたしの身によってキリストが公 然とあがめられるように」と願っているのです。

 ここで見過ごしてはならないもう一つの言葉は「わたしの身によって」とい う言葉です。「わたしの為すことによって」とは書いていないのです。「わた しの成し遂げたことによって」とは書いていないのです。私たちの働き、行い というのは「身」という言葉が現していることがらのごく一部でしかありませ ん。すべてではないのです。働きがすべてであると思っている人は気の毒です。 それこそ働けなくなったら首をくくるしかありません。パウロが問題にしてい るのは単に働きだけではありません。最後に意味を持つのは、その人の人格を 含めた存在そのものなのです。その存在そのものによってキリストがあがめら れる。「あがめられる」という言葉は直訳すると「大きくされる」という言葉 です。その人がそこに存在することによってキリストの愛と恵みが大きく大き く現される、その栄光が大きく大きく現される。それこそが、パウロの心から の願いだったのであります。

 私は、ここを読んでいまして、ひとりの人のことを思い出しました。私が神 学校に行く前に、数多くの教会の人たちが集まる大きな集会にしばしば私は参 加いたしましたが、その時、ときどき見かけた他教会の姉妹です。彼女は重度 の知的障害をを負っていました。二十歳近かったと思うのですが、知的には小 学生低学年以下だったかと思います。恐らく、彼女は奉仕らしい奉仕、働きら しい働きは出来なかったと思うのです。しかし、いつも見かける彼女は体中で 神様の愛を表現しているような人でした。キリストの愛を喜び、心からキリス トを愛し、つたない言葉ですが心の底から祈る姿、完全に音ははずれているの ですが心の底からキリストを賛美する歌声を私は忘れることが出来ません。彼 女の身を通して、キリストの恵みと栄光が大きく大きく現されていたのであり ます。

 人は働きによってキリストの栄光を現すことができます。しかし、また働く ことの出来ない病床においてキリストの栄光を現すことができます。健康な体 をもってキリストの栄光を現すことも出来れば、様々な障害の中でキリストの 栄光を現すことも出来ます。若さの中でキリストの栄光を現すことができると 同じように、老いの中でキリストの栄光を現すことが出来ます。死によってさ え、キリストの栄光を現すことができます。そうです、その死に際して、キリ ストの恵みを豊かに現し、キリストを人の心の中に刻みつけて世を去った人々 はたくさんいるのです。私たちもそのような者でありたいと思います。

キリストのものとして

 さて、このように、パウロの願いは「これまでのように今も、生きるにも死 ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」というこ とでした。もちろん、この願いはパウロの信仰から来ているものに違いありま せん。パウロにとって信仰生活とは単に自分の救いのためにキリストを得るこ とではありませんでした。そうではなくて、キリストによって所有されること に他ならなかったのです。パウロの主はキリストであり、パウロはキリストの ものなのです。パウロはつねにキリストと一つであるとの自覚をもっていたの でした。ガラテヤの信徒への手紙2章20節で彼はこう言っています。「生き ているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておら れるのです。」このような意識を持って生きることはどんなにか大切なことで しょうか。この意識を持たないならば、信仰者といえども結局キリストがその 身をもってあがめられることを求めるのではなくて、自分があがめられること を求めるようになってしまうのです。自分が大きくなることこそ、人生の意味 であると考えてしまうのです。ですから、人の心の中においても、自分の心の 中においても自分が大きくなり得ないとき、もはや生きていけなくなるのです。 単に自分が役に立つ人間かどうか、そのように見られているかどうかで人生を 計ってしまうのはそのためであります。そのような計りでは、働けなくなった ら生きてはいけないのです。

 パウロの計りは違いました。彼はこう言います。「わたしにとって、生きる とはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」私たちは何と言うでしょう か。生きるとは「わたくし」である。つまり、自分が主人となり、自分の人生 を握っているならば、「死ぬことは利益なのです」とは言えないでしょう。死 ぬことは損失でしかないはずです。自分が大きくなることを目的とした人生で あるならば、それは死によってすべてをはぎ取られてしまいます。すべてを失 うのです。そうしますならば、一生は失うことへの旅路でしかありません。人 は失いつつ生きるのです。しかし、キリストのものとして、キリストの栄光を 現すことを目指している一生であるならば、そのキリストとの関係は死によっ て奪われはしません。むしろ、永遠にキリストと共に生きるようになる。そう いう意味において、死は損失ではなくて利益なのです。もはや一生は損失へと 向かう歩みではないのです。

 「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」この言葉の前に 私たちもまたパウロのように「わたしにとって」と書き加えることが出来るよ うに私たちは救われました。キリストが十字架にかかられ、私たちの罪が赦さ れたのはそのためです。私たちがあがなわれたのは真にキリストのものとなり、 その身をもってキリストの栄光を現すために他ならないのであります。

 
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