説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「復活の主に遣わされて」

1997年9月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒22・17‐23・11

 エルサレムにおける騒動の中でなされた、パウロの弁明の言葉が続きます。今 日は17節以下をお読みしました。ここにはキリストがパウロを異邦人のために 遣わしたという証言が記されております。なぜパウロは自らの回心の証しに引き 続きその話をしたのでしょうか。ここに書かれている言葉の真意を十分に理解す るために、まずこれが誰に対して語りかけられた言葉であるのかを振り返ってお きましょう。

すべては神から

 そもそもこの騒動が何によって起こったか。それは一つの誤解からであったこ とを私たちは既に読みました。使徒言行録21章29節にこう書かれています。 「彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけ たので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。」しかし、私 たちも経験しますように、誤解が生じるところには往々にしてその背景があるも のです。つまり、ユダヤ人たちはパウロをかねてから批判的に見ていたというこ とです。それは、簡単に言えば、パウロが異邦人とユダヤ人とを区別しないとい う非難でありました。

 この騒動において群衆を扇動したのは「アジア州から来たユダヤ人たち」であ ったと書かれています。恐らく州都であるエフェソから来た人々でしょう。エフ ェソはパウロが足かけ三年の長きに渡って滞在したところです。そこで多くの異 邦人たちがキリスト者となった様子が19章に記されておりました。パウロが異 邦人に対して「あなたたちも割礼を受け、改宗者となり、ユダヤ人として律法を 遵守するならば救われる」と語ったならば、誰も文句を言わなかっただろうと思 います。しかし、パウロはそうではなかった。ユダヤ人も異邦人も、律法の行い によるのではなく、キリストの贖いによって、ただ神の恵みによって救われると 語ったのです。それはすなわち異邦人もユダヤ人もただ信仰によって神の民とせ られることを意味しました。それは自らを選民と見なし、律法を守って生きてき たユダヤ人たちにとっては許し難いことだったのです。パウロは「民と律法とこ の場所(神殿)を無視することを、至るところでだれにでも教えている(21・ 28)」としか思えなかったのであります。

 パウロが語りかけているのは、そのような人々なのです。そのことを踏まえた 上でこの箇所を読みます時に、なぜ彼がここで第一回目のエルサレム訪問におけ る出来事を語っているのかが明らかになってまいります。それでは17節以下を 御覧ください。

 彼は再び一人のユダヤ人として聴衆と同じ位置に身を起きます。彼は神殿を無 視したりしていません。パウロは神殿で祈っていたと言うのです。するとそこで 忘我状態になり、彼は再び復活のキリストの語りかけを聞きます。「急げ。すぐ エルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け 入れないからである。」しかし、ここでパウロは主に答えます。「主よ、わたし が会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいた りしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの 血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着 の番もしたのです。(22・19‐20)」要するに、かつての同胞から見れば、 パウロの変化は明らかであるということです。であるならば、そこに必ず理由が あるはずだということを、人々は理解してくれるに違いない。そうパウロは考え たわけです。そしてまた、その理由をパウロはどうしても語らなくてはなりませ んでした。キリストの福音をなんとしてでもユダヤ人たちに伝えねばならないと 思ったのです。なぜなら、キリストを退けている彼らの姿は決して他人事ではな いからです。そのパウロの願いは彼の三回の伝道旅行においてもよく現れており ました。彼はどこに行ってもまずユダヤ人の会堂を訪れるのです。安息日の礼拝 が彼にとって第一の宣教の場であったのです。ですから、ここでまず第一に明ら かにされているのは、異邦人伝道そのものは彼自身の願いから出たものではなか ったということです。では誰の意志から出たことであるかというと、それは主の 意志である。それがパウロの言わんとしていることでありました。主の願いから 出た、と言っても良いかも知れません。主ご自身が異邦人の救いを願われた。そ の御意志によってパウロは遣わされたと言うのです。「行け。わたしがあなたを 遠く異邦人のために遣わすのだ。(21節)」

 このことは私たちにとっても非常に重要な意味を持っております。というのも、 私たち自身、往々にして、伝道することも、人が救われることも、それは人間の 求めや願いに基づいていると考えているからであります。「この人には信仰が必 要だから」という理由に基づいて伝道をする。「私には救いが必要だから」とい う理由において求道をする。あるいは「私にはキリスト教が必要だから洗礼を受 けてクリスチャンになる」という考え方をしているわけです。そうしますと、 「あの人には信仰が必要ない」と思えば伝道はしないことになります。神が必要 ないと思えば求道することもなくなるでしょう。いや、私たちだけでなく、当時 のユダヤ人たちも結局同じだったのです。律法を守っていた時に、その内にあっ た思いは何だったのでしょう。それは結局、「私には神の裁きを免れて救われる ことが必要だから忠実に律法を守りましょう」ということに他ならなかったので す。そうしますと、どの程度守ればよいのかが問題となってくる。その諸々の細 則についての議論に関わっていたのがもともとパウロが属していたファリサイ派 の人々でありました。

 このような考えに対して、パウロがここで明らかにしているのは、まったく逆 のことなのです。人にとって神が必要だから、救いが必要だから、ということが まず第一にあるのではないのです。神が人を求められた。神が人を愛された。そ もそも神がキリストを世に送られたというのはそういうことであります。だから 神の派遣によって伝道がなされ、人が救われるのです。であるならば、信仰とは、 私たちが神を求めて神を得ることではありません。私たちを求め給う神の御手に 私たち自身をゆだねることに他ならないのです。すべては神から出たことであっ た。それこそがパウロのすべての働きを貫いていた確信でありました。それは第 三回伝道旅行の途上において書かれたコリントの信徒へ宛てた手紙などにもよく 現れております。パウロは次のように書き記しております。「これらはすべて神 から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、 また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、 神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、 和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通 して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。 キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のか かわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはそ の方によって神の義を得ることができたのです。(2コリント5・18‐21) 」このパウロの言葉を、今日の箇所とあわせて、よく考えてみる必要があるでし ょう。

勇気を出しなさい

 さて、物語に戻りましょう。パウロの言葉は人々の怒りをさらに煽る結果とな りました。千人隊長はパウロの語っていたヘブライ語(アラム語)が理解できな かったでしょうから、なぜ人々が大騒ぎになったのかも分からなかったことでし ょう。そこで兵営に連れて行かれたパウロは鞭打ちを伴った取り調べを受けるこ とになりました。ここで言われている「鞭」は、古代ローマを舞台にした映画な どに出てくるような、革ひもの先に金属や骨の破片がくくりつけられているもの です。柱に縛り付けられた人がこれで打たれるならば、しばしば死に至ることも あったと言われます。ですから、これは「取り調べ」というよりは、むしろ拷問 による尋問と言った方がよいかも知れません。

 パウロは鞭打ちのために縛られている時、そばにいた百人隊長に言いました。 「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。 」パウロのローマ市民権については既に16章に出てきました。パウロは「生ま れながらローマの市民である」と言うのですから、恐らく彼の祖先の誰かが何ら かの功労によって市民権を得たのでしょう。そして、パウロが主張する如く、ロ ーマの市民をむち打ったり拷問にかけたりすることを禁ずるローマ法が確かに存 在したのです。千人隊長がしようとしていたことは明らかに違法でありました。 結局、皆が恐れて手を引いたので、パウロは鞭で打たれることを免れたのであり ます。

 翌日、千人隊長は祭司長たちと最高法院を召集させ、パウロを連れ出して彼ら の前に立たせました。パウロに再び語る機会が与えられます。今回は理性を失っ た群衆に対してではなく、かつてのパウロも関わっていた民の指導者たちに対し て弁明する機会が与えられたのであります。

 そこで彼は、「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って 神の前で生きてきました」と語り始めました。つまり、パウロがキリスト者であ るということは、決して神に対しての背信でもなければ変節でもないのだ、とい うことを主張しているのです。しかし、パウロの言葉はすぐさま大祭司アナニア によって遮られます。アナニアは近くの者に、パウロの口を打つようにと命じま した。パウロは毅然として大祭司に向かって語ります。「白く塗った壁よ、神が あなたをお打ちにになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座 っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」

 このやり取りの中において、最高法院が真理を明らかにするために集められて いるのではないことが明らかにされます。彼らはパウロを断罪するために集まっ ているのです。パウロもそのことは十分に承知でした。しかし、最高法院全体の 結論として、パウロの告げ知らせている福音がイスラエルの伝統や希望とに真っ 向から対立するものであると見なされることは避けなくてはなりません。事実そ うではないからです。教会はユダヤ人共同体にとって敵ではないはずなのです。 同じ希望を共有しているのです。パウロは議員の一部がサドカイ派であり、一部 がファリサイ派であることを知っておりました。サドカイ派は復活も天使も霊も 認めません。ファリサイ派は認めています。パウロがここで復活の希望について 語り始めるならば、サドカイ派の手前、ファリサイ派の人々はその点については パウロを断罪することは出来ないはずでした。むしろ理解者を得ることができる かも知れません。そこでパウロはおもむろに語り始めます。「兄弟たち、わたし は生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いているこ とで、わたしは裁判にかけられているのです。」

 二派の間に論争が生じました。確かにファリサイ派の人々の中から味方となる 者たちが現れてきました。「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使が 彼に話しかけたのだろうか」と彼らは言い始めます。しかし、論争はあまりにも 激しくなり、パウロの身に危険が及ぶほどになりました。もはやパウロがそこに 留まることは出来ません。弁明の機会は失われました。パウロは再び兵士たちに よって兵営に連れていかれたのであります。

 主がパウロに再度現れ語りかけられたのはその夜のことでした。パウロの傍ら に立ち給うた主は彼にこう言われたのです。「勇気を出せ。エルサレムでわたし のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(13 節)」この「勇気を出せ」という言葉は、「安心しなさい」などとも訳され得る 言葉です。マタイ福音書14章に、ガリラヤ湖の上で逆風のために一晩中漕ぎ悩 んでいた弟子たちの話が出てきますが、湖の上を歩いて彼らのもとに来られたキ リストが言われのが同じ言葉です。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはな い。」

 主がパウロにこの言葉をかけられたということは、パウロにとってこの言葉が 必要であったということを意味します。彼は弱っていたのです。不安であり、恐 れに捕らわれていたに違いない。無理もありません。彼がエルサレムに来てから というもの、何一つ良い実りがないのです。パウロ自ら譲歩してエルサレム教会 の提案に従ったために、彼は暴動に巻き込まれました。半殺しにされ、それこそ 息も絶え絶えであったろうに、彼は渾身の力を振り絞って民衆に語りかけたので す。彼自身の証しを心からの愛と真実をもって語ったのです。しかし、その結果 は彼らの怒りをさらに煽るだけでした。さらに次に与えられた弁明の場において も、パウロの言葉はただ分裂と混乱を生じさせるだけであったのです。いったい 彼がエルサレムに来たことは正しかったのでしょうか。むしろ人々の忠告どおり、 エルサレムに上ることは避けた方が良かったのではないでしょうか。パウロも人 の子です。これら一連のことを考えますならば、疲れもするでしょうし、不安に もなるでしょう。しかし、そんなパウロの傍らに主が立たれたのです。そして言 われたのです。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたよう に、ローマでも証しをしなければならない。」徒労にしか見えない日々を振り返 って主は、「あなたはエルサレムでわたしのことを力強く証ししたのだ」と言わ れるのです。パウロのしてきたことを良しとされるのです。そして、エルサレム で終わりではないことを告げられる。主はパウロにローマでの働きを備えられる のであります。

 「正しい選択をするならば結果は良いはずである。」「結果が悪いのは正しい 選択をしなかったからである。」そのような近視眼的な見解が、ともすると私た ちの信仰生活をも支配いたします。パウロを見るかぎりそれは真理ではありませ ん。目の前の状況で判断してはならないのです。人間の救いに関わるすべてのこ とが、人間の求めや願いに基づくのではなく、ただ主の願いと意志に基づくので あるならば、私たちは少しも恐れる必要はありません。私たちの傍らに立ち給う て「勇気を出せ」と主は言われるのです。そして、私たちが主と共にあるかぎり、 エルサレムで見ることがすべてではありません。その先に必ずローマがあるので す。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡