「生きて働き給う主」
1997年9月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒23・12‐35
今日の礼拝において与えられておりますのは、使徒言行録の結論部へと向かう 大事な方向付けがなされている箇所であります。ここでパウロはローマに向けて 一歩を踏み出すことになるのです。しかし、それは通常人が計画し実行するよう な仕方によってではありませんでした。ユダヤ人の陰謀によって命を狙われた一 囚人として、パウロはローマ人に護衛されながら、まずカイザリアへと送られる のであります。さて、ここに書かれております一連の出来事はいったい何を意味 するのでしょうか。そのことを考えながら、今日の聖書箇所をご一緒にお読みし たいと思います。
人の熱心と命がけの計画
12節から15節までをご覧ください。「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀 をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたく らみに加わった者は、四十人以上もいた。彼らは、祭司長たちや長老たちのとこ ろへ行って、こう言った。「わたしたちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、 固く誓いました。ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を 設けて、彼をあなたがたのところへ連れて来るように、最高法院と組んで千人隊 長に願い出てください。わたしたちは、彼がここへ来る前に殺してしまう手はず を整えています。(23・12‐15)」
パウロを亡き者としようとする陰謀について語られるのは、ここが初めてでは ありません。既に第三回伝道旅行の終盤にかけてパウロがギリシャからシリアへ と船出しようとしていた時に「彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケド ニア州を通って帰ることにした(20・3)」と書かれていました。しかし、今 日の箇所で見られる新しい要素は、彼らが命がけとなった、ということです。彼 らはパウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てました。そして、これ に40人以上ものユダヤ人たちが加わったのです。それはただ単に飲み食いを断 つということだけでなく、計画そのものが命がけであったことを、その後の言葉 から知らされます。彼らが計画していたのは、兵営に監禁されているパウロを最 高法院に呼び出し、その移動の途上において彼を殺してしまおうということであ りました。まさか、パウロが一人で歩いて来るわけはありません。当然の事なが らローマ兵によって護衛されることになるでしょう。そのことを十分承知の上で パウロを襲おうとしたのです。その結果はパウロだけではなく自らの仲間も命を 落とすことになる惨事となることは明らかでありました。彼らはそのような計画 を断行しようとしていたのです。
ここに宗教的熱狂の一つの形を私たちは見ることになります。しかし、あくま でも「熱狂」いう表現は使徒言行録の読者の立場からの言葉です。彼ら自身はそ うは思っていないのです。彼らにとっては神への熱心さであり、正義に対する真 実さであり、自らの属する共同体への命がけの忠誠に他なりませんでした。ここ でいう「ユダヤ人たち」と書かれているのが、既にある程度組織された熱狂的集 団であったのかは分かりません。もしかしたら、そのようなものではなかったか も知れません。しかし、いずれにせよ、このような命がけの盟約というものは、 異口同音に同時に人々の口から出るものではありません。たいていは一人から始 まるものであります。「わたしは命をかける」と宣言する者がいるのです。それ に「私も」と言う者が加わる。たいていはそのような形を取ります。
そして、それに権力機構まで加わります。祭司長たちや長老たちに協力が求め られました。その要請は完全に受け入れられたということが、後に書かれている ことから分かります。20節で「ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳しく 調べるという口実で、明日パウロを最高法院に連れて来るようにと、あなたに願 い出ることに決めています」と書かれております。ユダヤの最高決議機関が既に 決断を下し、動き始めているのです。それはパウロを憎んでいるという点で一致 したから、と簡単に考えてはなりません。大変な流血の惨事になるかも知れない し、刺客たちと最高法院との陰謀における関係が発覚したならば、ローマ帝国と ユダヤ人共同体の関係にも影響を及ぼすかも知れないのです。しかし、彼らは加 わった。それがここに書かれていることなのです。
往々にして人は、その人がどれだけ一生懸命であるか、どれだけ真剣であるか、 どれだけ「命がけ」であるかによって真理性を計ってしまうものです。しかし、 熱心さはそこに真理があるかないかに関わらずある程度人を動かすものなのです。 私たちもしばしばそのような判断によって動いている。いや、かえって案外キリ スト者が、そのような判断で動きやすいものです。一見良いことのように見え、 かつ熱心に行われていると、それだけで賛同してしまうことがあるものです。人 の命がけの熱心が人を動かし、そしてそこにこの世的に力ある者が加わってくる。 権力のバックアップが与えられる。そのことによって、この世の現実は動いてい く。大きく言うならば、そうやって世界は動いていく。誰でもある程度そのよう に考えているものでしょう。しかし、本当にそうであるのか。ルカはその点に関 して、物語の展開を通して何を語っているのでしょう。
過去と現在と未来を握っておられるお方
そのように大きく動いているユダヤ人の権力機構に対し、もう一方でまったく 無力であり、自分自身を守るために、またローマへと向かうために、もはや何も 為し得なくなっているパウロがそこにおります。人の考え得る最も近い助けすら 彼のもとに来ないのです。すなわち、エルサレムの教会は彼のために全く動いて いるようには見えないのです。彼に残されているのは、ただ主が囚人パウロに与 えた言葉―「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、 ローマでも証しをしなければならない(23・11)」という言葉―のみでした。
そこで、事はどのように進んだのでしょうか。16節以下をご覧ください。 「しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パ ウロに知らせた。それで、パウロは百人隊長の一人を呼んで言った。『この若者 を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです。 』そこで百人隊長は、若者を千人隊長のもとに連れて行き、こう言った。『囚人 パウロがわたしを呼んで、この若者をこちらに連れて来るようにと頼みました。 何か話したいことがあるそうです。』千人隊長は、若者の手を取って人のいない 所へ行き、『知らせたいこととは何か』と尋ねた。若者は言った。『ユダヤ人た ちは、パウロのことをもっと詳しく調べるという口実で、明日パウロを最高法院 に連れて来るようにと、あなたに願い出ることに決めています。どうか、彼らの 言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは 飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。そして、今その手はずを 整えて、御承諾を待っているのです。』そこで千人隊長は、『このことをわたし に知らせたとは、だれにも言うな』と命じて、若者を帰した。(16‐22節)」
私たちはパウロの家族についてほとんど何も知りません。ここで彼の甥が登場 いたします。そして、彼がユダヤ人たちの計画を聞き込んだと言うのです。しか し、これは陰謀の噂が彼の耳に入ってきたということではなさそうです。なぜな ら、彼は計画の詳細まで知っているからです。ユダヤ人たちにとって命がけの最 終決戦とも言うべきこの計画の詳細が簡単に外部に漏れるとは思えません。そう しますと、むしろこの甥はユダヤ人たちの計画の外部の人間と言うよりは、内部 の人間ではないかということが考えられるわけです。事実、16節のこの部分は、 「そこに居て聞いていた」と訳すことが可能なのです。また、パウロがもともと 厳格なユダヤ教徒の家庭で育ったことを考えるならば、彼の親族である甥がやは り熱心なユダヤ教徒であることは十分に考えられることでしょう。少なくとも初 めからパウロの理解者であったことは考えられませんし、この時点でも彼は公の キリスト者ではなかったと思われます。
甥がパウロを助けた。私たちにとっては自然に見える関係ですが、これは本来、 当たり前のこととして読んではならないのです。ユダヤ人がキリスト者となった 時、その最も恐るべき敵はしばしばその親族だったからです。しかし、その親族 によってパウロは助けられたのであります。彼の助けを主は教会の外に既に備え ておられたのであります。ある意味で敵のただ中に味方を備えておられたのです。 「勇気を出せ」と言われた復活のキリストは、捕らわれているパウロを取り囲む 壁の外において現実に働いておられたのでした。自分の身を守るために自ら何も 為しえないという状況にある時、主の御業は、彼が考え得る諸々の可能性の外で 既に始まっていたのです。
そして、この甥だけではありません。パウロが守られるために用いられたのは、 更に外の人々、異邦人であるローマ兵たちでありました。それがここでルカの強 調している点であります。
23節以下をご覧ください。「千人隊長は百人隊長二人を呼び、『今夜九時カ イサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せ よ』と言った。また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無 事に護送するように命じ、次のような内容の手紙を書いた。(23‐25節)」
パウロ一人の護送になんと大袈裟なことと思われるかも知れません。しかし、 これは当然の措置だったのです。というのも、ユダヤ教的熱狂主義というのは古 くから存在しておりまして、そのような命を捨てる覚悟で剣を取る者たちに対処 することがいかに大変なことであるかを、ローマ兵たちは知っているからであり ます。しかし、それにしても、なぜ千人隊長が即日パウロをカイザリアに護送す ることを決断したのでしょうか。本来ならば、最高法院にパウロを連れてきてほ しいというユダヤ人たちの要求に応えなければよいだけの話なのです。
この千人隊長の行動については推測するしかないのですが、その理由の一端を 彼の手紙から伺い知ることができます。26節以下をご覧ください。手紙の最初 の部分は事実と異なることに気付かれましたでしょうか。27節は嘘です。パウ ロがローマ帝国の市民であることは、彼がパウロを拷問にかけようとして初めて 分かったわけで、パウロが市民権を持つから助け出したのではありません。要す るに、彼にとって大事なことはローマ市民権を持つ者を保護しているという事実 だけなのです。そのことから分かりますように、パウロの身に何かがあると、こ の千人隊長自身が困るのです。いや、困るどころではありません。もしローマ守 備隊の保護下にあるパウロの命が簡単にユダヤ人たちに奪われるようなことが起 こったら、この千人隊長がユダヤ人たちから賄賂を受け取ったのではないかとい う疑いを持たれることになります。彼自身の立場と将来が危機に晒されることに なるのです。そして、もう一つの理由は29節と関係します。パウロを取り巻く 問題は、ローマ法に関することではないということです。ユダヤ人の律法に関す る問題であることを千人隊長は理解しました。しかし、この律法の問題はローマ 人にとっては一番やっかいな、関わりたくない問題なのです。そこで結局は総督 に下駄を預けてしまいたかった。それが本音であったろうと思うのであります。
要するに、彼は微塵もパウロのことを理解していなかったし、パウロに同情し たわけでもないのです。パウロの語っていることの正当性を考えてこのような決 断を下したわけではありません。ここに見られるのは、まったく福音とは無関係 な、一人の異邦人の自己保身的な政治的判断なのです。しかし、そのようなロー マ人の決断さえ、主は御自身の計画を進めるために用いられた。その出来事を通 して主はパウロの未来を開かれるのです。神が神として崇められていない、キリ ストが救い主として受け入れられてはいないこの世界のただ中において、復活の 主は既に働いておられる。そのことをルカは書き記しているのであります。
さらに言うならば、これまでに記されていたパウロの身に起こった悲惨な出来 事の一つ一つさえ、今日お読みした出来事と無関係ではありません。すなわち、 それらもまた、パウロがローマへ向かうための道備えであったと見ることができ るでしょう。リシアの手紙にもありましたように、彼にとって重大事は、パウロ がローマの市民であるということです。パウロがローマの守備隊の保護下に入り、 彼の市民権が千人隊長に知れるに至ったのは、結局のところパウロが扇動された 群衆に襲われたからでありました。群衆に襲われたのは、パウロがエルサレム教 会の申し出に従って清めの期間をエルサレムで過ごしたからです。私たちがこれ までに読んできましたのは、パウロにとってすべて裏目に出たようなエルサレム の日々でありました。しかし、今、それらが主の御手の外にあったのではないこ とを知らされるのであります。復活の主はパウロの悲惨な現実の中にも働いてお られたのです。それゆえ、パウロのなすべきことは、何よりもまず「勇気を出せ 」と言い、彼の未来をその手に握り給う復活の主に信頼することだったのであり ます。
主は生きておられます。間違ってはなりません。人間の熱心や権力がこの世界 の方向を決するのではありません。キリストとはまったく無関係に動いているよ うに見えるこの世界の中に、復活の主は生きて働いておられるのです。そして、 決して私たちの思い通りには進まない私たちの人生の中に、主は生きておられる のです。ほかの誰でもない復活の主が、私たちの未来をも握っておられる。だか ら、私たちはどんな場面においても、この方を主として崇め礼拝し、この方に信 頼して生きるべきなのであります。