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「道なるキリスト」

1997年8月31日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 日本基督教団茨木教会 高橋爾伝道師説教
聖書 ヨハネ14:1~14

 私達の集うこの教会には、主イエスから依託され た働きが幾つかありますが、その一つに、伝道とい うことがらがあります。伝道ーとは、読ん字のごと く、道を宣べ伝えることであります。では、どのよ うな道を伝えるのかと言いますと、それは、今朝読 まれましたところに一番良く書かれていますように、 イエス=キリストという道のことに他なりません。

   このことで、日本の教会という文脈で思い起こさ れることがあるのですがどのようなものかと申しま すと、熊野義孝という神学者の本の中に出てくる一 つの言葉であります。それは、「キリストを述べ伝 えるという働きは、伝道なのか宣教なのか」と言っ た質問を神学校の生徒から受けたときの話です。そ の時、この神学の先生は、次のように言ったそうで す。「キリストという道を伝えるのだから、やはり 伝道でなくちゃならない。」教会が伝えるのは、信 仰の事柄なのですから、ただ、教えを宣べれば良い というのでは無いということでありましょう。語り 放しで、後は相手の価値観にまかせるというのでは 不十分だということをこの先生は見ていたのかもし れません。教会がキリストのことを語るからには、 自分自身というものをかけて、それが唯一の真理で すとの確信を、伝える必要があるということなので あります。イエス=キリストという、この道筋が唯 一の正しい道ですと伝えることなのであります。で は私達、日本の教会が、それをどの様にして具体的 に行えるだろうかと言えば、それに対しては、何よ りも、自分が本当に心から喜んでいる道は、この一 本なのだということを初めから明確に示すことだと 言えるでありましょう。裏返して言うなら「伝道」 を、単なる人集めにしてしまわないようにする心構 えが必要でしょうということです。そのためには、 とりあえず教会に人を呼べば何とかなるだろうと言 わずに、まずもってキリストに救われたという「喜 び」を人に伝えることに専念することが肝心であり ます。無論、自分の心の内を人に伝えるというのは、 難しいことです。なんと無くぼんやりとしていてい るような限りでは、いざと言うときには説明の言葉 ばかり増えて、その癖、なかなか言いたいことを語 れないものであります。意識して、はっきりまとま った答を手にしていないとなかなかうまくいかない でのあります。ですから語り伝える側の教会として は、自分たちが何を信じているかということを、い つでもはっきりさせていなくてはなりません。これ に関して教会で上げられるのが信仰告白なのであり ます。「信仰告白」が、短くまとめられ、共通の告 白としてあるのはそのためなのだと言って良いでし ょう。あなた方の信じている事とは一体何なんです かー別の宗教の人や、信仰の無い人に、そう聞かれ た時にも、私達の教会の信じていることは、これこ れなんですということを、信仰告白を示すことによ って明らかにすることが出来るのです。

   では、その信仰告白が指さす、当の主イエスご自 身は、伝道に関してどうだったのでしょうか。主イ エスは、ご自分で道をお示しになるに際し、全く躊 躇ということをなさいませんでした。6節ではこの ように言っています。「わたしは道であり、真理で あり、命である。」この宣言は、全く妥協を知らぬ 言葉です。ズバリ一言で、私がそうだとおっしゃら れたのであります。普通、ギリシャ語では、特別な 場合を除いて、あまり「私は」と申しません。とい うのは、ギリシャ語の場合、主語を言わなくても、 動詞の変化形を聞いただけで、主語が誰であるかが すぐに解るようになっているからです。ところが、 そのギリシャ語で改まって「私は」と示される程、 主イエスは、ご自分こそ道であることを断言される のであります。それは「私だけが、唯一の道、唯一 の真理、唯一の命なのだ」ということに他ならなか ったからであります。ここでは自分が何者かについ て、「道、真理、命」と三つ出てきますけれども、 これは同じ事を言っているのだと考えて頂いて結構 かと思います。一つの根本的なことを、三つの角度 から言い表しているのです。道とは、我々が真理に よって生きる生き方であると言えるでしょう。又、 真理とは?と聞かれたならば、それは真に人を生き 生きと生かす命なのだ言えるのであります。さらに は、命とは何かと言えば、生きるべき道を得て、そ の道を真っ直ぐに歩むことなのだと言えるからです。

   しかし、そういうことなら、日本でも道というこ とは、大切にされてきたでは無いか、と思われるか もしれません。たしかに道と言えば、この国でも地 図に載っている道路のことばかりでなく、宗教的な 真理を言い表すものであることくらいは、だれにで も直ぐに解るとおりなのであります。究極のことを 知るならば、何もキリストの道で無くても良いでは ないか。間違いをおかさぬ立派な人間に成る道だっ たら、いろいろあるだろう─そう思われる場合もあ ろうかと思うのです。

   例えば、剣道、柔道、弓道といった具合に古くか らある武術の業や形を学ぶことを通して、生き方を 学んだりする事があるでしょうし、書道や華道、茶 道と言う具合に、日常生活の一部を修練することか らさえ生き方としての道を見いだそうとすることが あります。何か精神的な筋道を獲得する意味での「 道を極める」ことも、これだけあれば、イエス=キ リストにこだわらなくても良いのではないか。現に、 信徒でない人でも行いの立派な人はいるではないか。 どこがちがうのだろうか。そう首を傾げる場合だれ にでも少なからずあると思うのです。

   この日本という国には、儒教の伝統がかなり根強 く残っていますが、その儒教の祖と呼ばれた孔子と 言う人も、かつて「明日に道を聞かば、夕べに死す とも可成り」と言って道を求めました。朝に、真理 を聞いたならば、夕方死んでしまってもかまわない。 つまり、本当の生きる道筋を得ることは、命と引き 替えにするにも価すると思っていたわけです。のち に、そうやって捕らえられた事柄の集大成が儒教と なりました。その儒教が、朱子学になり、日本の武 士道を支えたことは、多くの方がご存じでしょう。 私達の先祖も、人生の道筋を得ることをそれほど大 事なこととして捕らえ、一心に探し求めたのであり ます。

   しかし落ちついて考えて見ますればそうやって何 々道というものが、なぜそれだけ数多く花開いたか ということから別の意見が生まれても来ます。かえ って裏腹なこととして見てきますのは、結局日本人 は最後まで納得のいく道を見つけることが出来なか ったのではなかろうかということなのであります。 これぞ道、ということを唱えた人はたくさんおりま した。こんな方法もあるぞ、そういう風にしていろ いろな道が紹介されました。しかし、それらが、こ れぞ「答」という時に、同じところにたどりついた のかどうかに関しては一様でないのであります。だ から、いろいろな道が生まれたのです。仮に、もし 日本に初めから、時代の流れや思想の変化に惑わさ れないような、どんなに世界が変わっても通用する ような全ての人に当てはまる一つの究極の道があっ たならどうなっていたでしょうか。もうそれ以上、 何々道というような道筋を極めようとする想いはい らなかったであろうと言えるのであります。

   問題の要は、それらの道が、どこへ続く道なのか ということなのです。何が、救いとして、道の終着 点になるのか。その終着点は本当に救いであるのか。 行き先が変わってしまうことが解った時にまで、ど れでも同じ道だと言い続ける人はいないでしょう。 この点で、キリストという道と、他の道は異なって くるのであります。現に主は、6節でご自分が道だ と言った後で、こう付け足しています。「私を通ら なければ、誰も父のもとに行くことは出来ない。」 自分のことを道であるといった主イエスは、道であ ることの理由が、ご自分を通じて私達罪人が父なる 神の所へいけるからなのだと言っているのです。父 の元へ行く。ここでは、それが救いの出来事なので あります。この世界の創造者である、父なる神との 「交わり」の回復こそが、救いの有り様なのであり ます。その「父のもとへ行く」ということに関して、 今朝の箇所は、1節からして、既に筋道が示されて います。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そし て、わたしをも信じなさい。」まず最初に言うのは、 私達が、この不安定な地上の生活の、不明確な旅路 を、安心して進むことが出来るとすれば、それは神 を信じることだというのです。そして、神様を信じ るとは一体どう言うことかと言えば、初めからして、 それは主イエスご自身を信じることだと言われてい るのです。「神を信じなさい。そして、私をも信じ なさい。」この二つが並列で並んでいるのは、それ はイコールの関係で示される同じ事だからでありま す。信じるということは、信頼するということであ ります。もっと、砕いて言えば、寄り掛かってしま うことなのであります。べったりともう主イエスに 全てまかせてしまうことなのです。

   今朝表されてくる聖書の言葉から、読み返すとき、 この主イエスへの信頼と言うことに関しては、二つ のことが表されてくるのであります。一つは2節以 降に書かれていることであります。「わたしの父の 家には住むところがたくさんある。もしなければ、 あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったで あろうか。行ってあなたがたのために場所を用意し たら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎 える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたも いることになる。」ここで言われているのは、自分 が何者かということです。つまり、自分がどの様な 働きをなされる方であるかと言うことであります。 主イエスはこう言われます。私の父の家には、人の 入る余地はいっぱいあると。この余地は、地上で言 うところの余地とは違います。地上の世界の余地で は、どんなに広い余地であるとしても限界というも のを持っているからです。しかし、主が余地がある といわれる、神の国の余地とは神の意志によって無 限に広がる余地であります。主が必要とされる分だ け広がり続ける余地なのであります。

   そして、これから自分はその余地の使い道を定め に、一旦父の所へ戻るそう言っています。その天国 へ返るのは、父の家に私達の為の場所を用意する仕 事なのだと。つまり、その余地が、私達の指定席に なるようにリザーブしてくることこそ、ご自分のお 仕事なのだと言われるのです。それは、端的に言え ば、救い主としての働きであります。主イエスは、 まず自分がそういう救い主であることを信じなさい と言われるのであります。しかも、それは、私達の ためにです。「行ってあなた方のために・・・・」 そしてその用意が調ったなら、迎えに再びやってく ると言われるのです。

   このことが何を意味しているかに関しては、これ から、お受けになろうとしている十字架の苦難と復 活の奇跡であるということは、言うまでもないでし ょう。十字架が、かつて私達自身が壊してしまった 神様との関係をとりなして下さるのであります。そ して、復活が、私達の黄泉へのチケットを、神の国 へのチケットへと変えて下さったからです。最後に 聖霊を通して再び私達の所へ「戻ってきて」下さる 時には、もはやその席は整っており、いつでも、も う今直ぐに出も、私達が座れるようになっていると いうわけです。

   ところで、そう語る内容を信じるには、当然なが らもう一つの信頼が必要となると言えるでしょう。 もう一つの信頼とは、その言葉を語る人物自身の信 憑性、その人物がうそつきでないという信頼です。 その語る内容を信じる前に、語る人自身が信頼され る人であるかどうかと言う問題なのであります。そ こで、今度は、フィリポの言葉の後に主が宣言され たご自身に関する証がでてくることになります。1 0節からのところです。「わたしが父の内におり、 父がわたしの内にいることを、信じないのか。わた しがあなた方に言う言葉は、自分から話しているの ではない。わたしの内におられる父が、その業をお こなっておられるのである。」ここでおっしゃられ るのは、ご自分と父なる神の関係であります。主イ エスはご自分の信憑性、すなわち信頼に価するかい なかとと言うことが、どれほどのものかと語るに際 して、その重さは天上の父なる神の信頼に価する重 さと全く等しいということを言われるのであります。 この世界の創造主がもっている信憑性と同じだと語 られるのであります。それが、どういうことかと言 えば、自分の言葉は、創造主が言葉で造られたこの 世界が、現にここにあるというのと同じくらい信憑 性があるのだということです。主イエスは、その理 由は、自分の心を支配しているのが、後にも先にも、 父なる神の御心だけだからだと言っています。つま り、神の願いが、自分の願いになるということです。 その確信の程は、信じられないんならば、今まで為 されてきた業を見るがよい、あるいは、これから起 こる十字架と復活の業を見届けるが良いと言い切ら れる程まででした。それほど、ご自分を父の意志が すっかり支配されておられることを、満々と感じて いたのであります。だからこそ、一切の不安なく、 業を見よ、さらば業に神の意志が見えると言い切る ことがお出来になったのであります。

   この二つは、いわばご自分こそが、ご自分こそが 唯一の神からの啓示であり、また、人間がすがれる 唯一の救いであるという事に他なりません。神が上 から私達のために救いの手をさしのべてくださった 道筋とは、当に神さまご自身が人間にまでなられた というキリストを通してだけだったのであります。 それは、裏腹に見るなら、私達の方からして、神様 のご意志を知ることの出来る道筋もまた、人間であ るイエスが、同時に真の神であられるという一本道 を通してだけだったのであります。

   それはこの父なる神との交わりが只、全くキリス トからの恵み、キリストの恩寵によるという形にお いてでしか起こらないということであります。です から父なる神との交わりを回復するということは、 その父の送った独り子キリストに信頼するというこ となのです。例えば、それは自己修練によって、何 か優れた生き様を獲得するというのとは大違いです。 何か、これぞ生き方の方法論というものを拾得して、 そのマニュアルどうりに過ごしていれば、もう悩み も苦しみも無く楽して一生暮らせるというのとも違 います。ただ、キリストに出会い、彼に依り頼むこ とだけなのです。同じ、道ということでも、確かに 他の道ではここへはたどり尽きません。神ご自身が、 赦されるという道なのですから、神の独り子である 方以外では、神ご自身が示すようには出来ないから であります。

   それゆえ前の7節では、反対に、こう言われるの です。「あなたがたがわたしを知っているなら、わ たしの父をも知ることになる。今から、あなたがた は父を見る。いや、既に見ている。」この道筋がわ かった時には、もうあなた方には、あなた方を救お うとして待っておられる父のご意志が解るだろう。 いや、待っておられるという確信を通じて、振り返 るなら、今すでに、救いの計画に捕らえられている ということや、過去において神がどの様に私達を救 われる意志を主位置になってきたかがさえ、全て見 えてくるとおっしゃられるのであります。だからこ そ、その終着点へとたどり着くのは、ご自分以外を おいて他に無いと言うのであります。

   ところが、この時の弟子たちは、と申しますと、 それが解らなかったのでありました。トマスはこう 聞き返すのです。「どうしてその道を知ることが出 来るのでしょうか。」又、フィリポはこうつぶやく のです。「主よ、私に御父をお示し下さい。そうす れば満足できます。」目の前に、道そのものがある、 というよりはおられるにも関わらず、弟子たちは、 まだ何か、先の武士道や、茶道、にも似た「キリス ト道」を別の所に一生懸命さがしているのでありま す。既にずっと一緒に過ごして来られたお方、その お方の示されてきた業、そのお方の語られてきた内 容、それで神のご意志の全てが示されてきたにもか かわらず、このイエスという方そのものが、神のご 意志の直接の現れであるにも関わらず、弟子たちは、 まだ、それ以外の道がある、その先により真理に近 いことがらがあるとの想いから離れられないでいた のであります。

   今日でも、似たものを見ることは出来ます。礼拝 以外に何か道があると思ってしまう場合や、礼拝に こそ救いの道があると思っていながら、実際には、 礼拝そのものに目が向けられて居ない場合などです。 例えば、礼拝を通して、自分がもっと自然に人と交 わることが出来るようになれたなら、素直になれた ならと願っているような場合です。臆病な自分がそ うでなくなったなら。もっと暖かみのある、人間同 士がいつも笑顔でいれるような交わりをもてるよう になったなら。自分に不都合な、この一部分が変わ ったなら。そういう目安で、それを叶えてくれる方 法として礼拝を見てしまうような場合です。人間関 係の成果が生まれて、初めてそれが良い交わりにな ると想ってしまっているような場合です。いつのま にか、礼拝を見すかして、その先にそういう交わり を求めてしまって居ることは、決して少なくありま せん。─確かに、一人一人に応じて、救いの結果と して与えられることがあるかも知れませんし、それ がかなったならそれはとっても喜ばしいことである と言えるでしょう。13節では、「わたしの名によ って願うことは、何でも叶えてあげよう」とありま すから、それを求めることも決して御心から外れる ことでは無いでしょう。しかし、それでは、仮に、 そういう良い人と呼ばれるような性格になれなかっ たなら、救われていないことになるのでしょうか。

   主が「わたしが道だ」と言うときには、それらが 救いの条件ではないことをはっきりしめされている のであります。キリストが再三言ってきたことは、 ご自分の十字架と復活の業によって自分が購われた ということを信じる者は、全く人徳とは関係無しに、 無条件に救われるのだということでありました。例 えば素直な自分になることや、臆病さから抜け出す ことや、暖かみのある人間同士の交わりができるよ うになることが、出来なかったとしても、それでも、 キリストに頼っているなら、既に救われているとい うことなのです。キリストが、ご自分こそ「道であ り、真理であり、命である」と言われたのには、そ ういう意味があります。一切の、救いに対する自己 修練の道筋を退けられたということだったのであり ます。「信じる者は救われる。」近頃、この言葉は、 皮肉を込めて使われることが少なくありません。し かし、この余りにも単純で、うまく出来すぎた都合 良いものであるために私達が容易に信じがたいとこ ろにこそ、キリストの道があるのだということを、 お示しになるのであります。

   実は、その一番の証は、この信仰薄い弟子たちの、 その後の姿なのであります。今の場面では、まだ目 の前の主イエスが、唯一の道であることに気づけぬ ようなものが、後には180度の転換を遂げて、そ の主イエスこそ唯一の救い主であると言って伝道へ 押し出されて行くのであります。キリストの名によ って願った結果、まさしく彼らがとんちんかんに願 った願いさえ、後には内実をもって叶えられたので ありました。この目の前にある神秘に気づけぬ弟子 たちにも、救いは差し伸べられたのであります。教 会に集まる一人一人も、またそうやって加えられて きたものでありますから、この道に従うべきであり ましょう。

   「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わ たしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行う ようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあ げよう。こうして、父は子によって栄光をお受けに なる。わたしの名によって何かを願うならば、わた しがかなえてあげよう。(ヨハネ14:12‐14) 」このキリストの後ろ盾を信じて、一週間を共に歩 んで参りたいと思います。

  (1997年8月31日 大阪のぞみ教会にて)

 
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