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「復活の希望」

1997年9月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒24・1‐27

 今日は24章全体をお読みしました。長い箇所ですが、文章そのものの構造は 至って単純です。2節から9節までは弁護士テルティロによる告発の言葉、続い て10節から21節まではパウロの弁明です。22節以下は、その結果です。そ して、この章は次の言葉で終わります。「さて、二年たって、フェリクスの後任 者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気 に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。(27節)」二年経 ってなおパウロは監禁されたままです。その間、宣教の進展についてルカはほと んど何も記しておりません。ただパウロが、金を欲して呼び出すフェリクスと語 り合ったということだけです。それも、パレスチナの総督フェリクスが回心して その地方が変わったということではありません。これまでのパウロの伝道旅行の 記事となんと対照的でしょう。何一つ心躍るようなことは書かれていないように 思われます。色に例えるならば灰色とでも言いましょうか。しかし、そうである からこそ、ここに私たちの聞くべき言葉があるのかもしれません。私たちもいわ ば極彩色の中を常に生きているわけではないからです。灰色の時もある。そして、 そこでこそ聞かなくてはならない福音の真理があるのです。

パウロに対する訴え

 パウロが到着して五日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロ を連れてカイサリアに下って来て、総督フェリクスにパウロを訴え出ました。パ ウロが呼び出されると、弁護士が論告を始めます。その言葉は2節以下に記され ております。これはもちろん全体の要約に過ぎないものでしょう。しかし、それ にしては前置きの長さが目を引きます。ルカは、裁判官の好意を得ようとするこ のような言葉を、単に当時の慣例として記しているのではありません。ここに語 られている内容は明らかに事実に反するからです。テルティロは「閣下のおかげ で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、い ろいろな改革がこの国で進められています」と切り出しました。しかし、現実に は、彼の在任期間にユダヤ人の反ローマ闘争による反乱が増えたのです。ヨセフ スやタキトゥスなど古代の歴史家は、そろってフェリクスの残忍性に言及してい ます。彼が反乱者を情け容赦なく処刑していったので、結果的には反抗運動の火 にかえって油を注ぐこととなったのでした。テルティロは続けます。「私どもは、 あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝 しているしだいです。」ユダヤ人たちは、実際はフェリクスに感謝も称賛もして いません。むしろ古代の歴史家は、ユダヤ人代表団による皇帝への直訴によって 最終的にフェリクスが失脚したことを記しているのです。もちろん、ルカもその ことを知っているはずです。しかし、その上でなおこの長々とした前置きを記す のは、それ自体がこの論告の本質を現しているからです。すなわちユダヤ人たち の告発の言葉がいかに真実を欠いたものであるかを示しているのです。

 さて、テルティロの論告の内容を見てみますと、パウロに対する訴因は三箇条 から成っています。第一は、パウロが「疫病のような人間で、世界中のユダヤ人 の間に騒動を引き起こしている者」であるということです。彼らはフェリクスが 反乱者に対して無慈悲であることを知っていました。そこでまずパウロを社会的 騒乱を引き起こす人物として訴えているのです。

 それに続けて第二点に触れます。パウロは「ナザレ人の分派」の首謀者である。 ここで「分派」と訳されている言葉は、ファリサイ派やサドカイ派についても用 いられる言葉でありますが、ここでは明らかにユダヤ教の枠から外れる異端であ るという主張であると見てよいでしょう。ユダヤ教はローマ帝国においては公認 宗教であり、保護を受けていました。それゆえ、そこから外れているという訴え は、すなわち違法であり処罰の対象であるという主張となるわけです。

 そして、最後に、パウロが「神殿を汚そうとした」ということを挙げます。一 見ローマ人には関係のないことをどうして訴えたのか。それは、最終的に彼らが 望んでいたのは、ローマ人によってパウロが処罰されることではないからです。 パウロをユダヤ人議会の手に取り戻すことだったからです。「これは私たちの宗 教の問題であり、神に関わることなのだ。だから私たちの手に裁きを委ねてほし い」ということです。ですから、写本によってはこの後に次のような言葉が続き ます。「そして、私どもの律法によって裁こうとしたところ、千人隊長リシアが やって来て、この男を無理やり私どもの手から引き離し、告発人たちには、閣下 のところに来るようにと命じました。(使徒言行録巻末参照)」パウロは本来神 の律法によって裁かれるべきだ、と訴えているのです。

 さて、神殿を汚したという訴えは、一見すると宗教の問題であり、律法の問題 であり、神の御前での正義に関わる問題に見えます。いわば彼らは神の御名のた めに怒っているのであり、彼らの関心はそこにあるように見えるでしょう。しか し、実際はそうではありません。この最後の訴えこそ、まさに最初のお世辞の言 葉と併せて、この論告が人に対する不真実のみならず、いかに神に対する不真実 であるかを現しているのです。パウロが「神殿を汚そうとした」というのは、具 体的には「パウロが異邦人を境内に連れ込もうとした(21・29)」というこ とです。それは彼らが異邦人を汚れた者と見なしていたからです。しかし、その 汚れた者を神殿に入れることは神の前に死に当たる罪であると考え、その者を罰 することを神が求めておられると主張していながら、もう一方では「汚れた異邦 人」であるフェリクスに訴えているという事実。これはいったい何なのでしょう。 しかも長々とした事実に反するおべっかまで使って訴えている。神の名によって 裁いていながら、結局は何が神の御前で正しいことであるかという関心は失われ、 神の名は大義名分としてしか残っていないことが分かります。その心が神を離れ る時、人の正義はかくも当てにならないものであります。実に人間は自分の願う ところを実現するために、いくらでも神の名と正義を引き合いに出すものだから です。

パウロの弁明とその結果

 そのような彼らの訴えに対して、パウロが弁明をいたします。「疫病のような 人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている」という第一点に関し て、パウロはエルサレムの出来事のみについて触れます。というのも、この裁判 そのものが、そもそもエルサレムでの騒動に関するものであるからです。パウロ はエルサレムに来てまだ短期間であることを指摘します。の期間に論争をしたわ けでもないし、ましてやそのような短期間の滞在で人々を扇動するようなことが 出来るわけがない。そのことを示して反駁しております。

 「ナザレ人の分派の首謀者である」という第二点に関するパウロの弁明は14 節以下に記されております。パウロは率直に「ナザレ人の分派」であること、す なわちキリスト者であることを認めます。その上で、これが決してユダヤ教から 外れた異端などではなく、同じ神を礼拝し、同じ聖書に書かれていることを信じ、 同じ希望を抱いていることを語るのであります。いや、むしろ、そこにいた大祭 司アナニアを含め、サドカイ派の人たちは預言者の書に書いてあることを認めま せんでしたし、復活も認めてはいませんでした。それゆえ、もしパウロが枠の外 であると言うならば、ましてやサドカイ派は外にいるということになってしまい ます。彼はこうして第二の論点に反駁したします。

 第三の、パウロが神殿を汚したという訴えについては、そもそもそのことを訴 えた「アジア州から来た数人のユダヤ人」がそこに来ていないということを指摘 いたします。彼らが来ていなかったのは、その存在がこの裁判にとって不利にな ることが分かっていたからでしょう。彼らが出頭していたとしても、パウロが神 殿を汚した根拠を挙げることは不可能だったからであります。

 この訴えと弁明のやりとりを通して明らかにされていることは、パウロは無罪 であるということであります。ローマの法に照らしても、パウロを有罪とする根 拠はまったくないし、神の律法に関してもパウロを罪に定める根拠は何もなかっ たということです。

 しかし、その結果はどうなったでしょうか。22節以下をご覧ください。フェ リクスは「この道についてかなり詳しく知っていた」と書かれております。つま り、キリスト教については知っており、ユダヤ人からの訴えは彼にとって耳新し いことではなかったということです。しかし、フェリクスは、このような事実無 根の訴えのもとにあるパウロについて無罪を宣言しませんでした。総督は「千人 隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下す ことにする」と言います。その後、確かにリシアは召喚されましたでしょう。し かし、裁判はさらに延期されたようです。パウロの監禁は二年に及びました。そ して、フェリクスが失脚し、罷免される時も、彼はパウロを監禁したままにして おいたのです。なぜこのようなことになったのでしょう。

 フェリクスの動機は少なくとも二つ考えられます。その一つはやはりユダヤ人 の好意を得ることであったと思われます。ただでさえ、ユダヤ人の度重なる反乱 によって頭を悩ませているのです。ここで最高法院の機嫌を損ねるようなことは したくありません。そして、もう一つは、パウロから賄賂を受け取ろうとしてい たということです。26節に、「金をもらおうとする下心もあった」と書かれて いる通りです。5節で「ナザレ人の分派の首謀者」としてパウロは訴えられてお りました。そして、17節でパウロは「同胞に救援金を渡すため」にエルサレム に上ってきたことを語っています。パウロは相当のお金を動かせるに違いない。 パウロの釈放を早めるためならば、いくらでも金は集まるに違いない。フェリク スはそう睨んだものと思われます。

 もっともらしい大義名分のもとに訴えられ、それに対する道理の通った弁明が、 人間の欲望と都合のもとに踏みにじられる。そうして、パウロは何年にも渡る無 駄とも思える時間を、監禁された囚人として過ごすことになるのです。いや、彼 はこの後ローマに移されることになりますが、結局解放されることはなかったの です。しかし、パウロの事情の特殊性にかかわらず、この結末のなんと身近なこ とでしょう。私たちの周りにも、道理が通らないことや、不当な苦しみや悲しみ は満ち溢れているではありませんか。そして、なんとしばしば、人は無駄に失わ れていくとしか思えない時を過ごさなくてはならないことでしょうか。結局、私 たちが感じるこの場面の暗さはそこにあるのです。

復活の希望

 しかし、私たちはここでパウロの姿に目を向けなくてはなりません。確かにパ ウロはフェリクスの要求する賄賂を与え、釈放されることも可能だったでしょう。 パウロがこの後ローマに行くことを望み、更にはイスパニアにまで福音を伝えた いと願っているばらな(ローマ15・24)、なんとしてでも外に出るべきだと 人は考えるかも知れません。いつ解放されるか分からないところで時を過ごすこ とは短い人生においてどれほどの損失であるか、それは誰もが考えることだろう と思います。しかし、あえて不当な監禁に留まり、賄賂を求めて繰り返し呼び出 すフェリクスと妻のドルシラに「正義と節制と来るべき裁き」を語るパウロの姿 を私たちはここに見るのであります。言い換えるならば、その不当な監禁の期間 を、彼らに福音を語るべく遣わされている時として受け止めているパウロの姿が あるのです。そして、先に進むことができる「時」を待ちつつ、与えられた伝道 者としての務めを果たすのです。パウロを「待つ人間」としたのは何か。それは 他ならぬパウロ自身の語っていた復活の希望でありました。

 15節をもう一度ご覧ください。「更に、正しい者も正しくない者もやがて復 活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も 同じように抱いております。」この言葉を、ただの弁明のための言葉として捉え てはなりません。パウロはこの信仰に生きているのです。パウロは確かに復活に 向かって生きているのです。この世の人生がすべてであると思っている人は待つ ことができません。復活に向かう人は神の時を待つ人となります。「この希望は、 この人たち自身も同じように抱いております」と彼は言いました。確かに復活の 信仰は、ユダヤ教においても正統的な信仰の箇条です。しかし、この場面におい て、本当にその希望に生きているのは、パウロだけでありました。それはなぜか。 パウロの抱いている復活の希望は、キリストの復活という出来事にも基づいてい るからです。彼の人生そのものが、復活のキリストによって呼び出され、復活の キリストに仕えている人生であるからです。

 「正しい者も正しくない者もやがて復活する」。それは、要するに死が終わり ではない、ということです。そして、正しい者も正しくない者も、神の御前に出 なくてはならないということであります。聖書が「正しい」と言う時、それは単 に世の道徳の話ではありません。これは神との関係に関わる言葉です。言い換え るならば、神との関係が最終的に問われるということです。それゆえパウロは 「神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努 めています」と言いました。彼にとって最大の課題は、ただ神との関係が正しく あり、神の与えてくださった道を全うすることでありました。私たちは改めてこ のパウロの姿を思います時、私たちもまた目を向けるべきところに目を向けて生 きなくてはならないと思わされるのであります。

 
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